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「結城かのみの憤慨」

 ――朝である。

 雀の鳴き声が喧しくなってきたころ、俺はのそのそと身体を起こした。

「……ふぁーあ」

 身体を伸ばして、大きく伸び。しっかりとした睡眠を取ったおかげか、気分は壮快、心境も心持ちスッキリしているなど、昨日とは大違いだ。やっぱり睡眠はとるべきである。うん。

「……しかし、だ」

 何だかんだ言いながらも、俺とて一介の男子高校生である。そして、身体的に何の異常も抱えていない年頃の男の子の寝起きには、どうしようもない生理現象というものがありまして……。

「……朝から元気ですなぁ」

 掛けたタオルケットを持ち上げて、自分の息子とご挨拶――というとあまりにも下品かもしれないが。ともかく、少しの間身動きが取れない状態に陥っているわけで。

 幸いなのは、結城がまだ寝ていることか。寝る子は育つというが……流石に寝過ぎだよなこいつ。思春期ってすげぇ。

 まあ、今はこいつの血圧の低さと睡眠欲に感謝をしつつ、ちょっとの間、人生についてでも考えるとしようか。

「……………………」

 朝日を浴びながら、ぼんやりと窓の外を見上げる。今日は晴天らしい。晴れ渡る青空のところどころに浮かぶ白い雲を見ながら、あの雲は何処に行くんだろうかとか考える。

「……………………」

 なんとなく視線を落とせば、塀の向こうの道路にはジャージを着てランニングをする男の姿が。何処かで見た顔だなーとか考えつつ、そう言えばクラスメイトの一人だった事を思い出す。

「……………………」

 周囲の音に気を配れば、起き出してきた寮生の足音と話し声。普段と変わらない生活音を聞きながら、なんとなく、今日の朝食に思いをはせた。

「……………………よし」

 落ち着きました。今度こそおはようございます。っと。

 立ちあがって伸びをする。さて、とりあえずトイレに行って、顔を洗ってと。そうこうしている間にも、結城は起きる様子もなく、一度寝がえりを打っただけだった。……思春期ってすげぇ。

 とはいえ、何時までも寝かせておくわけにもいかない。そろそろ朝食の筈だ。俺は普段通り、ゆっくりと結城の近くまで近づくと、その耳元に顔を寄せて――噛んだ。

「うひゃうっ!?」

 びくんっと身体中を震わせて結城が起床する。それを確認してから、俺は身体を起こした。

「な……な……な……!?」

「おはようお嬢さん。今日もいい天気ですね」

 耳を押さえ、目を点にして俺を見つめる結城に、俺は爽やかな笑みを見せた。

「いい天気――じゃないですよっ! なな、何やってるんですか!?」

「何って……朝の挨拶?」

「だ、だからってどうして耳をか、か、噛むんですかっ! 意味が分かりません!!」

 いやぁ。昨日は息を吹きかけるだけだったから、今日はもう一歩ステップアップしようかと。

「大丈夫。今のくらいは未だスキンシップの範疇だよ」

「んなわけねーですっ!」

 まあ、そうよね。

「良いじゃん。ほら、目が覚めてスッキリしただろ?」

「こんな目覚めは最悪です……」

 うう。と顔を真っ赤にして、結城は俯く。……ふむ。流石にやり過ぎただろうか。これはアレか、謝った方が良いのか? なんて、他人事のように思っていると。

「……こら。何やってんだアンタは」

「っだ」

 呆れたような、若干怒り混じりの声とともに、後ろから頭をド突かれた。頭を押さえて振り向くと、そこには寮監様の姿が。

「……寮監様。幾らなんでも、何の挨拶も無しに勝手に部屋に入ってくるのはどうかと思うの」

「いや、ノックしたし。気付かなかったのアンタじゃん」

 それよりも。と、寮監様は腰に手を当てると、思いっきりため息を吐く。

「……アンタ、昨日のアタシの言葉、スッキリ忘れてんじゃないでしょうね」

「いやいや、覚えていますともよ」

 流石に昨日の今日で忘れる筈が無い。それも、あんなに重要な話をしていたのだから、余計にだ。

「じゃあ、なんでそういうことすんのかねぇ……」

「…………?」

 はて。果たして俺の行動に、何か変な所があっただろうか。

「ああ、自覚無しか……じゃあもう処置無しね」

 そう言って、寮監様はがっくりと肩を落とすと、ベッドに腰掛ける結城の肩を掴み、深刻そうな顔で言った。

「……かのみちゃん。ホント、何かあったらアタシの部屋に来なさいね。大丈夫、外の奴らにばれようが、こいつがミンチになるだけだから」

「は、はあ……」

「おーい……」

 ぽかんとした顔で頷く結城。いやいや、納得しないでくれよ。もっと俺に優しくしてくれ。

「アンタが態度を改めれば考え直してやっても良いけど」

「だから、何を?」

 首を傾げると、寮監様は呆れ顔でやれやれと首を横に振った。

「……ったく。それよりも、ほら」

「……おお」

 寮監様が指を差した先に目を向けると、何時の間にやら、ちゃぶ台の上に今日の朝食が置かれていた。

「ちゃんと持ってきてくれたんだな。ありがとう」

「別に。持って来なかったら、アンタ、またこの子に朝食あげちゃうでしょ。アンタがちゃんと食わなかった所為で倒れられても、アタシが困るだけだし」

 頭を掻きながら、微妙にツンデレっぽい台詞をくれる寮監様。しかし寮監様は別にツンデレというわけでもないので、他意はなさそうだ。

 ともかく、好意は素直に受け取っておくことにする。……が、しかしだ。疑問に思う所が一つ。

「……何故、二人分?」

「――は?」

 寮監様がぽかんとした表情で俺を見つめた。いやいやいや、その顔をするのはむしろ俺の方だと思うんだけど。

「何バカな事言ってんの。アンタもここで食うんでしょうが」

「……え、そうなの?」

 素で返すと、寮監様が渋い顔をして俺を睨む。

「……アンタ、本当に馬鹿なのか」

「えー……いや、だってさ。俺もうここで食う必要無いじゃんか」

 昨日までならともかく、寮監様公認で、しかもこいつ用の飯まで貰えるというのならもう俺が調子の悪い振りをする必要もない筈だ。

「……アンタは、こんな女の子にこんな部屋で一人寂しく朝食を食えというのか」

「……う」

 ……いや、確かにそうだけどさ。でも、そんな何日も部屋で飯食ってたら、流石に他の奴らも何かがおかしいと思い始めるんじゃないだろうか。なんて不安が、俺にはあるわけで。

「あーだいじょうぶだいじょうぶ。アンタの事なんて誰も気にしてないから」

「げふぅっ!?」

 予想外の辛辣な一言に、俺は胸を貫かれたような気分でよろめいた。確かに友達と言える奴は相川ぐらいしか居ないけどさ。でももう少しオブラートに包んでいってほしかった! 自覚はしてても他人に言われるとざっくりくるんだよ!

