第二章「天佑を得たか、否か」―3
今回、妊娠・出産についての記述が多くあります。苦手な方はご注意下さい。また、もしかしたらその内容に誤りがあるかも知れませんが、それについてはご指摘頂けると嬉しいです。
その日、共通暦一三〇八年八月十五日は、とても暑い日だった。
花鴬国首都シャンクランは緯度が低く、三十度越えをするような日は滅多にない。
年に一、二回、あるかないかだ。
しかし、この日は三十六度まで上がった。
極めて珍しい、記録的な猛暑だった。
けれど、それは『記録』としては面白いかも知れないが、そこに生きる人達にとっては堪らない。
あまりの暑さに職場の機能が落ちたということもあった。
人々は暑さに耐えきれず、屋外を歩くような人はほとんどいなかった。
そして、シャンクランのある北半球では、どこの地域も似たり寄ったりで、その日は熱中症で倒れる人が急増し、中には不幸にも亡くなってしまうお年寄りや子供も数多くいた。
王宮でも状況は同じで、あまりの暑さにその日は公務から早々に解放された峯慶は、沙樹奈后と由梨亜妾が歓談している場に混ざり込むことができた。
二人とも、峯慶にとっては自分の妻だが、王子ではなく個人の人間としては、沙樹奈后は可愛い異母妹で、由梨亜妾は最も愛する大事な人だ。
おまけに二人とも、臨月の妊婦であり、しかもそのお腹の中にいるのは、自らの子供だ。
その意味では深沙祇妃も同じであり、峯慶は特に深沙祇妃を蔑ろにしているという訳ではなかったが、八月に入って以来深沙祇妃はピリピリしていて、彼女の侍女に『あまり御近付きにならないで下さいませ』と頼まれてしまったのだ。
峯慶は、彼女も彼女のお腹の子も心配だったが、深沙祇妃のあまりの気の昂りように、お腹の中の子供の命を危ぶんだのだ。
それに、心配なのは、沙樹奈后のこともだった。
彼女の出産予定日は、八月の十日。
なのに今は、もう八月の十五日だ。
初産の時は、予定日よりも出産が遅れることは多々あるとは侍医から聞いたが、それでも、心配なものは心配なのだ。
だから、この二人の場合、様子を見られる時は来るようにしていた。
それに、心配なのは、阿実亜女のこともだ。
昨日から、あまり具合が優れないのだそうだ。
だが、そこまで重いものではなく、本人は平気だと話しているようだが、どうしても心配になってしまう。
一応今日、侍医に掛かるように手配はしたが、かなり遠慮深く謙虚な阿実亜女のことだ、本人がそれを断らないかどうか、それだけが心配になる。
けれど、峯慶はそれをおくびにも出さずに、沙樹奈后と由梨亜妾とのお茶を楽しんでいた。
ただでさえも二人は臨月で、深沙祇妃のことに対して気を揉んでいると言うのに、これ以上の負担は、異母兄として、夫として掛けられなかった。
だから、にこにこと微笑んで、二人が産まれてくる子供のことや、普段の何気ないことを面白可笑しく話しているのを聞いていた。
と、その時――
「失礼致します」
深沙祇妃の従妹である、ルーミア・ストールが高慢に頭を上げて入って来た。
その様子に、思わず峯慶達は眉根を寄せる。
ルーミアは、確かにミオメス国の王族であり、深沙祇妃が花鴬国に嫁いで来なければ、彼女は王族の一員として、他の国や自国の貴族に嫁いでいただろう。
けれど、ここは花鴬国であり、彼女の花鴬国での身分は、妃に仕える上級侍女だ。
つまり、一貴族出身の由梨亜妾よりも身分は低く、王族出身の沙樹奈后は言うまでもない。
なのに、自分の身分は彼女達よりも高いと言いたげなその様子は、かなりの不快感を覚える。
「ルーミア。ここはわたくしだけではなく、峯慶王子殿下と由梨亜妾の御前です。身を弁えなさい」
沙樹奈后がぴしゃりと言い放つと、ルーミアは不承不承に頭を下げる。
「…………失礼致しました。峯慶殿下、沙樹奈后様、由梨亜妾様」
「宜しいです。それで、何用ですか? 其方は深沙祇妃に仕える身でしょう。深沙祇妃についていなくても宜しいのです?」
「そのことで参りましたわ」
間髪を容れずに言葉を発したルーミアに、沙樹奈后は益々不快気な顔をする。
峯慶はそれを抑えるように沙樹奈后へ目を向け、ルーミアに居直った。
「それで? 其方がわざわざここへ参った理由は?」
「はい。――我が主、深沙祇妃様が、陣痛を御起こしなさいました。それを、皆様に御伝えすべく参りました次第に御座いますわ」
その勝ち誇った表情を見ていたくなくて、峯慶は眉を寄せた。
「そうか。礼を言う。下がってよい」
