―無自覚の新しい世界―4
千紗が家に帰ると、玄関で耀太が仁王立ちをしていて、思わずぎょっとして立ち竦んでしまった。
「お、お父様?」
「千紗! お前、今何時だと思っている! もう七時を過ぎているのだぞ!」
そう怒鳴る耀太に、千紗は溜息をついて瑠璃を見た。
「言ってなかったの? お母様。あたし今朝、今日は部活見学があるから遅くなるって言ったよね?」
「ええ。勿論聞いていたわ。でも、言う暇がなかったのよ」
和やかに会話を交わす母娘に、父が額に青筋を立てる。
「……それでも、遅くなるならなるで、連絡の一つも入れるべきだろう!」
「え、そんなの無理だよ。あたし、携帯端末持ってないもん。あ、それともお父様、買ってくれるの?」
「誰が買うかっ!」
すかさず怒鳴る耀太の声の大きさに、千紗は顔を顰めた。
「じゃあ、連絡入れるなんて無理じゃん。何言ってんだか。矛盾しまくり。あり得ない。それで本条グループの総帥とか、よくやってられるよね、お父様」
千紗はそう言うと、溜息をついてダイニングへと急いだ。
「それよりもあたし、お腹空いちゃった。もうご飯できてる?」
「ええ。あとは私達が席に着くだけよ」
瑠璃がそう言うと、千紗はぱっと顔を明るくさせた。
「じゃ、早く食べよう! あ、それと、今日吹奏楽部に入部したから」
その言葉に、耀太がぎょっとして凍り付く。
「お、前っ……! 忘れたのかっ?! 中学校の吹奏楽部が、どんなに悲惨な部活だったのかっ!」
「だから、それはあの学校だけだってば。嶺郷高校の吹奏楽部って、この辺りだと有名なくらい強いんだよ? 大陸での大会に進出するくらい普通のレベルなんだってば」
千紗は顔を真っ赤にする耀太を無視して、勢い良く食事を掻き込む。
ほんの少しでも長く、耀太と一緒にいたくないのだ。
高校受験で父とぶつかってから、千紗と耀太の仲は決定的に悪くなっていた。
私立の学校に通えとか、婚約者候補と会えとか、千紗には納得できないことばかりを強制して来るのだ。
(まあ、あたしには好きな人はいないけど……でも、だからってあいつらは気に入らないし、あんな程度で妥協したくもないし。そもそもあたし、初恋って……あれ? ないよね? でも、あったような気もするし……ん? まあいいか。あったとしても、どうせちっちゃい頃だろうし)
千紗が食事を掻き込む間に、瑠璃が耀太を慰めていた。
さすがは年の功と言うか、母は父を宥めるのが上手い。
会えばすぐに角を突き合わせてしまう千紗とは、大違いだ。
……そう、母には、感謝していた。
何しろ、自分と父が衝突するたびに、おっとりと父を絡め取ってあやふやにさせてくれるのだ。
けれど、母とも合わないことがある。
母は、自分が父と上手く行ったから、婚約者候補のことには賛成なのだ。
(いくら自分が婚約者と恋愛できたからって、それをあたしにも押し付けないでほしいよ、ほんと……)
千紗は内心溜息を吐くと、席を立った。
父のせいで、すっかり早食いが身に付いてしまったのだ。
その時になって、ようやく耀太は落ち着いたらしく、既に食べ終わった千紗を見て目を瞠っていた。
「じゃあ、あたしはご飯も食べ終わったから、部屋に戻るわ」
「ああ、ちょっと待って、千紗」
既に部屋から一歩出ていた千紗は、ゆっくりと振り返る。
「……何? お母様」
「貴女、何の楽器をやるの? 娘が楽器を演奏するって、何だか想像するだけで楽しいわ」
にっこりと笑って言う瑠璃に、千紗は毒気を抜かれて脱力した。
「……まだ本決まりじゃないんだけど、一応ホルン希望」
「そう。頑張ってね」
相変わらずの、母のおっとりとした笑顔に、ようやく千紗の頬から強張りが解けた。
「……うん」
千紗は小さな声で返事をすると、階段を上がり自室に戻った。
途端に、千紗の顔が歪む。
そのまま寝台の上に身を投げ出し、枕元の棚に置いてあったオルゴールを持ち上げた。
――千紗は、赤が好きだ。
赤や黄色などの暖色系が好きで、青などの寒色系は、見る分にはいいのだが、あまり持ちたいとは思えなかった。
でも、このオルゴールは、青と白を――典型的な寒色を基調としていた。
しかも、これは特注品であり、おまけに千紗をイメージして作られたとも言われているのだ。
どうしても、これを作った人の目は節穴ではないかと疑ってしまう。
寒色を基調としている上に、そのデザインは『繊細』としか言いようがない。
もし、これが子供の頃に作られたというのなら納得するが、このオルゴールは、千紗が小学校六年生の時の誕生日プレゼントだったのだ。
けれどその時、自分が不満を覚えた記憶はない。
綺麗な物だと感動した記憶があるのだ。
初めて『自分に合わない』と思ったのは、それから一年以上が過ぎた頃――確か、中学校一年生の秋頃だ。
その時間の流れが、どうしても腑に落ちない。
何故なら、その約一年の間に、自分の嗜好が変わったとは思えないからだ。
それに、他にもある。
千紗は身を起こすと、部屋を見回した。
家具やカーテンなどは、ここ数年で入れ替えていた。
つまり、それ以前の物は、千紗にとって気に食わない物だったのだ。
青、青、白、繊細なデザイン――
「何でだろ……あたし、何でそんなのを選んだのかな……」
この部屋は、五年生で引っ越してくる時に千紗が選んだのだ。
なのに、気に食わない。
その違和感と怖さは、言いようがない。
千紗の周りは、そんな物でいっぱいだった。
それも、ある時期を過ぎてから……そう、中学一年の、夏の終わりから、それが始まったのだ。
一体、その時期に何があったのだろう。