「ま、今のは半分冗談だとしても。良いよ。アタシの方からそれとなく言っておくから。アンタの自称ならともかく、寮母であるアタシの言葉ならアイツ等も信じるでしょ」

「信頼されてるんですねー」

 胸を張る寮監様に、結城は間の抜けた台詞と共に羨望の眼差しを向ける。……うん。まあ、信頼されてるっていうか崇敬されてるからね、この人。強いて言うなら軍隊の上官的な。話す時は前と後ろにサー。返事は『イエス・マム!』みたいな。

「で、そこでアホな事を考えてる顔してる麻上くんは、一体何を考えてるのかな?」

「サー! 何でもないであります! サー!」

 背筋を正し、上官様の問い掛けに返答する――あ、やっべ。

「――――」

 頭を思いっきりぶん殴られる。痛いです。サー。

「だからアタシは上官でも無いし、ここは海兵隊でも無いって何度言ったら分かるんだアンタらは!!」

 背後の結城が怯える程に声を張り上げる上官様――じゃなかった、寮監様。だから、その威圧感がらしいんだと思う。まあ、別に説明なんてしないけど。

「……あー、もう。じゃあ、アタシはあっちに戻るけど、食い終わったら盆は置いといて。後で回収に来てやるから」

 寮監様は頭を抱えて一度息を吐くと、投げやりにそう言った。俺は彼女に最大級の敬意を込めて姿勢を正すと、右手の指先を伸ばし額に付けて返す。

「イエス・マム!」

「…………」

 無言で蹴り飛ばされた。朝食を置いたちゃぶ台をどうにか避けて倒れたのは、奇跡だと思う。

 バタンと荒々しい音とともに扉が閉められる。あっちゃあ、不機嫌にさせてしまった。この様子じゃ食堂で何人かとばっちりを受けそうだな。ごめん皆。でも昨日は俺を散々痛めつけてくれたので、その報いだと思ってほしい。

「……鈴太さん」

 そのまま床に仰向けに倒れていると、ベッドの上から結城が、何とも言えない苦笑のようなものを浮かべて覗きこんできた。

「……アホですね」

 はっはっは。自覚はあるんだな。これが。



「――んじゃ、俺は学校に行くけど……気を付けろよ?」

「んー。大丈夫です」

 結城は俺の言葉に答えつつも、ベッドの上に寝転がりながら俺の漫画(全年齢)を読んでいる。……すっかり自分の部屋のようにくつろいでいやがるあたり、俺も大概だと思うけど、こいつの度胸も凄いと思う。

 もっとも、そうでもなければ家出なんて真似は出来ないか。それだけの行動力があるくせに、本人は気弱で、消極的……と。なんというか、アンバランスだなぁ、こいつ。

 しかし、思い返せば初めからそんな感じではあったかもしれない。例えば、こいつがあの夢物語みたいな過去を語っている時、こいつの印象からは考えられないくらいに饒舌で、生き生きとしていた。

 多分、自覚すると駄目なのだ、こいつは。無自覚に危ない橋を渡り続けて、それを自覚した途端、足が竦んでしまう。まるで、考えなしに樹に上った猫が、そのまま降りれなくなってしまうように。

「……? あれ、鈴太さん、行かないんですか?」

「ああ、悪い。行くって」

 ついつい思考に埋没していた。軽く両頬を叩いて気を取り直し、俺は踵を返した。

「んじゃ、行ってくるな」

「はい、行ってらっしゃい」

 気の抜けた緩い笑みを浮かべて見送る結城に、手を振り返しながら、こういうのって、何か良いよな……何て、アホな事を考えていた。




「……ふう」

「おはよう麻上。今日は昨日より調子良さそうだね。よかったよかった」

 自分の教室にたどり着き、鞄を机の上に置いて一息入れていると、何時の間にやらやって来た相川が、何時ものように俺の前の席に座っていた。

「……たまーに、お前が前の席なんじゃないかと錯覚しそうなんだけど、違うんだよな」

「あはは。確かに、もう少し席が近ければよかったのにね」

 苦笑を浮かべる相川に、少しだが同意した。なにしろ俺の席は廊下側で、相川の席は窓側である。お互いに相手くらいしか気の置けない友人を知らないので、この距離はどうにも辛い。

「……ま、クラスが同じだっただけでも儲けもんだ。去年なんて1組と5組だったろ」

「よっぽどの用でも無いと校舎の端から端なんて往復したくないもんねー」

 ハニーフェイスを歪めて相川は苦笑すると、「ところで」と話を続けた。

「ところで麻上。調子がよさそうって事は、それなりに順風満帆ってところ? 例の件はそれなりに上手く言ってるのかな?」

「ああ……ま、それなりにな。やっぱ林檎ちゃんが力になってくれたのがいちば――やべ」

 慌てて口を塞ぐが、遅かった。周囲の男子の恨みがましい視線が、一斉に俺に集まる。

「……あー。寮監様。ね。うん。いや、ここ最近調子悪かったせいで、寮監様に迷惑かけちゃったなーって話なんですよ。うん」

 頭を掻きながら適当に出まかせを口にすると、男共は一様に舌打ちをしつつも、一応は目を逸らしてくれた。誰も俺を気にしなくなった所で、胸を撫で下ろす。相川は呆れ切った様子で、肩を竦めている。

「……なあ、ちょっとはフォロー入れてくれてもよかったんじゃないの、今の」

「悪いけど、僕が力になるって言ったのは、あくまで彼女の事だけだからね。君のうっかりまで責任は持てないよ。……大体、そんな事をしていたら、常に傍で待機してなきゃいけないし」

 失礼な。人をうっかり魔人みたいに。そう突っ込むと、そのままじゃないかと返された。……くそう。

「まったく。寮監様は皆の憧れ――アイドルなんだから、あんまりそういう発言は慎むこと。そうでなくとも君はほら、寮監様と特に仲が宜しいようなので、周囲に嫉妬されてるんだから」

 アイドルって歳でも無いだろと危うく口に出しかけて、どうにか寸前で押し止めた。なるほど、確かにうっかりだな。俺。

「じゃなくて、何言ってんだ。あの人だったら誰でも気さくに話しかけてくれるだろ。別に俺が特別ってわけじゃない」

「んー……まあ、確かにそうなんだよねぇ。多分君にもそんな気は無いのだろうし、寮監様だって、君を特別扱いしてるつもりは無いと思うんだ。……ただ、ここで問題なのはだね、双方ともにそんな気は更々無いのに、周囲にはそう見えるって事で……うーん。こればかりは君の問題じゃないからねぇ」

 難しい顔をして首を捻る相川。どうやら俺の事で悩んでいるらしいが、当の本人に自覚というか、実感がまったく無いので、何とも言い難い。結局俺は、憂いを帯びた相川の顔を見ながら、美少年は悩んでいても映えるんだなぁ。なんて事を考えていた。




