第二章「天佑を得たか、否か」―2
今回、妊娠・出産についての記述が多くあります。苦手な方はご注意下さい。また、もしかしたらその内容に誤りがあるかも知れませんが、それについてはご指摘頂けると嬉しいです。
「今、わたくし達の子供は七ヶ月になります。一般的には安定期と呼ばれていて、流産の危険も少ないそうです。ですが、言い換えれば、安定期に入る前の初期の段階であれば、流産しても、それほど可笑しく思われないということですわ」
驚きに目を瞠る紗羅瑳侍に、沙樹奈后は小さく肩を竦めた。
「それは、本当にさり気ないようなことだったので、わたくしも、最初は気付きませんでしたの。ですが、出産経験のある侍女に注意されて、初めて知りました」
「一体……一体、何が……?」
狼狽える紗羅瑳侍に、沙樹奈后はティーカップを持ち上げて見せる。
「これ、ですわ」
「『これ』、って……お茶、ですか? ……ま、まさか……お茶の中に、毒物が紛れ込んでいたのでは……!」
口元を手で押さえる紗羅瑳侍に、沙樹奈后は小さく笑みを浮かべた。
「いいえ、違いますわ。むしろ、そうやって分かりやすくやってもらえれば、こちらに口実を与えることになりますもの。向こうだって、そんなことは致しませんわ」
「では、一体何を……?」
本気で首を捻っている紗羅瑳侍に、由梨亜妾は助け舟を出すことにした。
「紗羅瑳侍。わたくし達は何度も、こうしてお茶会をしておりますわよね? わたくし達が妊娠する前も、こうして妊娠した後も」
「……? ええ、確かに、そうですけれど……?」
「では、以前は主に紅茶が供されていたのに、わたくし達が妊娠してからは、ハーブティーに……それも、特定のハーブは決して使わない物に変わったのを、可笑しくは思いませんでしたか?」
「あっ……確かに、言われてみれば、そうですわ……。何故、ですの……?」
その言葉に、沙樹奈后は微笑んだ。
「実は、紅茶やそれと同じ茶葉で作られた御茶は、あまり妊娠中には良くないそうですわ。ああ、確か、珈琲もでしたわね。何でも、カフェインがあまり良くないとか。それと、ハーブの中でも、緋衣草系や薄荷、花薄荷、加密列、ああ、あと立麝香草や迷迭香や茉莉花や目箒、それと香水薄荷や薔薇や菩提樹なんかもあったかしら? その辺りも、流産しやすくなったり、ホルモンのバランスが崩れてしまったりするらしいのです。まあ、他にもあまり摂取してはいけないハーブがあるらしいのですけれど」
ずらずらと並べられたハーブの、あまりの種類の多さに紗羅瑳侍は目を白黒させた。
「ま、まあ……そ、そこまで、あるのですか……?」
「ええ。そうですわ。わたくしも、知った時にはとても驚きましたもの。とても禁忌が多いのだと思いましたわ。ですが、こうした御茶の一杯程度では、大した害もないそうですの。あまり、神経質にならなくてもいいと、異母姉に言われましたわ」
由梨亜妾がくすりと笑って言うと、紗羅瑳侍は益々混乱したようだ。
「え、では……一体、何が……?」
「確かに、あまり摂取しなければいいのですわ。実際この御茶にだって、僅かにですが薔薇が入っておりますもの。ですが、それが大量に入っていたら? それも、このように様々な種類がブレンドされた状態で」
ハッと、紗羅瑳侍が鋭く息を呑んだ。
「しかも、それだけではなくて、料理にも沢山使われていたら? その上、それが何日も何日も続いたら? ……誰だって、流産しやすい状態になるでしょうね」
「そ、んな……」
「まあ、さすがにそこまでハーブ尽くしだと、いくら何でも可笑しいでしょう? それに、わたくし達の周りの全員が、何の知識もないという訳もないですし、すぐに注意が払われましたわ。その御蔭で今もこうしているのですけれど……」
遠慮がちに笑う由梨亜妾に、沙樹奈后が溜息をついて言った。
「あら、由梨亜妾。真実を伝えなくては駄目ですわ」
「真実……ですか?」
「ええ、紗羅瑳侍。あの多量摂取してはならない物尽くしの食事と御茶責めを、何とか防ぐことができたと思ったら、偶然を装ってわたくし達を突き飛ばそうとする者達が出て参りましたのよ。勿論あくまでも偶然でしたので、咎めることはできなかったのですけれど」
強く扇子の要を握り締める沙樹奈后に、由梨亜妾は思わず顔を引き攣らせ、紗羅瑳侍は不安げな顔をした。
「そんな……それでは、御二人の御体がっ……!」
「いいえ、恐らくここまで来れば、大丈夫だと思いますわ、紗羅瑳侍」
