―赦せない人―1
本編第Ⅰ部~それぞれの居場所~と第Ⅱ部~戦いの幕開け~の間の、富瑠美が主人公の話です。
以前より暖かくなった風が、富瑠美の執務室に吹き込んで来た。
富瑠美は思わず手を止め、開け放たれた窓から外を眺める。
緯度の高いシャンクランでは、この頃ようやく暖かくなって来た。
新緑の薫りが漂う柔らかな風に、富瑠美は思わず目を細める。
(御異母姉様……今、一体どこにいらっしゃるのですか……? もう、あれから、一年……)
富瑠美は唇を噛み締めた。
父が暗殺され掛けて意識不明となり、異母姉が失踪し、義母が王宮を追い出され――そして自分が王位に即いてから、もう一年が経つのだ。
けれど、父は未だに目覚めず、異母姉も見付からず、義母も王宮に戻って来ることはない。
父を暗殺しようとした犯人は、対外的にはもう捕まっていて、彼らには終身刑が言い渡されていた。
でも――
「違う……絶対に、違うっ……!」
あの二人が、そんな馬鹿なことを仕出かす訳がない。
「ノワール殿とフォリュシェア殿は――あの御二方は、決してあんなことをなさる方では御座いませんのに……何故……」
ノワールとフォリュシェア――前戦祝大臣と前政財大臣は、富瑠美の祖父である三代前の花鴬国国王花雲恭籐聯によってその忠節を認められた人物であり、花雲恭癒璃亜、花雲恭籐聯、花雲恭峯慶、花雲恭富実樹の四代の国王に官吏として仕えた人物でもある。
二人は政治家としてとても有能であり、特にノワールの方は富実樹の外祖父でもあった。
歳も近く、貴族としての地位も花鴬国で最高位に位置していることもあり、この二人は非常によく似通っていた。
けれど、それにも拘らず――いや、だからこそなのか、二人の仲はすこぶる悪く、互いを嫌った故の愚行こそ起こさなかったが、それ以外のところでは徹底的に対立していた。
その様は、むしろ見事なほどだ。
だから、その二人が先々王――花雲恭峯慶を暗殺しようとしたなんて、とても信じられない。
人格者と言われるような人間が凶悪犯罪に手を染める例など、それこそ古今東西、星の数ほどある。
しかし、彼らは五十年もの長きに渡って貴族出身の官吏として王宮に勤め、ここ最近の約二十年は、それぞれ大臣に就任していた。
そんな長い間、本性を隠すのは無理があるだろう。
それに、この二人は犬猿の仲なのだ。
こんなことに協調するなんて、それこそあり得ないのだ。
でも、実際二人は捕まった。
その証拠は、『去解鏡』である。
去解鏡は、偽りを映し出すことができない。
扱いこそ難しいが、自在に操れるのであれば、それは最も有力な証拠となり得るのだ。
だから、その二人は捕らえられ、義母は――マリミアンは、王籍からその名を抜かれ、王宮も追放されてしまったのだ。
去解鏡が、ノワールとフォリュシェアが犯人だと、そう示したから。
富瑠美は、耐え切れずに立ち上がって、力強く窓枠を握る。
「こんなの、全部嘘ですわ……。御二人が、あんなことをする訳がないっ……! あんな結果、絶対に捏造された偽りに違いありませんわっ! 全ては、あいつが――宗賽大臣が悪いのです! 全部全部、あのシュールのせいですわっ!」
つい先日、富瑠美はシュール達に呼び出された。
そして、そこで富瑠美は、父を暗殺しようとしたのがシュールだと確信した。
これは自分の直感でしかないが、シュールが開戦派だったということ、そして、今王宮で最も権力を握っているということを踏まえたら、辿り着く答えは一つしかないのだ。
(でも……一体、どうやってノワール殿とフォリュシェア殿を、陥れたのかしら……? 去解鏡は、真実しか映し出せない。ならば、そう、偽りを述べたのは、人間のはず……。でも、当時に誰が去解鏡を視たのか、そんな記録はないですわ……。もしそういう物があるのであれば、鴬大臣であったわたくしが気付かない訳が御座いませんもの)
「でも……今わたくしが動いたとしたら、シュールに警戒されて、何も得られませんわよね……。一体、どうしたら……。嗚呼、せめて、御父様が御目覚めになって下されば宜しいのに。御父様であれば、きっと立ち所に解決なさって下さいますわ……」