 ――そんなこんなで、昼休みである。

 昨日は結城の為に購買でパンを買い、ダッシュで寮まで戻ったものだが、今日は寮監様が一緒に昼食を作ってくれるらしいので、俺が戻る必要は無いらしい。さすが寮監様。

 そんなわけで、俺は財布を持って立ち上がると、窓際の相川の席に近づく。

「相川。学食行こうぜ」

「うん。ちょっと待ってね」

 相川は先ほどまでの授業の教科書やノートを机の中にしまうと、机の端に掛けた鞄を持ち上げ、すっと立ち上がった。

「んじゃ、行こうか」

「おう」

 そのまま、相川を連れだって教室を出た。ここから学食までの距離は決して遠い訳でもないが、昼時には当たり前に混雑するので、少しだけ速足で歩くことにする。

「麻上は今日は何を食べるの?」

「あー、金無いしな。……素うどんで良いや」

 財布を振って小銭の音を鳴らす俺に、相川は苦笑を洩らした。

「仕方ないなー。今日は奢ってあげるよ。カツ丼でも何でも」

「……マジで?」

 思わず真顔で聞き返すと、相川はますます頬を緩めてくすくすと笑う。

「まじまじ。昨日は朝も夜もあんまり食べれなかったみたいだしね。それに君、これから色々と大変でしょ? ここらで力を付けておかないと」

「……そう言われると、何とも返せん」

 そんな会話をしていると、食堂に付いていた。

「んじゃ、僕は食券買ってくるから、麻上は席取っといて。あ、一応聞いておくけど、本当にカツ丼で良い?」

「オッケーオッケー。あ、ちょっと鞄だけ貸してくれ。席取りに使うから」

 相川は頷くと、財布だけを取り出して、残った鞄を俺に投げてくる。

「それじゃあ行ってくるね」

「おう」

俺が鞄を受け取ったのを確認して、相川は人ごみに突っ込んでいった。……あの細い体で大丈夫だろうか。

「……っと、席取り席取りっと」

 混雑する長机の間を横切って席を探す。とはいえ、たかが二人分だ。席はあっという間に見つかった。俺は椅子に座り、隣の席に相川の鞄を置いた。

「…………ふぅ」

 そんで、ため息。

 飯を食うためとはいえ、どうにも人が多い所は苦手だ。

 独りが好き――何てアホな事は言わない。実際、相川と居るのは楽しいし。俺が苦手なのは単に、見知らぬ他人――自分が知らない、自分が信頼できない誰かが居る環境ってのが、堪らなく苦手なのだろう。

 いわゆる、対人関係に悩むタイプです。

「……ま、どうでもいいけどさ」

 ぼそりと呟き、机に肘を付いて頭を乗っけた。後は相川が飯を買ってくるのを、餌をもらう前の犬の如く待ってるだけだ。

「……な、なあ、麻上」

「……んあ?」

 ぼんやりと、今の結城の事に思いを馳せていた所、俺の向かいに座っていた男子が、何故か俺に話しかけてきた。確か、こいつは……。

「……えっと、誰?」

 がっくりと肩を落とす男子生徒A。

「……俺、お前と同じクラスなんだけど……」

 へえ。それは知らなんだ。

「知っててくれよ! お前の前の席の長谷川だよ!」

 ……あれ、俺の前の席って相川……じゃねぇや。アイツ窓際だ。

そうか、前の席の奴なんていたのか。

「へえ。長谷川っていうんだお前」

「名前くらい……覚えててくれよ……」

 哀れ男子高校生A。しかしそうは言ってもだ、クラス替えから未だ一カ月も経って無いのに、そうそう人の顔と名前なんて覚えてられないっつうの。

「ま、まあいいや……それでさ、麻上。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 と、めげずに話しかけてくる男子Aくん。意外にしつこ……根性があるらしい。

「何さ。因みに昨日の騒ぎだったら本当に無実なんだからな、俺」

「ああ……まあ昨日のは悪乗りって言うか……いや、そうじゃなくてさ」

「ところでさ、根性があるって聞いて思い浮かぶ人物像と、しつこいって聞いて思い浮かぶ人物像って結構真逆だよな。本質的には同じ筈なのに」

「何の話!?」

「いや、ふと思い浮かんだんで」

「お願いだから話を聞いて!?」

 男は身を乗り出して声を荒げた。

「な、なんだよ……」

 深刻な表情で迫ってくる男子Aに、俺は思わず仰け反る。何こいつ怖い。

「話、聞いてくれるか……?」

「ああ……」

 呆然としつつも、数度頷く。男子Aの顔は真剣だ。どうにもマジな話らしい。そんな話を、何故俺に? そんな疑問が浮かぶが、男は俺の疑問など気にすることなく言葉を続ける。

「そうか……じゃあ、気を取り直して……」

 椅子に座り直し、顔を俯ける。その顔は酷く深刻で、聞いているこちらも無意味に緊張してしまう。

「その……話というのは、な」

「ああ……」

 ごくりと唾を飲む、果たして、男は口を開いた。

「その……相川の事なんだ」

「――は?」

 ぽかんと、口を開いたまま、俺は硬直する。随分と思い悩んでいるようだったので、さぞとんでもない話題が飛び出すのかと思えば、男子Aの口から飛び出したのは、あの気の置けない友人の名前だった。なんだろう、思いっきり肩すかしをくらった気分。

「……どうした、麻上?」

「ああ……いや、なんでも。続けて」

 暫く呆気に取られていたが、男の顔つきが未だ真剣なので、未だ話は終わりじゃないということを悟る。このまま続けても何の益にもならない気はしたが、半ば強制的とはいえ、聞いてしまった話だ。最後まで聞くのが筋ってもんだろう。

 男子Aはふうと息を吐いて、少しずつ絞り出すように言葉を紡ぐ。

「その……だな、相川って、背、低いよな」

「ああ、そうだな」

 確かに。アイツの身長は、男子高校生の平均身長よりも随分と低い。結構気にしているようなので、本人の前では言わないが。

「それで……細いよな」

「ああ。まあな」

 答えながら、何時か体育の時に見た、あいつの身体を思い出す。飯を食えと忠告したが、食事はしっかり取っているらしい。燃費が悪く、肉の付き辛い体質なのだそうだ。

 ……つうか、どうして男二人で寄りあって、男の裸何ぞ思いださなければいけないのだろう。頭に浮かんだ想像に、顔を顰めていると、男子Aはしかし気にせず話を続ける。

「んでさ……顔、可愛いよな」

「……あー」

 その一言で、大体こいつの言いたいことが分かった。全力で立ち去りたいのだが、何しろこの混雑だ。それに席取りも兼ねているので、あんまり動きまわりたくは無いし。

 なので、俺は一度息を吐いてから、真剣な表情で男Aを睨む。あんまり真面目な話とかはキャラじゃないのだけど……まあ、親友の貞操の危機だしな。一大事だから仕方が無い。

「……なあ、ひとつだけ言っておくぞ」

「……あ、ああ」

言いながら睨みつけると、こちらの思いが伝わったのか、男子Aは少し仰け反る。

「……あのな、確かにあいつはハニーフェイスで、男子高校生にしては可愛い顔をしてるかもしれない。……身長も低いし、身体も細い。……髪型もボブっていや通用するような髪型してるしな」

 けどな――と俺は、一度言葉を切り、男の瞳を、再び睨み返しながら、言った。

「――アイツは、正真正銘男だからな」

「――――」

 ぽかんと口を開いて、男子Aが硬直する。それを見て、俺は肩を落とした。

 俺の友人、相川君は、昔はその身長と容姿から、しばしば女性に間違えられることが多く、酷く困っていたらしい。

 それでも、この高校に来てからは、間違えられることは無くなったようだ。何しろここは男子校。ここに在学しているということは、紛れもなく男なのだから。相川は女性に間違えられることも無くなり、気の合う友人も見つけ、ようやく静寂とした学校生活を手に入れた。

 ……が、そんな彼の静寂は、去年の秋、学園祭のとある催し物によって、粉々に破壊される。

 そう、いわゆる一つの『女装コンテスト』。

 本来はむさ苦しい男達の滑稽な姿を見て爆笑を誘う。ただそれだけのジョーク企画だったのが、思わぬ転換を見せた。

 ――そこに現れたのは、まさに美少女。何処かのセーラー服とニーソックス。エクステに薄いメイクまでして壇上に立ったその女神に、ここの愚鈍な男共は、一瞬で心を奪われた。

