第三章「嬰児(みどりご)」―2
今回、妊娠・出産についての記述が多くあります。苦手な方はご注意下さい。また、もしかしたらその内容に誤りがあるかも知れませんが、それについてはご指摘頂けると嬉しいです。
由梨亜妾が目を覚ますと、そこにはリーシェ、ミリュア、ルーシェ、アルアが揃っていた。
「……由梨亜妾様!」
ミリュアが、由梨亜妾が目を覚ましたことに気付き、声を上げる。
すると、リーシェは泣き出し、ミリュアはへたりこみ、ルーシェとアルアが由梨亜妾の枕元に近寄った。
「みんな……? いかがなされましたの?」
「本当に……本当に、申し訳御座いませんでした、由梨亜妾様……」
泣かないでいたルーシェも、ほろほろと涙をこぼし出す。
アルアも、涙をこぼさぬように唇を噛み締めていたが、その瞳は潤んでいた。
「わ、わたくし達……誰も、誰も、気付かずに……由梨亜妾様が、助けを必要としている時に、ただ、わたくし達は、安穏と眠りこけてっ……!」
泣き出す侍女達に、由梨亜妾の方が慌てた。
「まあ、そんな……。だって、仕方のないことですわ。あんな時間に内線が掛かって来ても、すぐに出られはしないのですもの。コール音が短いのが、最も悪いのですわ」
由梨亜妾は、何の罪もない内線に罪を押し付けた。
そして、侍女達一人一人に笑い掛ける。
「それに、過ぎたことを今更悔やんでも、どうにもなりませんわ。終わり良ければ全て良し、です。申し訳ないと思っているのであれば、悔むよりも、無事に産まれたこの子のことを、どうか祝福して下さいな」
「は……はい、由梨亜妾様……」
部屋に、暖かな笑いが溢れる。
「――ところで……この子の名前は、何と言うのです?」
由梨亜妾がそう言うと、途端に、部屋に重い沈黙が降りた。
「あら……? どうかなさいましたの?」
由梨亜妾が訝しげに眉を寄せると、そこに別の声が割り込んだ。
「それは、私が言おう」
その言葉に、由梨亜妾はぱっと顔を輝かせた。
「まあ、峯慶殿下! 御越し下さいましたの?」
明るく輝く由梨亜妾の顔を見て、何故か、峯慶は寂しげな笑みを洩らした。
「峯慶殿下……?」
不安そうな由梨亜妾の声に、峯慶はそっと微笑んで宥めると、侍女達に視線を移した。
「私は、由梨亜妾と二人きりで話をしたい。呼ぶまで、部屋を出てもらってもいいだろうか?」
「はい、殿下」
「畏まりました」
リーシェ達は了解し、頭を下げて部屋を出て行く。
「峯慶殿下……。何か、あったのですか?」
由梨亜妾が声を掛けると、峯慶は目を閉じ、言った。
「由梨亜妾、この子の――私と其方の子の名前は、『フミキ』だ」
「まあ、そうですの? それでは、深沙祇妃の御子の名前は『トフヤ』ですのね」
「――いいや、違う」
「え……?」
由梨亜妾は、訳が分からなくなった。
沙樹奈后、深沙祇妃、由梨亜妾の子供達に付けられる名前は、産まれるよりも前に絞られていた。
産まれたのが女の子であれば、上から『フミキ』、『フルミ』、『リエナ』の順番であり、産まれたのが男の子であれば、上から『トフヤ』、『フウゲン』、『ショウゲン』の順番である。
そして、自分の子供の名前が、峯慶の長女に与えられる『フミキ』なのであれば、自動的に、自分よりも先に子供を産んだ深沙祇妃の子供は男の子であり、『トフヤ』という名を得るはずである。
それが、何故……何故、違うと言うのか。
途惑いと困惑に彩られた由梨亜妾の視線に、峯慶は悲しそうな微笑を返した。
「深沙祇妃の娘の名前は、『フルミ』だ、由梨亜妾」
「え……? 何故、ですか? 深沙祇妃の御子が娘であるのであれば、深沙祇妃の娘が『フミキ』であり、わたくしの娘の方が『フルミ』になるはずですわ。……峯慶殿下、御間違えになってはなりません」
由梨亜妾が浮かべるぎこちない笑みに、峯慶は、そっと首を振った。
「いいや。違う。長女である其方の娘が『フミキ』で、次女である深沙祇妃の娘が『フルミ』だ。……深沙祇妃は、其方が子を産んだおよそ二時間後に、女児を出産したのだ」
由梨亜妾の顔から、血の気が引いた。
「そ、んな……嘘、まさか、そんな! だって深沙祇妃は、わたくしなどよりもずっと先に、ずっと前に陣痛を御起こしなさったではありませんかっ! なのに……それ、なのにっ……」
由梨亜妾の瞳から、涙が溢れ出した。
「こんな……こんなことって……あり得ませんわ。何て、何て酷いっ……!」
