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空想するのは好きだった。でも、それは純情な乙女を捨てる前の話で。今のわたしときたらすっかり現実主義に浸かっていた。現実主義なんて言葉を使ってみたけれど、それがどういうことなのか本質なんて知らない。とりあえず、夢見がちな女ではなくなった。それだけ。でも、須田の言った「眠りの国」には興味が引かれた。空想的な言葉。そういう国があるのか、或いは何か別のものを表す言葉なのか。そう考えて、ふと自分がかつての空想じみた思考に浸っていることに気がついた。戻りたがっているのかもしれない。昔の、夢見がちな少女だったわたし。あの頃の自由で、自分勝手で、夢のような、どこまでも広がる無限の世界に戻りたいのかもしれない。毎日が詰まらないというわけではないけれど、カチカチという時計の音や先生が板書するチョークの音、密やかな声、外から聞こえる喧騒、忙しなくノートの上を滑るシャープペンシルの音、そういうのを聞いていると、どこまでこんな生活が続くのだろうと、考えなくてもいいことまで思考が及ぶ。その世界は狭く、単調で、数々の制約がある。そういう世界にいて苦しいわけではない。だけど、ときどきふっと、昔の自分を懐かしく思う。
須田の言葉を聞いて、無性に「眠りの国」が何なのか知りたくなっていた。わたしの中の夢見がちな少女が蘇った。美容院に行くのは明日にしよう。急いで日誌を書き、書き上げたそれを教卓に置く。そしてカバンに筆箱を入れ、ひったくるようにしてそれを肩にかけた。教室の扉は開いたままで、そこをくぐった後走り出した。行き先は図書室。久しぶりに、言い表せないほどの高揚感を覚えていた。
図書館はほとんど人気はなかった。司書が持っていた本に当てた視線をちらとこちらに向け、戻す。わたしは何も言わずに検索用のコンピュータの前に腰掛ける。検索バーに「眠りの国」と打ち込んだ。ヒット数は僅かだった。それでもその幾つかのもの一つ一つをクリックし、調べていく。哲学みたいな内容のものや、心理学に関するもの、なんていうか、眠った先にある、所謂夢というものを眠りの国として扱っている、そういう本ばかりだった。須田が言ったのは、夢のことだろうか。――眠りの国。まさかアメリカやイギリスのように、地球上に「眠りの国」が存在するとは思っていない。あればいいなと、心は震えたけれども。
帰宅し、カバンを机の上に置いてベッドにダイブする。学校近くのマンションできままな一人暮らしだ。歩いて十五分くらい。それでも皆は「近いじゃない」と言う。だけど、本当に近いって言うのは五分くらいだと思う。布団に顔をうずめる。まだ心臓がドキドキしていた。眠りの国ってなんだろう。それは何を示していて、そこには何があるんだろう。どうして須田はそこからこっちに来たのだろう。どうして――そう思いベッドから体を起こした。そうだ。どうして須田は、わたしに眠りの国のことを教えたんだろう。どうして?
結局それから十分くらい考えて、でも分からなかった。聞いてみようか、と思った。調べてみたけどわからなかったと言えば教えてくれるだろうか。須田。今日まで話したことが殆どなかった同じクラスの男子。モテる男。わたしから見れば、彼の存在そのものが夢のようだ。軽そうに見えた。でも、それは自由の別の側面にすぎないと分かっていた。ただ、彼がどんな人で何を考えているのか、それは分からない。明日、教室で聞いてみようか。眠りの国とは何か、と。朝から彼の周りには女の子がたくさんいるだろう。彼女たちはわたしに冷たい視線を投げかけ、須田に用があると分かっているくせに「何か用?」と尋ねるだろう。それを思うと、少しだけ体がすくんだ。須田の周りにいる女の子たちは大抵派手だ。須田もどちらかといえば派手だけれども、彼女たちは本当に派手だ。ピアスは当たり前。睫毛なんてマッチどころかお箸が乗るんじゃないかと思うほど長い。黒々としたマスカラが威圧感を与えてくる。何よあんた、と言外に訴えてくる。失せなさいよ、邪魔なのよ、グロスで艶々になった唇からそんな言葉が零れるのではないかとふと思う。整えられた長い爪。あれでは包丁は使えないだろうとどうでもいいことを考えてしまった。朝から何時間かけてセットしているんだろう、カラーリングした髪は毛先にアイロンを当て、くるりと内巻き。アップにしたら後ろ頭はピン止めだらけ。それでも、彼女たちは自信たっぷりにキラキラとして見えた。
ベッドから離れて、鏡の前に立つ。自分をじっと見つめる。髪は茶色。もう少し挑戦してみようか。もっと明るい色。肌の色は白いから、きっと似合わないことはないと思う。さすがに化粧は太刀打ちできない。まあ、太刀打ちするという考えが奇妙かもしれない。それでも、須田に近づきたいと思っていた。あの自由の存在に、少しでもいいから、近づきたい。そう思った後、ふいに笑いが込み上げた。これじゃあまるで恋だ。夢見がちな少女にありがちな、甘い恋。憧れみたいなもの。ふわふわと不安定で、熱を帯びていて、頭の中がくらくらする、まるで中毒。
翌日、須田に質問しようと決意したものの、やはり周りにいる女の子に恐れをなして近づけずにいた。はあ、とため息をつく。
「うっわ、辛気くせえー」近くにいた松田がにやにやとそう言った。睨み付ける元気もない。ちらと松田を見、「まあね」と相槌を打つ。
「おーい、まあねって何だよ、まあねって。わけわかんねぇ」松田は私の前の席に座った。ドキ、とした。昨日と同じ光景。でも、目の前にいるのは松田。でも、こっちのほうがホッとする。
「で、なんだよ、悩み事?珍しいな、今日の晩メシのメニューでも考えてたのか?」メニューって、そんなことで私が悩むと思っているのかこの男。
「そーよ」ふいと目線を外してそう言った。
「うっわ、嘘くせえ!」
「うるさいわね、さっきから辛気臭いとか嘘臭いとか。わたしどれだけ臭う存在なのよ」ぴしゃりとそう言うと、松田は感心したように言う。
「上手いこと言うな!」そしてにかっと笑う。
「どーも」と苦笑する。すると松田はすっと笑みを消した。
「何、ホントのこと言えよ。俺に言えないことなわけ?」急に真剣になって、松田はじっとこちらを見る。無言の圧力だっけ。前に恭子が命名した。わたしは松田のこの視線が苦手だった。見透かそうとする目。逸らすとまた合わせてくる。そういうことを臆面もなくやってくるのだ。
「……ねえ、松田。最近彼女と順調?」
「は?なんだよ、話逸らすなよ」
「教えて」ここで引いたら駄目だ。そう思った。「どうなの?いい感じ?」松田はしばらく黙っていたが、小さくため息をついた後「仕方がないなあ」とでも言うように後ろ頭を掻いた。
「まあまあってとこ」
「ふぅん、まあまあ、か」
昨日の須田の言葉を思い出した。――ホントにいるのかって思ったことない?ってやつ。松田は彼女がいないことを男の恥だと思うタイプではない。だから、いなかったらいないで茶番を演じたりはしないと思う。
「何、気になるわけ?」にやりと松田は笑う。
「まーね」相槌を打つ。「順調なら言うことないわ」上から目線で言ってみた。松田はわたしの頭をわしゃわしゃと撫ぜる。
「なんだそれ、何様だっつの」困ったような、でも、楽しそうな笑顔だった。わたしは松田の手を払いのけた。彼は笑い続けていたが、チャイムが鳴って、自分の席に戻っていった。