 ……それ以来である。『相川君、実は美少女説』が学校中を広まったのは。

 流石に体育で合同授業だった奴や、同じ寮住まいの奴らは相川が男だと知っているが、それでも未だ大部分は、その噂を信じていて……。

「……はあ。まあ、俺のせいでもあるんだけどな」

 何しろ、あの日アイツに女装コンテストへの出場を進めたのは、俺なのだから。ただのジョークのつもりだったのに……まさか、あんなことになるなんてなぁ。

 そんなわけで、この噂に少なからず責任を感じている俺は、こうして噂に踊らされ相川に迫る輩の露払いなんてやっているわけで。

「……ってことだから。お前の想いはノーサンキュー。絶対的に伝わらない。分かったらさっさと退け。おまえ、もう食い終わってんじゃん」

 強制的に話を終わらせて、追い払うように手を振った。このままこいつに居座られると、相川とはち合わせることになる。別にそれで何がどうなるわけでもないが、俺の心境に悪い。

「…………なあ」

 ――所が。男子Aの返答は、俺の感情の斜め上を行くものだった。

「相川が女だとか、お前、何言ってんだ」

「――――は?」

「いや。はじゃないだろ。アイツが男ってことくらい俺も知ってるよ。……つうか、俺、去年アイツと同じクラスだったし」

 ……唖然。開いた口が塞がらないっていうのは、なるほどこういう気分だったのかと今更思う。

「大体なぁ……」

 そうして呆気に取られている俺に、男子Aはため息を吐くと、酷く真剣な顔をして、言った。

「――あんな可愛い子が、女の子なわけ無いだろ」

 ――うわぁ。

 いや、知ってますよ? 俺も。その言葉くらい知っていますけども。

 実際に言ってるところを見ると、引くわぁ……。

「……お前その台詞、絶対に相川に言うなよ。アイツ女っぽいの、相当なコンプレックスみたいだから」

「そうなのか?」

 そうなのである。なら、女装コンテストになんて出るなよと突っ込みたかったが、それを進めたのが他ならぬ俺だった為に、どうにも言い辛かった。

「可愛いのになぁ……」

 反省の色も無くぼやく男。その顔は思いっきり恋してます。って感じである。……ああ、気持ち悪い……。

「……お前さ、今すぐどっか行け。そろそろ相川が来るから」

「え、やっぱり? ……でも、なぜ?」

 そりゃあお前。今のお前に相川を会わせたら、間違い無く爆発するからだよ。アイツが。ああ見えて沸点低いからな。

「ええ……で、でも、折角相川と飯が食えるんだぜ?」

「ええいうるさい黙れ。良いからここから消えろ。ホント頼む。マジでブチ切れるから。笑顔の魔王が降臨しちゃうから。怖いから」

 あの子大方の予想通り、笑いながら怒るからマジ怖いの。しかも容赦も無いからマジ怖いの。何時だったか、こいつと同じように相川に迫った三年の先輩が、卒業まで相川に怯えながら過ごしていたくらい怖いのアイツ。

 しかし俺の必死の訴えも、盲目になっている男には通用しないらしい。不思議そうに首を傾げると、はっと何かに気付いたように目を見開いた。しかし断言しよう、こいつの閃きは、間違い無く見当違いだ。

「や……やっぱり……お前と相川って……付き合ってんのか……?」

「……なるほど。俺に殴られたかったのかー。わかったわかった」

 机から身を乗り出して男の胸倉に掴みかかるが、長机が邪魔をして届かない。

「だ、だって……、結構噂だぜ? それこそあの噂を信じてる奴の中でとか! 相川は本当は女の子で、何時も傍に居る間の抜けた男と付き合ってるって!」

「誰が間の抜けたって……いや、そこじゃねぇ。だから、アイツは女でもねぇし、俺とも付き合ってねぇよ!」

「でも、あんな可愛い子と何時も一緒に居るじゃねぇか! 下心くらいあんだろ!?」

「お前と一緒にすんな変態!!俺は真っ当に女の子が好きじゃボケがぁ!!!」

 拳を振るうが、男は悲鳴を上げて身を退いた。そのまま踵を返し、逃げるように去っていく。……今ほどこの長机を邪魔だと思ったことは無い。

「お待たせー。……あれ、どうしたの? 立ちあがったりなんかして」

 男子Aと入れ替わるようにやって来た相川は、二つのお盆を抱えたままで首を傾げた。

「……んや。何でも無い。ちょっと変態を追い払ってただけ」

 俺は肩を落として、椅子に座りなおした。相川は不思議そうに首を傾げつつも、俺の前にカツ丼を、自分の席の前には日替わり定食を置いて、席取りに使った鞄を床に置くと、椅子に座った。

