第三章「嬰児(みどりご)」―1
今回、妊娠・出産についての記述が多くあります。苦手な方はご注意下さい。また、もしかしたらその内容に誤りがあるかも知れませんが、それについてはご指摘頂けると嬉しいです。
由梨亜妾はその日、早めに就寝した。
深沙祇妃に陣痛が起きたと聞き、それまでの緊張が解けて、疲れてしまったのだ。
眠りも、比較的深かったと思う。
だから、その夜、突如として目が覚めたことに、強い違和感を覚えた。
ただ鼓動が、バクバクと、強く脈打っているのを感じる。
「……一体……何、かしら……?」
そう、呟いた途端、だった。
今まで経験したことのない、強い痛みが、腹部を襲った。
由梨亜妾は思わず、身を丸めて痛みに顔を歪める。
確か、陣痛というものは、少しずつ痛みが襲ってきて、どんどんと強くなってきてから破水するはずだ。
陣痛の最初の痛みは、まだそれほど強くないとも、医師達は断言していた。
だが、由梨亜妾が今感じている痛みは、『それほど強くない』とは言えないほどの痛みだ。
それに脈拍は、今までずっと眠っていたとは信じられないほど速いし、体中が、寝汗とは違う汗をびっしょりと掻いている。
つまり、『それほど強くない』痛みは、由梨亜妾が眠っている間に来ていて、かなり強い痛みになったから目が覚めたと、そういうことなのだろうか。
由梨亜妾はぼんやりとそんなことを考えながら、唇を噛んで、必死に痛みに耐えていた。
一体、どれぐらいの時間が過ぎたのだろうか。
気が付くと、痛みが引いていた。
けれど、油断はできない。
陣痛は、間隔を空けて来るものだという。
ということは、再びあの痛みが襲って来るのも、時間の問題なのだ。
もし、独りでいる時に陣痛が来たら、すぐに連絡をして下さいと、上級侍女の四人に頼まれている。
彼女達の部屋まで行って報せることも考えられたが、由梨亜妾のいるこの階は二十階で、リーシェ達上級侍女の部屋は九階なのだ。
いくら昇降機があっても、途中で陣痛が来たらと思うと、怖くて行けない。
由梨亜妾は寝台から起き上がって、内線に手を伸ばした。
それを使って、再び痛みが襲ってくる前に、連絡を取ろうとしたのだ。
表示された連絡先の中から、リーシェの部屋のを選ぶ。
それを選択した後、由梨亜妾は安堵して力が抜け、床に座り込んでしまった。
由梨亜妾の広い寝室の中に、コール音が鳴り響く。
だが、ふと訝しく思って、由梨亜妾は顔を上げた。
まだ、リーシェが出ないのだ。
やがて、非情にも、
『ただ今出ることがなりませんので、のちほどお掛け下さい』
と、機械で合成された女性の声が流れて、ふつりと途切れた。
由梨亜妾は、思わず大きく喘いだ。
リーシェは、気付かなかったのだ。
由梨亜妾は落ち込む気分を何とか浮上させると、今度はミリュアに内線を掛けた。
彼女達は上級侍女とはいえ、高位の貴族の娘、一人ずつ寝室と居間が与えられているのだ。
だから、一人ずつに掛けなければならない。
(大丈夫……大丈夫。リーシェは駄目だったけれど、ミリュアがいますわ。ミリュアがもし出なくても、ルーシェもアルアもいる。……きっと、大丈夫。大丈夫……)
そうして気分を落ち着けていたのに、非情にも、ミリュアも出なかった。
先程と同じように機械が応答し、内線は切れた。
由梨亜妾は唇を噛み締め、今度はルーシェに内線を掛け始めた。
けれど、結果は同じだった。
ルーシェもアルアも気付かず、無情にも内線は切れた。
由梨亜妾は、しばらく呆然と座り込んでいた。
誰も……誰も、気付かなかったのだ。
「こんな、こと、って……」
目の前が、真っ暗になった。
「どうすれば……いいの? どうすれば……」
やがて由梨亜妾は、昨日のことをぼんやりと思い出していた。
峯慶と沙樹奈后と一緒に、お茶をしていた時に、深沙祇妃が陣痛を起こしたと聞いた時のことを。
深沙祇妃のことを心配する自分を、沙樹奈后が元気付けてくれたことを――。
「沙樹奈后……」
由梨亜妾は縋るように呟き、再び内線に向かって手を伸ばした。
非常識だということは、分かっている。
こんな夜中に、それも自分よりも上位の人に掛けるなんて。
けれど、由梨亜妾は切羽詰まっていた。
それに、沙樹奈后と由梨亜妾は、非常に仲がよい。
だから、それに賭けたのだ。