すると、ルーミアはもっと色好い返事をもらえると思っていたのか、途端に不満気な顔をする。
「ですが、峯慶殿下――」
「ルーミア」
その時、今まで黙り込んでいた由梨亜妾が、口を挿んだ。
「……何でしょう?」
気を挫かれたルーミアは、引き攣った顔で由梨亜妾を見やる。
「深沙祇妃の、御容体はいかがです? 深沙祇妃の出産の御予定日は、今月の二十九日でしたよね? なのに、二週間も早く……。深沙祇妃は、大丈夫なのですか?」
その言葉に、ルーミアは鼻白んだ顔を見せる。
「大丈夫ですわ。深沙祇妃様は、今第三十八週目に入ったところでしたので、正期産のうちに分類されます。もう二週間早ければ、確かに早産ではありましたが、そうではありません。正常な、御分娩に御座います」
「そうですか……。深沙祇妃と、その御子が御無事ならば宜しいですわ」
「そうですわね。失礼致しますわ」
ルーミアは面倒臭そうに言い放つと、返事を待たずに部屋を出て行った。
そのあまりの態度に、峯慶は眉を寄せ、沙樹奈后は苛立ちを含んだ溜息をつき、由梨亜妾は困った顔をした。
「深沙祇妃……大丈夫でしょうか? ただでさえも、初産だと言うのに……」
「貴女が、そこまで心配なさる必要は御座いませんわ、由梨亜妾。深沙祇妃には、深沙祇妃の侍女や侍従が付いております。大丈夫ですわよ。侍医は、物慣れた方ですもの。きっと安全な出産になりますわ」
「そう……ですね。きっと、大丈夫ですわよね」
「だが、心配なのは其方も同じだぞ、沙樹奈后。由梨亜妾の予定日はまだ六日後だが、其方の予定日は十日で、もう五日も過ぎている。もうそろそろ、四十一週になるだろう? 四十二週を過ぎたら過期妊娠と言って、危険が増すと聞く。まあ、そうなる前に、侍医からは人工分娩を勧められるとは思うが……」
眉を顰める峯慶に、沙樹奈后は笑い飛ばした。
「大丈夫ですわ、峯慶御異母兄様。この子は御腹の中が心地良過ぎて、あまり外に出たくないだけです。心配しなくとも、数日中には産まれます。間違いありませんわ」
「そうか……其方が言うのなら、そうなのだろうな」
峯慶は、沙樹奈后の自信に満ちた様子に、仕方なさげに苦笑した。
前にも似たようなことがあったのだろうか、沙樹奈后もころころと声を上げて笑う。
その異母兄妹の様子が、何となく羨ましくなった。
明らかに、峯慶と共にいる時間は、由梨亜妾よりも沙樹奈后の方が長いのだ。
血の繋がり故仕方がないとは思うが、それでも、羨ましくて堪らなくなった。
「ですが……深沙祇妃の子供が、峯慶御異母兄様の次代の国王になりますのね。これで、深沙祇妃も少しは大人しくして下さると、助かるのですけれど……」
沙樹奈后は、そう嘆息して言った。
「ええ……そうですわね。わたくしには、勝敗という思いはないのですけれど、深沙祇妃としては、これで、勝った、と……そう、御思いになられているのでしょうね。深沙祇妃の御子が、健やかに育ってくれれば宜しいのですけれど……」
由梨亜妾がそう言って遠い目をすると、沙樹奈后にたしなめられた。
「由梨亜妾? 周りの人間の心配をするのは、貴女の美徳だとは思いますわ。けれど、貴女御自身、ただの身では御座いませぬのよ? もっと御自分のことを気に掛けて下さいな」
「そうだな、由梨亜妾。沙樹奈后の言う通りだ。其方はもっと、自分自身のことを大事にするべきだな。他人の心配ばかりしていたら、いつか足元をすくわれることにもなりかねない」
その言葉に、思わず由梨亜妾は吹き出した。
「まあ……申し訳ありませんわ。峯慶殿下、沙樹奈后。……わたくし、三月前にも、わたくしの上級侍女のルーシェにも、体を大事にと言われていたのを、忘れておりました」
「まあ……。由梨亜妾ったら。上級侍女にも言われてしまうなんて。やっぱり、気を付けるべきですわ。ただでさえも、貴女はこれから母になるのですから」
沙樹奈后に言われて、由梨亜妾は微笑みを返すと、そっと自らの腹部を撫でた。
すると、大人しめの微かな動きが、掌を通して伝わってくる。
その動きに、由梨亜妾は益々頬を綻ばせた。
(大事な、大事な……わたくしの、子供。深沙祇妃に陣痛が御起きになられたというのは、こうして考えてみると、よいことなのかしら……? 少なくとも、わたくしの子供が王になるという可能性は、格段に低まったわ。だから、この子に危険が及ぶ可能性も、きっと低いわね……。だから、大丈夫、よね……? 後は、ゆっくりと、産まれて来るのを待つだけ、かしら……)
由梨亜妾は、再び腹部を撫でた。
今度は、赤ん坊からの反応は、なかった。