「……あれ、向いの人、片付けしないままで帰っちゃったのかな。お盆が残ったまんまだけど」

「……あー。そういやアイツ、盆を持たないまま逃げちまったな。……仕方ないから代わりに片付けてやるか」

 ますます面倒事を増やしやがって……男子A。

「なに? 知ってる人?」

「お前も知ってる。同じクラスの……なんだっけ。えっと……長、長宗我部?」

「そんな古めかしい名字の人は居なかった気がするんだけどなぁ……」

 なんだっけアイツ……名前を覚える気なんて一切無かったから、すっかり忘れてしまった。むしろ率先して忘れたい記憶でもあるし。

「えっとだな……分かりやすく言うと……俺の前の席の奴……らしい」

「僕じゃ無くて?」

「お前じゃ無くて」

「なるほど。それじゃあ長谷川くんだ」

 そう。確かそんな名字だった。もちろん覚えるつもりは無い。アイツは俺の中では永遠に男子Aだ。むしろ状況によっては男子BとかCに変わる場合もある。

「ふぅん……でも珍しいなぁ。麻上が同じクラスの男子と積極的に交流しようとするなんて」

「というより、一方的に絡まれたんだけどな……あ、そうだ相川、余計なお世話かもしれないが、あんまりアイツと親しくしない方が良いかも」

「何で?」

「……いやー。何かね。久々に変態が沸いたというか。まあ、そういう事」

 どうにも要領を得ない説明だったが、相川はすぐに察したらしい。露骨に顔を顰めた。

「……またぁ?」

「またなんだわ。これが」

 相川は一度ため息を吐くと、渋い顔をして頭を振った。

「……わかった。長谷川くんね。うん。僕から話をしておくよ」

「……お手柔らかにな」

 せめて、また相手が一カ月お休み何てことにならないよう祈りつつ、俺はカツ丼に箸を付けた。



「そういえば。さ」

 二人で他愛も無い話をしながら昼食に箸を付けていると、不意に相川が話題を区切る。

「ん……何? 改まって」

 箸を休め、相川に向き直る。相川は定食に付いていたキャベツにちまちまと口を付けながら、何でもない事のように言葉を続ける。

「んー。そういや聞いて無かったなと思って。結局どうなったのさ。件の話」

「件の……? ああ、あれ?」

「そう。あれ。例の女の子の話だよ」

「…………」

 思わず周囲を見渡した。こんな所で女の話なんてしたら、また袋叩きにあいそうだ。

「君、心配し過ぎ。大丈夫だよ。この喧躁だからさ、誰も男二人の話に何か注目し無いって」

「それもそうか……」

 普段は喧しいだけの食堂の人ごみにこれだけ安心したことは無い。胸を撫で下ろしていると、それで。と相川は話を続ける。

「それでどうなの? あの女の子。なんとかなりそう?」

「あのって……ああ、そうか。そういやお前、昨日俺の部屋を覗いて来たもんな。一応姿を見たことはあるのか」

 俺の言葉に、相川は首を縦に振ってにへらと笑う。

「あの背が高くて胸が大きい女の子だよねー。綺麗な人だったねー」

「それは寮監様だ」

 冗談だよ。と相川は言って、再び口を開いた。

「あの女の子……結城さん、だっけ? 大人しそうな娘だったね。確かに、あんまり家出とかするタイプには見えないかも」

「やっぱお前にもそう見える?」

 こくりと頷く相川。こいつはこう見えても人を見る目は確かなので、俺の曖昧な感覚よりはよっぽど当てになる。

「……とはいえ、実際家出してるわけだしなぁ」

「だよねぇ……そこら辺の話は、未だ聞き出していないわけ?」

 首を振って肯定すると、相川ははぁと肩を落とした。

「なんだよ」

「……なんでもない。まあ、あんまり深く踏み込まない方が良いかもしれないけどね。あの様子じゃ、悪いことをするような娘にも見えないし」

「……だよな」

 匿ってやる以上、確かに信用は必要だが、しかし俺たちの関係は、何処まで行っても行きずりの他人という関係でしかない。むしろ、変に事情を聞いて深みにハマってしまうよりは、現状維持の方がよっぽどマシかもしれない……が。

「……なんつうかなぁ」

「麻上は、気になっちゃうわけだ」

 俺が言いたかったことを先読みしていたかのように、相川は俺の顔に箸先を向けて言う。

「……何か悪いかよ」

「悪くは無いけどね。君がお節介なのは知ってるし」

 失礼な。そういうのは、あの寮監様みたいな人にこそ言ってやるべきだと思う。俺は単に知らないという事が気になっているだけで、心底あいつの為というわけではないのだから。

「……いや、良いんだけどね。それが君の美徳みたいなものだし」

 そう言って、相川は呆れ笑いを浮かべながら、残ったキャベツを口に運んだ。俺は、いまいち納得いかない思いで顔を顰めつつも、どんぶりに付いた米粒を纏めてかっこむ。

「ま。そんなに気になってるんなら……そうだね。今頃寮監様とあの娘も、仲良く昼ご飯を囲ってる筈だよね?」

「ん……? ああ、そうだな」

 頷く俺に対して、相川はお茶に口を付けながら、だったらと言葉を続けて。

「だったらさ、意外に寮監様が聞き出してるかもしれないよ。やっぱ、同性の方が話しやすいという事もあるだろうし」

「……いや、どうだろうかなぁ」

 同性……と言って良いのだろうか、あの二人。片や可憐な美少女。片や並居る男共を束ねる寮監様だぞ。同じと言ってもそれは端と端ぐらいに両極端というか……。

「またそんな事言ってると、色んな人にタコ殴りにあうよー」

「冗談だよ。半分くらいは」

 肩を竦める。……しかしまあ、確かにあの寮監様なら、案外であっさりとアイツから話を聞き出していそうだな。と思った。基本的に善人だし、お節介だし。何より俺と違って、安心感があるからな。

「……何か、男として負けた気分」

 複雑な表情で呟く俺に、相川はやれやれと肩を竦めた。




「…………」

 そうして、放課後である。

 別に急ぐ必要も、急ぐつもりも無かったのだが、何故か俺はHRが終わると同時に教室を出て、コンビニにでも寄ろうかなーとか考えながらも足は真っ直ぐに寮へと向かい、結局寮に直行してしまった。

「……心配し過ぎかね」

 寮の廊下を歩きながら、うぅむと一人唸る。

 急ぐ理由は、あまり無かった。別に放っておいても、結城は部屋で寝るか、漫画を読んでいるかしているだろうし、何より今は寮監様が俺たちの味方だ。

 寮監様は日中も基本的には寮に居るので、もしもアイツに何かがあったとしても、すぐさま駆けつけてくれるだろう。

 だから、本当は俺が急ぐ必要なんて無いのだが……。

「……まあ、あんまり寮監様にばかり、迷惑を掛けてもいけないしな」

 半ば強引に自分を納得させて、一度頷いた。……ともあれ、今更外に出るのも面倒なので、今日はこのまま、部屋に戻るとしよう。

 そんなわけで、自分の部屋の前まで来て、ドアノブに手を掛ける……が、その前に顔を顰めた。

「……………」

 ――まさか。と思いつつ扉を開ける。すると、そこには、

「――あ、お帰りなさい鈴太さん」

「おー。お帰り麻上。なに、随分早いね」

 結城と寮監様。……一回り近く歳の離れた二人が、妙に楽しそうに談笑していた。二人なのに姦しいって、なんだそりゃ。

「……お?そんな所に立ちつくして何してんのさ。ほら、早くこっち来なさいよ」

「……いやいや、何してんのはこっちの台詞だから。アンタこそ何して――って、酒臭っ!?何アンタ、まさか結城にも飲ませてないだろうな!!」

「バカ言わないでよ。一応学校関係者が、子供に酒勧めちゃまずいでしょうが」

 眉を顰めながら、寮監様は片手で抱えた一升瓶をちゃぶ台の上に置いた。コップは無い。ラッパかよ。

「……未だ日も落ちない内に酔っぱらってる奴に、学校関係者も何もないと思う」

「うっさいわねぇ。こんくらいじゃ酔っぱらないわよ。……それに、愚痴聞いてもらうのに酒のひとつも無いんじゃ盛り上がらないじゃない」

 ……どんな学校関係者だよ!