上級侍女達と同じように、何度もコール音が響く。
それは、由梨亜妾にとって、とても長く続いた。
けれど、誰も出ない。
由梨亜妾が諦め掛けたその時、コール音が突如として止んだ。
由梨亜妾は、はっと顔を上げて、端末の画面を見詰める。
やがて、そこから声が聞こえて来た。
『……何ですの? こんな夜更けに』
こんな時間だからか、やはり由梨亜妾からの内線で起こされたらしく、その声はどこかぼんやりしていて、酷く機嫌が悪そうだった。
また、音声だけは聞こえて来るが、映像は映らない。
それでも、由梨亜妾は、心の底から安堵した。
(嗚呼、これで……)
由梨亜妾は息をつくと、掠れた声で言った。
「沙樹奈后……御願いが、御座います」
『御願い……?』
「はい……。どうか、御願い致します。御医師を……御呼び、下さいませ」
『医師、ですって……?』
不意に、沙樹奈后の声に芯が宿った。
『由梨亜妾、貴女、一体何があったというのです?』
「陣痛が……来て、しまいまして」
『何ですってっ?!』
突然の大声に、由梨亜妾は思わず顔をしかめた。
「それで……最初は、わたくしの上級侍女に、連絡を取ろうとしたのですが……誰も、出なくて、それでっ……」
由梨亜妾は、突然腹の底に生じた衝撃に、思わず唇を噛んだ。
『――分かりましたわ。由梨亜妾、どうか御気を確かに御持ちになって。すぐに医師を呼んで、そちらに向かいますわ!』
沙樹奈后は強く宣言すると、乱暴な音と共に内線が切れた。
それを、半ば呆然と見詰めながらも、由梨亜妾の顔には微笑が浮かんでいた。
何て、沙樹奈后らしいのだろう。
そう、思ったのだ。
けれど、その表情は、苦悶のそれに取って代わられる。
思わず前かがみになった由梨亜妾は、視界の端に映ったものに目を瞠った。
激痛に耐えながら、体を移動させる。
すると、先程まで自分の体があった所に、小さな水溜りができていた。
足の辺りを見ると、夜着が羊水で濡れて纏わりついている。
恐らく、先程の衝撃が『破水』だったのだろう。
由梨亜妾は、苦笑した。
自分も大概、鈍いようだ。
襲い来る陣痛に耐えていた由梨亜妾の耳に、慌ただしい足音が聞こえて来た。
顔を上げると、廊下から、眩いほどの光が差し込んだ。
それが、自分の未来を暗示するものであればいいと――何故か、そう思った。
医師が駆けつけてからおよそ三時間後の、八月十六日午前五時四十八分。
由梨亜妾は、女児を出産した。
それまで感じていた痛みよりも、強い痛みに苦しみながら産んだ赤ん坊は、元気な産声を上げた。
最も、由梨亜妾がのちにこの出産を思い出した時に、一番印象に残っていたのは産声ではなかった。
確かに産声も、由梨亜妾の心に強い印象を残していったのだが、それ以上に印象が強く残ったものがあったのだ。
それは、沙樹奈后の怒鳴り声である。
沙樹奈后は、由梨亜妾が助けを求めた後にも部屋に駆けつけ、自身も予定日をとっくに過ぎた臨月の妊婦にも拘らず、由梨亜妾が子供を産む間中、ほとんどずっと隣に付いていてくれたのだ。
そして、遅ればせながら駆けつけて来た上級侍女達を、職務怠慢だと怒鳴り付けたその声が、強い息みの最中にあった由梨亜妾の耳に強く残ったのだった。
由梨亜妾は、隣に寝かされた赤ん坊を見て、微笑んだ。
体は疲れ切っていたが、その小さな顔を見ていると、何だか癒されるような気がする。
まだ、産まれてから一時間も経っていない、くしゃくしゃの顔をした、小さな嬰児。
もう産声を上げてはいないが、何時間かすれば、お腹が空いて泣き出すのだろう。
瞳が開くのはまだ先だろうが、由梨亜妾は、今から楽しみだった。
(髪は……茶色? それとも、栗色かしら? 栗色だったら、御母様と同じ色だわ。ああ、早く目が開かないかしら? 何色の瞳をしているの? この子は。本当に、楽しみだわ……)
いくら眺めていても、飽くことはない。
そんな由梨亜妾に、沙樹奈后が優しく声を掛けた。
「由梨亜妾、貴女は本当に、よく頑張りましたわ。いつまでも御子を眺めておりたいその御気持ちは、よく分かります。ですが、今は何よりも休息が必要ですわ。由梨亜妾、しばらく御休みなさいな」
「ええ……そう、ですわね……」
由梨亜妾は呟くように言って、瞳を閉じた。
途端に、泥のように深い眠りへといざなわれた。