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サイトのほうで連載・完結した小説を改稿したものです。サイトのほうは改装中につき、リンクを外しています。
夕暮れが訪れようとしていた。じきに、足元にあるつるりとした床はオレンジ色に染まるだろう。開け放された窓からは緩やかな風が吹き込んでいる。少し黄ばんだ遮光カーテンがゆったりと波打っていた。そんな教室の、窓から数えて二番目の席に座って、わたし――奥村紗枝は今、日誌を書いている。
本来ならば二人一組の日直だけれど、もう一人は休みだった。誰か手伝わせようかとの担任の言葉に、「俺がやってやろうか?」と馴染みの声が返事をしたことを思い出した。彼は立ち上がり、にやにやと笑みを浮かべていて、担任はわたしを見やったので「大丈夫です」と答えた。日直の仕事は特にたいへんなことではない。「ということだ、松田」と担任は抑揚をつけて結論付けた。松田は詰まらなそうに舌打ちをしたけれど、その表情は普段通りの明るいものだった。「お願いしても手伝ってやんねえからな!」と言って席に座ったとたん、教室中が沸きかえった。そんな朝の風景をふと脳裏に呼び起こし、わたしは小さく笑う。もしかしたら声も出ていたかもしれない。でも反応する者は誰もいない。教室にはわたし一人だ。日誌に書くことは特になかった。時間割を書き込み、あとは適当に今日も平和でしたと感想欄に書く。別に急ぐこともない。今日はバイトもないし、宿題も覚えている限りでは出されていなかった。ちらと外に目をやると、ここからは校庭がよく見えた。向こう側には校門が立っている。校内に人気の少なくなった今も、そこにはちらちらと人通りがあった。じわりじわりとオレンジ色の光が景色を浸食していく。気がつけばつるりとした床が僅かに暖かな色に染まっていた。
これが終わったら帰りに美容院に寄っていこう。ショートカットの茶色い髪。前に染めたのはいつだっただろうか。生え際に黒い色が見えていた。髪を染めて、ついでに毛先を揃えてもらって。帰りにコンビニに寄って、新作のお菓子をチェックしよう。今の季節だと、栗にサツマイモに……限定ものが出ているはずだ。
「……奥村さん?」
コンビニの棚に思いをはせていたわたしは、ふとそう呼ばれて振り返った。教室の扉は開けっ放しだったので、外から私の姿が見えたのだろう。そこにいたのは――須田要。同じクラスの、まあ一言で言えば女子から絶大な支持を得ている男。いつも回りに女の子を侍らせて、いや、それは言葉が悪いかもしれない。とにかく、彼の周りには女子の黄色い声が付きまとっていた。その綺麗な風貌から「王子」だなんて愛称で呼ばれている。緩く波打つ短めの茶髪。はっとするような美貌は、思わず目を伏せてしまうほどだ。長いまつ毛縁どられた目が、じっとわたしを見つめている。一人で教室の扉の向こうに立ち尽くしている姿は、どこか不思議な感じがする。そうか、女の子がいないからだ。
「日直?」須田がこちらに近づいてきた。
ふいに止まっていた時間が動き出す。わたしが頷くと、「あ、そういえば今朝、松田が騒いでたっけ」と独り言ちる。まっすぐわたしほうへ歩いてきて、すぐ前の席に腰掛ける須田を見て、どうして話しかけてくるのだろう、と不思議に思った。あまり話したこともないし、きっとわたしの下の名前を彼は知らないだろう。同じクラスとはいえ、それまでの関係だ。
「なんか、奥村さんが日誌書いてるのって変なの」
「どうして?」出てきた声が比較的落ち着いた声でホッとした。
「あ、いや、なんか違うなーって。それだけ」
なんか違う。相槌と似たようなものか、と理解した。
「怒った?」
「ううん」と返すと、「ふーん」と須田は興味なさそうに頷く。どうやら暇つぶしらしい、と解釈した。それか、誰か女の子を待っている。そうに違いない。煩くなる前に終わらせて帰るべきだな。
「奥村さんてさ、いつも松田とか金井さんとかと楽しそうだよね」
金井――金井恭子はわたしの一番仲の良い友達である。
「そうかな」
須田が何を言いたいのか良く分からなかった。
「奥村さんてさ、俺のこと女好きって思ってるでしょ?」
訊かれて本当だと思っていても、正直に頷けるほどの仲ではない。あれだけ女の子をはべらせておいて、男好きだったら笑えない話だ。色々とうわさも聞いている。だからって、女好きだと顔を顰めるほどでもない。私だって今まで彼氏というものがいたことがあるし、付き合うということがどういうことで、することもしたと思う。「純情な乙女」というラベルは高校一年の秋に捨てた。現在高校二年の秋。元彼とは二年の春に別れて、それからずっと彼氏はいない。付き合って別れてという行為。須田の場合は、噂が本当だとしたらそのインターバルが短かっただけとも言える。
「特にそういうことは思っていないけど」
当たり障りのない答えを返し、視線を日誌に戻す。須田の顔はいつまでも正視できるものではない。うっかりすると赤くなってしまいそうだ。
「俺さ、松田と奥村さんは付き合ってると思ってた」
ころころ話題が変わる男だ。でも一々指摘しない。
「松田には彼女がいるよ。たまに惚気られるし」視線を上げずに答える。松田は付き合いやすい男だ。話題が豊富で、話し出したら止まらない。須田と比べれば劣るけれど、顔のつくりは悪くないと思う。彼女がいてもおかしくない。
「ホントにいるのかって思ったことない?」
「え?」思わず顔を上げた。何を言い出すんだろう。須田=よく分からない男の式が頭に浮かんだ。
「どーいう風に惚気られるわけ?」
「どういう風って……可愛いとか、料理ができるとか」
「一般的な感じじゃない?」一般的なんだろうか、今のところ松田以外から惚気というものを聞いたことがないので比較しようがない。黙っていると、須田は小さく笑った。わたしはまた日誌に目を落とす。
「俺さ、実は、眠りの国から来たんだよね」脈略もなく須田が言い出した言葉に、目を見張る。
「は?」手からシャープペンシルが転げ落ちた。須田はにっこりと綺麗な笑みを浮かべた。
「眠りの国だよ。俺、そこから来たんだ。知らない?」
眠りの国ってなんだっけ。とりあえず聞いたことはない。須田はわたしの机に肘をつき、ぐっと顔を近づける。
「興味がわいたら調べてみてよ」
わたしの耳に囁くように言ってから、ゆっくりと立ち上がるとひらひらと手を振る。
「じゃあねー」
軽そうな男。実際そうなのかもしれない。目を眇めて彼の背を見送ったあと、とくん、と心臓が跳ねた。でもきっと、それだけじゃないんだろうな。奔放で、軽くて、でも、美しい男だ。