 見ると、結城も苦笑を浮かべている。俺は大きく肩を落として、頭を掻いた。

「あー……もう。はいはい。良いからさっさと出てけ。この部屋は俺の部屋なんだからな!」

「はいはい……よっと。そんじゃあね、結城ちゃん」

 寮監様は一升瓶を抱えて立ちあがると、結城の頭に手を置いてひと撫ですると、そのまま俺の傍を通り抜けて部屋から出ていった。……ったく。あの人は。

「……あ、そうだ」

 そういえば、寮監様に聞くことがあったんだった。鞄だけを部屋に投げて、俺は踵を返して寮監様を追う。

「おーい、林檎ちゃグフッ!?」

 重い一撃が腹を抉り、そのまま床に突っ伏した。振り向きざまの回転と一升瓶の重さを加えた、恐ろしく切れのいいボディブロゥ……。ホンマ恐ろしい人やで……。

「……はあ、アンタはホントに懲りないな」

 生徒が悶絶しているにもかかわらず、寮監様は腰に手を当ててやれやれといった感じで俺を見下している。

「……くぅうう……っだらぁ!」

「お、もう立ちあがった」

 腹筋に気合いを入れて立ちあがれば、寮監様は感心したように両手を叩く。……いや、心配してくださいよ。そこは。機嫌が直ったなら良いけども。

「それで、呼びとめておいて一体何の用?」

「ああ……それなんだけどさ。その……今日は結城とずっと話してたんだよな?」

「うん。それで?」

「その、結城から何か聞いてないか。例えばその……どうしてここにやって来たのか。とか、そういう事情」

 あー。と間の抜けた声を上げて、寮監様は天井を仰いだ。

「そういや、そんな話もしたかなぁ」

「マジで?」

 流石は相川。予想的中である。

「その話、詳しく教えてくれない?」

「良いけど……。何、アンタ聞いて無かったの?」

 寮監様が訝しげな瞳で俺を睨む。俺は、その視線から目を逸らし、頬を掻きつつ頷いた。

「……はぁ、アンタ、どんだけ善人なのよ」

 がくりと肩を落とし、呆れ気味に呟く寮監様。流石にここまで言われると自覚も出てくるが、それでもアンタには言われたくなかった。

「まあ良いだろ。別に。それで、アンタが聞いた話っての、教えてくれ。頼む」

「……つってもねぇ。アタシも詳しく聞いたわけじゃないんだけど」

「それでも良いよ」

 多少なりとも事情を知っているのと、全く事情を知らないのでは、やはり心境も対応も全く違うわけで。

「うーん。まあ、アタシが教えて良いのか分からないけども。まあアンタも、全然事情を知らない子を匿うのは気分が悪いわよねぇ……」

 寮監様は腕を組んで考え込むが、暫くして息を吐き、優しげな微笑みを見せた。

「……しょうがない。アタシが聞いたことなら教えてあげる。でも、アタシから聞いたなんて言うなよ。それと、あの子の前では知らないふりをしてあげること。それが優しさってもん。オーケー?」

「オーケー。分かってるよ」

 宜しい。と、寮監様は腕を組んで頷いた。

「つってもまあ、アタシが聞いたのも断片的なモノなんだけどねぇ……」

「とりあえず最初から説明してよ」

「そう?」

 それじゃあ。と寮監様は再び天井を仰ぐ。記憶を思い出しているようだ。……ともかく、ようやくアイツの事情が知れる。俺は覚悟を決めて、寮監様の言葉に耳を傾ける。

「えっと――まずは、アレだ。お父さんが悪魔に憑かれちゃってー」

 ――は?

「うん――それで、そうそう。確か、亡霊達が襲いかかってきてー」

 ……いやいや。ちょっと待て。

「それで家から逃げ出して……えっと、彷徨っていた所で……確か……そうだ」

 話に付いていけない俺を完全に無視して、寮監様は俺の顔に指を突き付ける。

「救世主様のご登場――だったかな」

「…………」

 沈黙。……それは、確かに一日目に聞いた、結城の事情そのものだった。

 ……アイツ、話したのかよ。寮監様にまでこの聞いているだけで背中がむず痒くなってくるような話を!

「いやー。あの子、凄いよねー。こんな話がスラスラと出てくるんだよ。もしかしたら何か書いてたりするのかな」

 俺の落胆などどこ吹く風といった感じで、寮監様はからからと笑う。俺はため息を吐きつつも、とりあえず寮監様との話を続ける。

「一応聞いておくけど、まさか信じてるわけじゃないよな、その話」

「ん? ああ。流石にねー」

「……でも、あいつの事は信じたと」

「ん? そりゃあね。例え内容に嘘が混じっているとしても、あの子はちゃんと説明してくれたもん。だったらアタシは信じるよ。……まあ、あの話を完全に信じるには、流石にアタシじゃ十年遅かったかもだけどねー」

 軽く苦笑いを浮かべながら、寮監様は手を振った。それを見て、もう一度ため息。……ったく、誰が善人だって? アンタの方がよっぽど善人じゃねぇか。

「……わかった。教えてくれてありがとな」

「はいはい。料理はちゃんと持って来てやるからね。あ、アタシが教えたって絶対に気付かれないようにしろよな!」

 ビシッと俺を指差す寮監様に手を振って、俺は踵を返した。

 ……部屋に、戻るか。



「あ、今度こそお帰りなさい。鈴太さん」

 ドアノブを回し、再び部屋に戻ると、結城は既に定位置と化したベッドの上で漫画を読んでいた。その顔を見て、俺は三度ため息を吐く。

「……? どうしたんですか? 疲れたような顔してますけど」

「なんでもない……いや、本当は色々言いたいことがあるけど、今は疲れたからもう良い」

 首を傾げる結城から視線を逸らし、俺は上着を脱いでハンガーに掛け、ついでに靴下も脱ぎ散らかすと、結城と寮監様が使っていたクッションを床に纏め、その上で横になる。

 ……今日は、なんかもう疲れた。

「……寝る。飯が来たら起こしてくれ」

「はあ……」

 結城の気のない返事を背に受けつつ、俺は瞼を閉じた。




「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした」

 夕飯も終わり、二人で箸を置いて手を合わせる。普段はこんな行儀の良い真似はしないが、結城が来てから、どうにもお互いに影響を受けている気がする。俺からすると悪いことではないので、別に良いのだが。

「さて……」

 結城は立ちあがり、本棚の方へと向かうと、漫画を数冊取った後、当たり前のようにベッドの上に寝転がった。……何というか、淀みねぇ。

「……まずいかね」

 ちゃぶ台の上の盆を纏めながら、気付かれない程度に呟く。

俺が結城に受ける影響は別に良い。どうにもこいつは育ちが良いらしく、様々な所で行儀が良いため、その影響を受けるという事は自然に作法が身につくという事だ。……が、こいつが俺から受けて居る影響は、どう考えても悪影響でしかない。というのが、何とも。

 折角可愛らしく可憐な少女だというのに、こうも自堕落な生活を続けていて良いものか。……いや、良くは無い。

 あんまりこいつがここで生活するのは、色々と宜しくない気がする。あと俺の青少年的精神衛生上も。

 ……だからこそ、早いとここいつをどうにかしたいので、せめてこいつの事情だけでも聞き出したいのだが。……何しろ悪魔だもんなぁ。

「……ったく。良くもまああんな話が……って、あ」

 ふと、全く関係のない、何気ない考えが頭に浮かぶ。

「そういやさ」

「はい?」

 結城は俺の方に見向きもせず、漫画を読みながら答えた。なので俺も何でもないように茶碗を片しながら、

「お前って、小説とか書いてるわけ?」

「――ッ!?!?」

 びくんと身体を震わせて、結城の顔が物凄い勢いで俺の方を向く。予想外の反応に、俺も戸惑う。

「なななな、何でですか……?」

 とりあえず落ち着け。

「あー……いや、ほら。あんな話がスラスラと出てくるくらいだからさ。もしかしたらと思ったんだけど……」

「な……な、そんなわけないじゃないですか……! あはは……! バカな事言わないで下さいよ! だ、大体、アレは事実だってずっと言ってるじゃないですか!」

「……あー、はいはい分かった」

 ……うん。書いてるな。これは間違いなく書いてる。どうでもいいんだけど。

 一度ため息を吐いて、再び食器の片付けに戻る。

 ……事実。ねぇ。

 今日日、小学生ですら騙せないような嘘を、こいつが吐き続ける理由はなんだろう。

 そんなに大変な理由があるのだろうか。……しかしそれにしたところで、こんな嘘を吐き続ける理由は無い。深い理由、他人に話せないような深刻な理由は黙りつつ、大まかな経緯だけでも話してくれれば、それだけで良いってのに。