――その言葉は、自らの無能と力のなさを示すものでしかない。
けれど富瑠美は、幼い頃から王になる気は皆無だった。
養母であるマリミアンに、異母姉の存在を事あるごとに聞かされていたからだろうか。
元々、富瑠美の役割というのは、いざと言う時の代用だったのだ。
もし富実樹が戻って来なかった時に、杜歩埜と結婚して王位に即く。
それが、富瑠美に期待されている役割だったのだ。
だから、帝王学や政治学、外交や経済、福祉、医療、環境問題に貿易――その他あらゆる国政に関わることを、徹底的に叩き込まれた。
王になるには相応しい教養はある。
けれど、富瑠美自身に王になる気がなかった為、国の最高位に即くという覚悟はなかった。
臣下としての部下の使い方は知っていても、王としての臣下の使い方、信じ方は分からなかった。
だからこそ、今こんな事態になっているのかと思うと、悔しさのあまり涙がにじむ。
異母姉よりも、自分の方が父といる時間は長かった。
その間に、王として必要な立ち居振る舞いや心構えを盗んでおけば良かったと、今更ながらに後悔が尽きない。
「せめて……せめて、証拠があれば……証拠さえあれば、きっと……」
けれど、そんな物はどこにもない。
富瑠美が鴬大臣のままであれば、もしかしたら何とかなったかも知れないが、今の鴬大臣は異母妹の麻箕華だ。
麻箕華は紗羅瑳侍の娘であり、仲が悪いとは言わないが、腹の内を全て曝け出せるほどには親しくもない間柄だった。
それに、同母の弟妹とは麻箕華以上に気が合わないし、それほど親しくしたいと思えない。
彼らの性格は、どこか高慢で、意地っ張りで、人を見下していて……富瑠美の大っ嫌いな、深沙祇妃の性格と酷似しているのだ。
彼女とは、マリミアンが王宮を追い出された時に凄まじい大喧嘩をしており、富瑠美自身としてはもう親子の縁を切っていた。
それでも、深沙祇妃が富瑠美の産みの親である事実には変わりなく、彼女が王太后という地位に遇せられるのを止める術はなかった。
だから、せめてもの抵抗策として、富瑠美は即位して以来、儀式の時にしか深沙祇妃と顔を合わせようともせず、会ったとしても必要最低限の言葉しか掛けなかった。
こんなことでしか反抗できず、本当に母と慕っている人物を呼び戻すこともできず、これでどこが王なのか、国の最高権力を握る者なのかと思うと憤ろしい。
そう、もうこの王宮で、富瑠美が心を許せるのは、二人しかいない。
それは、異母弟の柚希夜と、そして――
「富瑠美御異母姉様? 今、御時間は宜しいでしょうか」
滅多に本宮では見掛けない異母妹の姿に、富瑠美は思わず目を丸くした。
「あら、些南美? いかがなさいましたの? 貴女が本宮に参るなど、本当に珍しいこと」
その言葉に、些南美はにこりと笑って返した。
「まあ、富瑠美御異母姉様。わたくしは鴬大臣でも御座いませんし、ましてや王などでも御座いませんわ。用もないのにこちらから本宮へ赴くなんて、はしたないでしょう?」
「それはそうですけれど……それでは、些南美。わたくしに、何か用でも御座いますのかしら? 杜歩埜や璃枝菜や鳳蓮ならば、こちらでもよく御見かけ致しますが、貴女は後宮からは滅多に出ては参りませんし……本当に、何が御座いましたの?」
富瑠美は、不安そうに眉を寄せて些南美を見詰めた。
富瑠美がここまで言うほどに、些南美が本宮に来るのは珍しかったのだ。
些南美の他にもいるが、政治に対する興味関心の薄い者は、基本的に本宮に足を運ばない。
それこそ、総票会などの王族の出席を必要とする会議や、国賓が来ている時、王族の出席が必要なパーティーや晩餐会が開かれる時でないと、彼らは本宮に来ないのだ。
些南美も、そのうちの一人だ。
「ええ、少し……富瑠美御異母姉様の御時間を、下さいませ。御願い致しますわ」
些南美の真剣な表情に、富瑠美は笑みを消す。
「……それは、とても重要なこと?」
「はい」
間髪を容れずに答えた些南美に、富瑠美は眉を寄せて今日の予定を思い出した。
「そう、ですわね……本日は、これを片付けた後に、外務大臣との会談の予定がありましたけれど――」