峯慶は、由梨亜妾の体をきつく抱き締めた。
やがてその泣き声がやむと、峯慶は体を離し、由梨亜妾の顔を覗き込んだ。
「由梨亜妾。……そのことで、一つ提案がある。――いや、提案ではない。私は、できればそうしたい。だから其方にも、賛成してもらいたいのだ」
「何……でしょうか?」
由梨亜妾が涙に濡れた顔で峯慶を見上げると、峯慶は悲しげな顔をして頷いた。
「由梨亜妾。この娘は――私達の手では、育てない。父上にも、御了承頂いた」
「…………え……?」
峯慶の言葉が頭に沁み込むと同時に、由梨亜妾の顔から、先程以上に血の気が引いた。
「そんな、どういうことですのっ?!」
「由梨亜妾、落ち着きなさい」
「落ち着いてなど、いられません! わたくし達の手で育てないとは、どういうことですかっ? まさか、養子に出すとでもっ? そんなこと、堪えられません!」
「違う、養子に出すのではない。……この子は、辺境の国へ送る」
「辺境の、国、ですって……?」
呆然とする由梨亜妾の肩を、峯慶はそっと撫でた。
「そうだ。できるだけ花鴬国から遠くて、国交もない国へ、送る。……その条件に適う国はいくつかあるが、その中でも、宇宙連盟にさえ加盟していない、地球連邦という新興国が、最もよいのではないかと思う。今、人を使って探させているところだが、今日産まれた地球連邦の女児の中で、最も身分の高い家を選ぶつもりだ。そして……申し訳ないことだが、その夫婦の子供は、別の夫婦の元で暮らせるように、手配するつもりだ。――難しいことだが、高度な魔法を使えば、可能なのだ。だから、其方にも賛成してほしい」
由梨亜妾は、強く峯慶の手を掴んだ。
「何ゆえ――何ゆえ、この子を他国へ送らねばならぬのですっ?! どうしてわたくし達の手元で育ててはならぬのですか!」
「私だって、できればそうしたい!」
峯慶の強い言葉を――それも、初めて彼が声を荒げるのを聞いた由梨亜妾は、びくりと体を震わせる。
峯慶は、気持ちを鎮めるように何度か呼吸をすると、穏やかに告げた。
「でも、それは危険なのだ、由梨亜妾。……今まで深沙祇妃は、思い切った手段に出ては来なかった。だが、第二王位継承権を得た娘がいるとなれば、話は変わって来る。……沙樹奈后の子供がどうであろうと、関係はないと思うだろう。そして、唯一邪魔なのは、其方の子供だと断定するはずだ。……其方の子がなければ、自分の子供が、王位に即けると。……御祖母様も、元は第二王位継承者だった。だが、異母兄が死んだ為に、王位に即くことになった。――それは、その大伯父上が病気で亡くなられたからだが、人為的に、その時と同じ状況を作り出す可能性が、高くなるのだ」
愕然とする由梨亜妾に、峯慶は努めて冷静に言った。
「由梨亜妾。……赤ん坊を殺すのは、実に簡単なことなのだよ。まだこんなにも小さいから、抵抗などできやしない。……ここで育てることは、この子の生を奪うことと同義だ。……国内の、他の地で育てても同じこと。調べれば、其方の子だと分かってしまう。――深沙祇妃の目を欺いてこの子を護る為には、深沙祇妃には物慣れぬ魔法を使い、この子の素性を隠して、伝手もないような辺境で育てるしか、方法がないのだ」
「そんな……そんな、峯慶殿下……」
小さな赤ん坊の頬を撫でて涙をこぼす由梨亜妾に、峯慶は優しく言った。
「勿論、そのままではない。この子が成長した暁には、この国へ連れ戻す。……誓う、由梨亜妾。だから、私を信じて、この子を預けてほしい」
峯慶の真剣な目に、由梨亜妾はとうとう頷いた。
「分かり、ましたわ……。この子の命運や命は、峯慶殿下、貴方様に御任せ致します」
そっと赤ん坊を抱き上げると、由梨亜妾は頬ずりをした。
「この子は……いつ、地球連邦へ、送るのですか?」
「それは、まだ決まっていない。……だが、そう遠いことではないだろう。恐らく一月、あるかないか……」
「そう、ですか……」
由梨亜妾は、悲しげに顔を伏せた。
「嗚呼。この子は……この子はあの時に、産まれて来てしまったのですわね。せめて……せめて、もう少し遅ければ……」
悔しげに唇を噛む由梨亜妾の頭を、そっと峯慶は撫でた。
「そのことは、言うな。今は、産まれたてのこの子供に、名を付けなけなければな」
「それは、考えがあります」
伏せていた顔を上げ、由梨亜妾は峯慶を見据えた。
「どのような名だ?」