 そんなに他人に話せないような内容なのか……それとも。

「……信用、されてないのかな」

「え…………」

 思わず呟いてしまった言葉に、結城がこちらを振り向いた。

「……いや。別に」

 何でもない。と首を振ると、結城はどこか困ったような慌てたような、何とも言えない表情で口を開いた。

「え、いや……あの! ……そんなことないですよ。私……その、鈴太さんのこと、信用してます」

「あー。良いって。別に……」

 結城がしどろもどろになるのを見て、我が事ながら、苦い顔をする。

 ……失敗した。これを、俺が言うのは反則か。今のこいつに取って、俺からの信用は一番に失ってはいけないものだろう。なにしろ、ここを追いだされたら、他に行くところなんて無い。のだろうから。

「……本当になんでもないよ。……悪かった。別にそんなつもりは無かったんだ。お前を困らせるつもりは――」

「で、ですから……! 本当に信頼してますってば!」

 読みかけの漫画本から手を放し、身を乗り出す結城。……あー。こんな年下の娘にまでフォローさせるとか。俺、本当に駄目だな。と自己嫌悪。

「別にそういうんじゃないです! わたしは、本当に鈴太さんのことを信頼してます! 鈴太さんは、その……凄く良い人ですし……」

「良い人ねぇ……」

 乾いた笑いを返す。一体俺の何処が、『良い人』に見えるのだろう。

 彼女を保護してあげたから? まさか。それが本当に純粋な気持ちだったのか、なんて、俺にも、彼女にも分からないだろう。

 明確に下心があったわけじゃない。しかし、そこにどんな感情が隠れていたか何て、分からない。……まあ、何だかんだでこいつは可愛いし。あわよくば――とか、そんな感情が、もしかしたらあったかもしれない。

 ……それに。

 そもそも、俺自身が、この状況を待ち望んでいた――なんて言って、こいつは信じるだろうか。

「……お前が思うほど、俺は良い奴じゃないよ。……多分、お前が思っている以上に、俺はお前を利用してるんだから」

 ――それは、多分。このつまらない日常に、苛立ちを覚えていたからこそで。

「……だから、あんまり簡単に人を信じるな。……大体、お前が俺の何を知ってるって言うんだ」

 口から出た声は、自分で思っている以上に冷たくて――どこか、切なかった。

「…………」

 俯く結城から視線を逸らし、俺はため息を吐いた。……我ながら、駄目人間にも程がある。自虐は一人でやるものだ。少なくとも、自分を頼ってくれている、信じてくれている人の前では、決してやってはいけないだろう。

 ……弱みを見せるということは、その信頼を、打ち崩すことだから。

「……あー」

 頬を掻く。悪い。と口にしようとした所で、

「鈴太さんこそ……」

 俯いたまま、結城が低い声で唸る。

「……ん?」

「鈴太さんこそ、わたしの何を知ってるって言うんですかっ!!」

「……!?」

 結城は唐突に声を荒げると、ベッドから降りて俺を睨みつける。

「自分勝手に自分ばかり悪者にしないでください! な、何も知らないのに……わ、わたしを良い人にしないでください!」

「……そう言うなら、いい加減本当のことを語ってくれよ」

 結城から視線を落とし、俺は呟いた。

「何か事情があるんだろ? 言えないような事情があるんだろ? 分かってるさ。だから深くは聞かないけどさ、それでも少しくらいは話してくれても良いだろ。それだけで俺は納得するから。それ以上は聞かないから。……だからさ」

「だから……!」

 俺の言葉を遮る結城の声は、何処かもどかしげで。

「鈴太さんは分かってないって言ってるじゃないですか! どうしてそうやって勝手に決め付けるんですか! 何も知らないのに――なんで……」

 結城は俯いて肩を震わせると、決意を固めたかのように、顔を上げて、

「――なんでわたしに理由があるなんて、勝手に思い込んでるんですか!」

「――――は?」

 ……その告白は、俺が呆気に取られる程度には、衝撃的だった。

「……いや、いやいや。まてまて」

 結城の方へと向き直り、俺は首を振った。食器の片付けとかしてる場合じゃない。

「……とりあえず座れ。な? うん。いったん落ち着こう。お互いに」

 肩を震わせる結城にクッションを一つ投げてやると、結城はそのクッションを床へ投げつけ、音を立てて座った。……怒っているというより、開き直ったという感じか。涙目だけど。

「……ふぅ」

 とりあえず深呼吸。……よし。

「……で、何だって?」

「……言った通りの意味です。……大体、どうしてわたしにそんな事情がある。なんて決めつけてたんですか」

 ……いや、だってさ。どうみても家出するような子じゃないし。中々事情も話さないし。それなら、人に言えないような深い事情があるって思うだろう。普通。

「……なにも無かったんです」

 そう言う結城の声は、諦めたような、何処か自虐的な雰囲気で。

「……わたし、ずっと、親の言う通りに生きてきたんです」

 ――そして、語りだす結城の声は、酷く元気のない、暗い声だった。

「うちの父親が厳格って話は、確かしましたよね?」

 頷く。……もっとも、それを聞いたのは、彼女の妄想話の中でだが。

「その部分は、本当なんですよ」

 結城はくすりと力なく笑うと、顔を俯けて言葉を続ける。

「わたしはですねぇ……その、厳格な親の下で、ずっと生きてきたんです。親が決めた学校に行って、親が決めた習い事をして。親が決めた時間に帰って。親が決めた時間に寝て」

 ずっと、そんな生活を続けてきたんです。と、結城は自嘲気味に笑う。

「……でも、お前未だ中学生だろ? ……いや、中学生にもなったら、流石に問題はあるかもしれないけれど。その前までは小学生だ。小学生だったら……多少厳しいかもしれないが、それくらい当り前じゃないか?」

「それが……わたしが中学に上がるまで、友達と遊んだことも無い。と言ってもですか?」

 ……それは。

 流石に……問題かもしれないが。

「……ずっと、そんなものだと思ってました。それが当たり前なんだって。……学校で遊ぶ友達は……まあ、それなりに居ましたけど。それでも、放課後は習い事をして……それで、家に帰って、ご飯を食べて、お風呂に入って。おやすみなさい」

「…………」

 口を挟むことは出来なかった。ただ少女の台詞を、無言で聞き続ける。

「流石に中学に上がったら、少しは友達と遊ぶこともできましたけど……それでも、塾や厳しい門限のおかげで、あんまり満足に遊ぶこともできなくて……段々、その友達とも、疎遠になっていって」

 ……そうして、折角の中学生活も、小学校と変わらない。

 楽しくもなんともない日々。不幸ではないのかもしれないが、幸福も感じられない日々。変えられない生活。そうして……何時しか、生きている意味さえ見失う。

「……そんなのは、嫌だったんです」

 別に、自分が不幸だなんて思わない。むしろ世界全体から見れば、かなり幸福な方……なのかも、しれない。

 それを不幸と嘆くのは、実際に悲劇のただ中に居る人から見れば、あまりにも無神経で、あまりにも失礼だと思う。

「……それでも、そんな人生は、嫌だったんです。そんなつまらない日常は。自分で考えた妄想に閉じこもりながら……何か、素敵な出来事が、やってくるのを待つような人生は」

 ……だけど、日常は変わらない。……変えようとしても、変えられない。新しい日常を手に入れても、それは結局、新しい日常でしか無くて。新鮮なのは最初だけ……結局、変わり映えのない毎日が、待っている。