由梨亜妾は、紗羅瑳侍の不安を宥めるようにゆったりと笑った。
「四ヶ月前に御公務で旅立って行かれた峯慶殿下だって、来月には帰っていらっしゃいますわ。そうすれば、何の不安もありません。深沙祇妃とその後見達は、峯慶殿下の御機嫌を取るので精一杯になりますわ。それよりも、わたくしが気掛かりなのは……」
由梨亜妾が暗い顔で溜息をつくのに、沙樹奈后と紗羅瑳侍が首を傾げる。
「深沙祇妃の身の内に宿っている、御子のことですわ。深沙祇妃の予定日は八月の二十九日で、最も早い沙樹奈后とは十九日も違いますでしょう? それで、深沙祇妃が最も早くに子を産もうと、わざと出産を早めるような真似をしないかどうか、不安でなりませんの」
「あら。ですが、それで体を壊したとなれば、本人の責任でしょう? 由梨亜妾には関係ないことですわ」
「ええ、確かにそういった見方もあります。ですが、深沙祇妃が早まった真似を仕出かしたとして、その御子はどうなりましょうか? 万が一にでも障害が残ったとすれば……」
顔を曇らせる由梨亜妾に、沙樹奈后が明るい声で笑った。
「確かにそうですけれど、それは杞憂に過ぎませんわ、由梨亜妾。起こってもいないことを心配して体に負担を掛けるよりも、峯慶御異母兄様が間もなく帰っていらっしゃることを喜びましょう? そちらの方が、余程体によいですわよ。由梨亜妾がそのような御様子では、御腹の中の御子まで心配してしまいますわ」
沙樹奈后の冗談に、由梨亜妾は思わず吹き出した。
それにつられて、紗羅瑳侍もくすくすと笑声を漏らす。
いつの間にか、三人は笑い転げていた。
由梨亜妾は、自室に戻ると、ソファーに体を預けるようにして座った。
お腹の中の子供が大きくなっていくうちに、何となく腰の辺りがだるくなってきたのだ。
だるいのは辛いが、子供が成長している証しだと思えば、それも嬉しい。
けれど。
(嗚呼……本当に、どうして……どうして、沙樹奈后と深沙祇妃とわたくしが、同時期に妊娠しなければならなかったの……? わたくしは、自分の子供が――峯慶殿下との御子が、ただ元気に、健やかに育ってくれれば、それだけでいいのに、どうして、こんな……。もし、この世に神がいるのならば、何て残酷なことをするのかしら。いくら深沙祇妃御自身に問題がおありだと言っても、適切な教育を施しさえすれば、その御子が王位を継ぐのには何の問題もありませんわ。それなのに、どうして、野心のある方と野心のないわたくし達が……。わたくしは、こんなこと、望んでなんかいないのにっ……!)
由梨亜妾の意識を現実に引き戻したのは、ミリュアとルーシェの声だった。
「由梨亜妾様……由梨亜妾様? いかがなされましたか?」
「御具合でも、御悪いので御座いますか?」
「いいえ。大丈夫ですわ。ただ、少し疲れてしまっただけです。それに、少し体がだるくて……」
由梨亜妾がそう言って苦笑すると、ミリュアとルーシェは顔を見合わせた。
「まあ、それは……」
出産経験のないミリュアが不安そうな顔をすると、二年前に娘を一人産んだルーシェは、にっこりと微笑んだ。
「ええ。そうですわね。確かに妊娠中は、そういうこともありますわ。ですが、由梨亜妾様。わたくしと違って貴女様は、換えのない大事な唯一の御身にあらせられます。ですから、体に負担を掛けぬよう、無理をしないよう、どうぞ御自愛下さいませ」
微笑みながら、けれど瞳の奥に不安を抱えた従妹の姿に、由梨亜妾は思わず背筋を伸ばした。
「ええ。分かりましたわ、ルーシェ。気を付けます」
「はい、由梨亜妾様。本当に、御身御大事に」
ミリュアとルーシェの不安そうな目に、由梨亜妾は宥めるような視線を返すと、そっと目を閉じ、服を着ていても目立つ腹をそっと撫でた。
(この中には、大事な、とても大事な『命』が入っているのね……。わたくしと峯慶殿下の、大切な、子供。この子は、無事に大きくなれるのかしら? どういう子に、育つのかしら? とても楽しみだけれど、少し不安ね……。早く、産み月にならないかしら? 産まれたら、わたくしがこの手で抱きかかえて、峯慶殿下に御見せしたいわ。この子が……わたくし達の、子供。わたくし達の間で、最初に産まれた子供なのだと……)
由梨亜妾は、腹の中で子供が微かに動くのを感じ、そっと微笑んだ。
この時、由梨亜妾は幸せだった。
子供が産まれたその後に起こる一切を、何も知らなかったら。
沙樹奈后、深沙祇妃、由梨亜妾、そして峯慶を巻き込む悲劇を――。