富瑠美は、にっこりと笑った。
「外務省の人間は、何かと動きが遅いのですわ。特に、官封貴族が。世襲で官吏になれるからと、少し怠けているのかも知れませんわね。貴族が大臣を務めていらっしゃるからかしら?」
その悪戯っぽい言葉と笑みに、些南美も強張った表情を和らげた。
「ええ……もしかしたら、怠け癖が付いているのかも知れませんわね。ですが、富瑠美御異母姉様。官封貴族だからと、皆が皆怠けていらっしゃる訳では御座いませんわよ? 少なくとも、わたくしの知る限りでは、戦祝大臣という仕事を勤めていらっしゃるシャーウィン伯父様や、前政財大臣殿の御嫡男であらせられるウォルト様は、立派に御勤めを果たされておいでですもの」
「ええ、そうですわね。御二人とも、大臣としては若輩の身ではありますけれど、その仕事ぶりは高く評価できますわ。――ところで、些南美。今、スウェール大臣とシャリク大臣の名は挙げましたけれど、ウィレット大臣の名は、挙げておりませんわよね?」
些南美の和らいだ表情が、再び強張る。
「花鴬国の主な大臣として、まず挙げられるのは、戦祝大臣、政財大臣、宗賽大臣。代々世襲制の珍しい大臣職ではありますが、その歴史故に、逆に不正が難しい役職でもあります。そして、それぞれの貴族としての地位は、戦祝大臣、政財大臣、宗賽大臣となっておりますが、いずれも国内屈指の大貴族。……最初の二人だけを挙げ、うっかり宗賽大臣を含めるのを忘れた、という可能性は、なきにしもありませんが……」
富瑠美は小さく溜息をついた後、穏やかに微笑んだ。
「やはり、そうでは御座いませんのね。――では、外務大臣との会談は、目眩が致しますので延期とさせて頂きましょうか。実は、本日の会談では、早く仕事を片付けるように促す予定でしたの。外務省からの書類待ちをする数多の省庁から、わたくしも責っ付かれておりましたので」
「まあ。富瑠美御異母姉様がそこまでなさらなければならないほど、外務大臣の怠慢は酷いのですか?」
顔を強張らせていた些南美も、『王からの勧告』が必要だという事態に呆れ顔だ。
「ええ。怠慢と申しますか……そうですわね、初動が遅いのですわ。だから、色々な物事がもつれ合って、結果的に怠惰な省にしか思えなくなってしまうのです。大臣は……その、期限までに提出できればそれでいい、だったら期限の何時間か前までに出せればそれでよいだろう、だからこの案件は先送りに――という考えで動いているようで……。書類の不備や、やり直しが起こるなどとは、考えてもいらっしゃらないようですわ。御自分が完璧人間だとでも、勘違いなさっておられるのではないでしょうか」
富瑠美は深い溜息をつくと、些南美に苦く笑った。
「ですから、本日の会談も、きっと遅刻して来ることでしょう。本当は時間通りに来る予定だったけれど、様々なことがあって結果的に遅れてしまったと、下らない言い訳をぶら下げて。ですから、わたくしが一身上の都合によって大臣との会談を延期しても、文句は言えませんわ。もし言われたら、こちらにも様々な都合があると言い返せばよい話ですもの。なので、些南美。わたくしの私室で御待ち頂けませんか? この残った仕事を片付けると……そうですわね。二時間もあれば戻れると思いますので、五時頃に」
「はい、分かりましたわ。富瑠美御異母姉様」
執務室に入ってきた時よりも力が抜けた面持ちで頷くと、些南美は礼をして部屋を出て行った。
富瑠美は些南美が出て行った後、小さく溜息をつくと、席に着いて重要書類が詰まったデスクトップを立ち上げた。
単純に入力すれば済む書類を手早く片付け、肉筆の署名が必要な書類には手書きで署名する。
二時間で終わらせると宣言したのだから、それ以内に終わらせなければならなかった。
慌ただしく書類に目を落とす富瑠美の顔は、どこか緊張していた。
……そう、とうとう、大事な異母妹が気付いてしまったのだ。
自分の父を殺そうと企てた上に、祖父と祖父の宿敵を追い落とし、冤罪を着せ付けたのがシュールだと。
――一見、穏やかな宗教家にしか見えない宗賽大臣が、あんな酷いことをやったのだと。
(続)