 そんな毎日を変えたかったからこそ。きっと誰かが――彼女の言う、そんなつまらない日常をどうにかしてくれる『救世主』が、何処かに居ると思ったからこそ。

「……家出をしたと」

「…………」

 無言で頷く彼女の顔が、叱られるのを待つ子供のように歪んでいるのは――やっぱり彼女自身、それが子供の戯言だと、理解しているからなのだろう。

「……………はぁあ」

 ……思わず、頭を抱えた。……怒りに近い感情が頭の中を渦巻いていて、どうしようもない。

「……馬鹿だな。お前」

「…………」

 俺の一言に、結城は唇をきつく結ぶ。……叱られるとでも思っているのだろうか。

 別に、叱るつもりは無い。家出の理由としては、褒められたことじゃないが、真っ当だ。……そもそも家出自体褒められた事ではないので、真っ当な家出の理由というのもおかしな話だが。

 ……なのに。

「……ホント、馬鹿だなお前は」

 ……なのに、どうして俺は、こうも苛ついているのだろう。

「あのさあ、ひとつ聞きたいんだけど」

「あ、はい」

 結城が顔を上げる。その表情は、やはり怯えている。……駄目だ。自分が抑えきれない。

「お前、俺に会わなかったら、どうしてたわけ?」

「……え?」

 予想外の問いだったのか、キョトンと首を傾げる結城。

 それは、もしもの未来だ。もしも俺が、あの時こいつに出会っていなかったら。……こいつは、一体どうしていたのだろうか。

「えっと……それは……多分……」

 結城は口元に手をやって、暫く首をひねると、

「……自分一人では、やっぱりどうしようもないですし……怒られるのを覚悟で、帰っていたと、思います」

「…………はぁああ」

 頭を垂れて、がっくりと肩を落とす。……それじゃあ、結局のところ――全ての元凶は。

「……馬鹿か」

「……ごめんなさい」

 俯いて小さく呟く結城。でも違う。今のは、自分に対する呟きだ。……ほんと、馬鹿か、俺は。

「……お前、もう帰れ」

「……………………」

 ……沈黙。

「……な、んで、ですか……?」

 引き攣った笑みを浮かべながら、結城が首を傾げた。なるだけ平静を保とうとしているのが丸分かりな程に、今の彼女は動揺していて。

「何でも何もない……んな理由で、家出して、『はいそうですか』で終われると思ってたんか。……甘いんだよ、色々と」

「な……! だ、だって! 鈴太さんが言えって言ったんじゃないですか!」

「ああ、そうだな。……で、お前は俺が居なかったら、家に帰ってたんだよな? ……止めとけ。やっぱりお前、家出とかする柄じゃない。こんな事しても、お前が望むようなものは手に入らないから」

 ……そして、俺は、自分の感情を制御できない程に、苛立ちが胸の内を支配していた。

「良いか、お前が思ってるほど、人生は軽くねぇぞ」

 結城に目を向けて、俺は言う。口調は固い。自然と睨みつけるようになっていたのか、結城は少し身を退いた。

「こんな事で、お前の望む非日常は手に入らない。……人生は変わらない。分かってるだろ、そんなこと。それはさ、俺たちの手の内でどうにかできる程、簡単なもんじゃないんだよ」

 呟く。結城に言い聞かせるように――或いは自分に言い聞かせるように、有無を言わさぬ口調で、言い続ける。

「家出をしてみようと、夜中にチャリで車道を走り回ろうと、日常は変わらない。そんな事続けても、結局大人に怒られて、また日常に逆戻りだ。その先に、楽しい事なんて待ってねぇぞ? 悪いことばっかりだ。怒られるわ、家には帰りづらいわ――挙句、変な男に部屋に連れ込まれるかもしれない。お前はそんな非日常を求めていたのか? 違うだろ? お前が求めたのは――もっと、毎日が楽しくて仕方ないような、そんな素敵な日々だろ?」

「……………………」

 結城は、俯いたまま沈黙している。

「……だから、帰れ。今のうちに。三日間の無断外泊だから、流石に怒られるかもしれないけれど……それでも、このままここに居るよりは、よっぽどマシだ」

 諭すように話を続けると、結城は俯いたままで口を開く。

「……なんで。なんでそんな事言うんですか。このままここに居ちゃ行けないんですか! わたしはここで幸せなのに! こんな風に過ごせる毎日なんて無かった! 誰かと一緒に笑える日々なんて無かった! ようやく手に入ったのに……どうして、ここから出ていけっていうんですか!」

「……何時までもここに居れるわけねぇだろうが。その内誰かにバレて、色々問題になって――俺は退学。寮監様は責任問題。お前も――多分こっぴどく叱られるだろう。学校にも、行き辛くなるかもしれない。……つまんねぇ学校生活だとしてもさ、」

 それでも、あって困るものじゃない。楽しくは無いかもしれないが、格別辛い訳でもない。……そんな平穏な日常も、このまま続けば、確実に壊れてしまう。

「わかるだろ。俺じゃ、お前を救う事は出来ないんだよ。……このまま行けば、どうあったってバッドエンドだ。……だったら、そんなひどい事になる前に、終わらせてしまった方が良いだろう」

 ……いや。あるいは、初めから分かっていた事だ。

 どれだけ意地を張ろうとも――結局、俺は子供なのだから。俺には、こいつを救う事は出来ない。そもそも、こいつの求めるものは、そんな簡単なものじゃなくて。

「……人生は、理不尽なんだよ、結城。それは誰にも変えられない。俺には……いや、俺じゃなくても、お前の苛立ちをどうにかする事なんて、誰にも出来ない。そいつはどう足掻いたって、どうしようもないものなんだ。仕方がないものなんだ。……どうにかして、折り合いをつけるしかないんだよ」

 ……結局、俺が苛立っている理由は、それだ。

 こいつが求めたものは――俺がここ数日むしゃくしゃしていた理由と、全く同じで。変わらない日常を……つまらない日々を、どうにかしようと、思っていただけ。

 俺は、こんなつまらない人生を変えてくれるような、非日常との遭遇を求めていて。

 こいつは、そんな変わらない日常を変えてくれるような、救世主との出会いを、求めていた。

 俺がこいつと出会ったのは、別に運命なんて素敵なものじゃない……ただの、性質の悪い偶然だ。

 でも、その偶然が祟って、こんなことになってしまった。……俺一人どころか、相川や、寮監様まで、巻き込んでしまった。

 ……最悪だ。

 唯の二人の我がままで、他の人に迷惑を掛けるわけにはいかない。

「……鈴太さんは」

 俯いたまま――平坦な、感情を抑えた声で、結城は呟く。

「鈴太さんは、わたしを、救ってはくれないんですか」

「……ああ。お前のそれは、俺にはどうする事も出来ない。……明日の放課後、お前の家に一緒に謝りに行こう。俺も着いて言ってやるから」

 多分、それが一番丸く収まるやり方だろう。……まあ、こいつは間違いなく怒られるだろうし、俺に至ってはぶん殴られて警察にでも突きだされるかもしれない。……それでも、このままずるずると続けて、本当に帰れなくなるよりは、よっぽどマシな筈だから。

「………………わかり、ました」

 ……長い沈黙の末、結城は小さく頷くと、顔を項垂れたままで背後のベッドへとよじ登り、そのまま、こちらに背を向けて布団を被った。

「……………………」

 何かを、言うべきだろうかと思案して、結局何も浮かばない自分に腹が立つ。がっくりと肩を落として――それでようやく、食器を片づけている最中だったと、思いだした。


次回は10月10日20時予定

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