「はい。それは、今この国にはない、富や名声を陰謀などによって手に入れるのではなく、優しい行いによって心を富ませること、樹木を視てその神秘を感じる美しい心、そして、その時に実った果実を、単なる食糧として感謝する気持ちすら持たないのではなく、ここまで育ってきたその生命力と大地の恵みに感謝する心を願って、『富実樹』と名付けましょう。この子が王になった時の繁栄を願い」
その答えを聞いた峯慶は、微笑して頷いた。
「ああ。それはいい。美しい名だ」
「ところで……」
由梨亜妾は、躊躇って言った。
「この子は、やはり、あちらへ……?」
あまりにもくどく思えるが、産まれたばかりの子と引き離される母親としては、当り前のことなのだろう。
峯慶は、由梨亜妾が腕に抱いた赤ん坊を潰さないように、そっと抱き締めた。
「その時は、お前の名をつけよう……きっと」
その言葉に、由梨亜妾は目を瞠り、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「あの……この子に、弟か妹が産まれたら……そして、信頼でき、決して裏切らないような子供がいた時は、その時にはこの子が地球連邦にいると言って、いいですわよね? いくらあんな人でも、まだそのような酷いことをやろうとは思わないでしょうから」
「ああ。我らはいつまでもいられるとは、限らんのだからな……」
峯慶はそう言うと、小さな赤ん坊の頬を撫でた。
小さな――あまりにも小さ過ぎる、命。
「この子の未来に、幸多からんことを、祈ろう」
由梨亜妾は、そっと頭を下げた。
そして口を開こうとしたその時、扉が慌ただしく叩かれて、こちらの返事を聞く前に、扉が開け放たれた。
峯慶は、眉を顰めて振り返る。
「一体、何事だ?」
入って来たのは、沙樹奈后の上級侍女の一人だった。
そのことに、由梨亜妾は目を瞠って峯慶の腕から身を乗り出す。
「貴女は、エリザではないの? 沙樹奈后の上級侍女の」
「はい、仰せの通りに御座います」
「何か……沙樹奈后に、何かあったのです?」
今にも峯慶の腕を振り解き、飛び出さんばかりの由梨亜妾に、エリザは微笑んだ。
「大丈夫ですわ、由梨亜妾様。ただ、沙樹奈后様は、陣痛を御起こしなさいましただけに御座います」
峯慶と由梨亜妾は、驚きに目を瞠った。
「まあ。沙樹奈后も?」
「はい。わたくしは、それを御報せに参りました。それと、阿実亜女のことですが、どうやら御懐妊致しましたようだとのことです」
その言葉に、由梨亜妾は身を乗り出した。
「そうなのですか? では、昨日から具合が宜しくなかったというのは……!」
「はい、どうやらつわりだったように御座います」
エリザはそう言うと、にっこりと笑った。
「峯慶殿下、由梨亜妾様、御邪魔致しまして、申し訳御座いませんでした」
そう言って頭を下げるエリザに、由梨亜妾は思わず頬を赤くする。
「それでは、失礼致します」
そう言って、エリザは部屋を出て行った。
彼女が出て行った途端に、峯慶は息をついて、強めに由梨亜妾を抱き寄せた。
「……峯慶殿下?」
見上げる由梨亜妾に、峯慶は深い溜息をつく。
「全く……慌ただしいこと、この上ないな。もしも早く産まれるのであれば、今日だけで三人も子が産まれることになるぞ。こんなことは、前代未聞だ」
「そうですわね……。ですが、峯慶殿下。わたくしはそうではありませんでしたが、初産とは、とても時間が掛かるものらしいですわ。普通は半日ほど掛かるのだそうです。今から、というのであれば、明日の午前三時頃か、それよりも後ではないでしょうか? それに、普通赤子と言うのは、明け方頃に産まれるものだと聞いたことがあります」
由梨亜妾が見上げると、峯慶は苦笑した。
「ああ……そうか。そうだろうな、きっと」
そう言って、峯慶は腰掛けていた由梨亜妾の寝台に横たわる。
「峯慶殿下……?」
由梨亜妾が半身を起こすと、既に寝入っている峯慶の顔が視界に入った。
昨日は暑さのあまりに政務が滞っていたから、今日はとても忙しかったのだろう。
けれど、その仕事を早く終わらせて、こうして由梨亜妾の所に来てくれたというのは、とても嬉しい。
由梨亜妾は頬を綻ばせると、『富実樹』と名付けた我が子を、寝台の側にあるベビーベッドに寝かせ、自分も横になった。
一眠りして体はだいぶ楽になったが、それでもまだ、初産の疲れは残っている。
ほどなくして、由梨亜妾も深い眠りに包まれた。