けれど――
「…………」
千紗は、無言でオルゴールを開けた。
途端に、軽やかな音楽が流れ出す。
カノン、もしくはパッヘルバルのカノン。
正式名称は、『三つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』第一曲と言うらしい。
このやけに長ったらしいタイトルは、今から千五百年以上も前の時代の人達にとっては普通だったようで、その時代のいわゆる『クラシック音楽』は、正式な名前ではなく、『第九』や『アリア』、『カノン』や『運命』のように、短い通称で呼ばれることが多かった。
このカノンは、最初はどこか物哀しげな旋律だが、サビのところまで来ると、どこか軽やかな印象が強い。
その時代の音楽はどこか重厚感が強くて、楽しげなものは少ないから、どこか珍しく思った。
だからなのか、カノンの主にサビの部分は、色々な所で耳にする機会が多かった。
でも、このオルゴールには、最初から最後までカノンが収められていた。
だから、今流れているのは、物哀しげな旋律だった。
けれど、サビに到達するその前に、オルゴールは力尽きて鳴らなくなる。
何とも前時代的だが、このオルゴールはゼンマイで動いているのだ。
最早工芸品以外では使われない技術ということもあり、ゼンマイ仕掛けの物は、現代ではかなり高価な贅沢品だ。
「何であたし……この音楽にしたんだっけかな……」
確か、その時に習っていたピアノの曲がこのカノンとG線上のアリアで、どちらにしようか迷っていた記憶がある。
……でも、今は、そんなにクラシックは好きではない。
どちらかと言えば、現代音楽の方が好きだ。
『カノン』という曲自体は、このオルゴールに合った曲だと素直に思うが、曲もオルゴールも、千紗の好みと合致しないのだ。
到底、誕生日プレゼントに貰うような物ではない。
けれど、これだけは違う。
千紗は、音のしなくなったオルゴールの中から、ビーズで作られたアクセサリーを取り出した。
稚拙な作りのそれは、明らかに市販品ではない。
けれど、どこか温かみのある物である上に、使用されている色は、濃い赤紫と薄桃色を上手く組み合わせていて、千紗の好みと合っていた。
外に付けて出ることはないが、それでもこれは、千紗の一番のお気に入りなのだ。
――でも、一体どこでこれを手に入れたのか、千紗は憶えていない。
「…………っ!」
思い出そうとすると襲い来る痛みに、千紗は頭を抱え込んだ。
その痛みの中で、何かが脳裏をよぎる。
柔らかな質感の茶色の髪、そして、癖っ毛の栗色の髪――。
逆光の中、唇が動いているのが見える。
そして、強い光の中でも分かる、強い意志と知性が露わに光る瞳――。
……けれど、それ以上は思い出せなかった。
千紗は、オルゴールの螺子を巻いた。
すると、途切れたところから、すぐにサビが流れ出す。
軽やかな音楽は、けれど、どこか淋しげでもある。
あまりにも有名なその旋律は、好む者も多い。
『私、これが好きなんだ』
千紗は、ぱっと顔を上げた。
「今……何か……。あれ、誰……?」
けれど、誰だったのか、思い出せない。
千紗は顔を歪めた。
(確か、あたしが今まで親しく関わって来た中で、こういうことを言いそうなのって、眞祥かな……? でも、眞祥ってブルジョア気取りもどきの紅茶狂だけど、そんなにクラシック好きでもなかったような……。じゃあ、双葉か若葉なのかな? あの二人は内親王だし、あり得なくはないだろうけど……)
それでも、やっぱり違うのだ。
この中の、誰でもない。
(じゃあ、一体誰なの……? どうして……? あたしは、一体何を忘れてるの……?)
常に身を付いて回る違和感と不安感。
多分、自分は記憶を喪っているのだろう。
そう最初に思ったのは、一体いつだっただろうか。
けれど、周りは何も言わない。
もし敢えて黙っているのであれば、それを感じるはずだし、黙っていないのなら、そのことを口にしているはずだ。
どちらでもないこの現状は、千紗に嫌悪と惧れをもたらした。
「あたしって……一体、何なんだろうなあ……」
でも、その違和感は、喪った記憶を取り戻さない限り、決してなくならないだろう。
そして、取り戻せる可能性は――多分、ゼロに近い。
千紗には、そんな確信が、何故かあった。
そう、自分は『何か』を忘れている。
そのことを、きっと心の奥底で憶えている。
けれど、それは絶対に思い出せないということも、その思い出せないことが、自分にとって、とても重要で――とても大事なことだということも、心の奥底では分かっている。
だったら、いつか思い出せる時を夢見て足掻くのも大事だろうけれど、今も楽しまないと、絶対に損だ。
自分は、『今』を損することを絶対に望んでいないし、いつか『何か』を思い出せる時が来た時に、絶対に後悔する。
それだけは、何もかもが不確かな千紗にとって、唯一に近い『確かなこと』だった。
千紗はベッドから飛び下りると、鞄を開けた。
まだ入学したばかりだというのに、もう既に宿題が出されているのだ。
さすがに、進学校という能書きは伊達ではない。
量も質も、本当に半端ないのだ。
正直、部活との両立も不安になるくらいにある。
でも、学校に付いて行けなくなれば、父から嫌になるほど厭味を言われるだろうし、千紗も悔しい。
だから、勉強を頑張って、部活も中学校からやっている人達に追い付けるよう猛練習し、汐華から頼まれたバンドも精一杯やらなければならない。
やるべきことは、山のようにあるのだ。
こんなところでうじうじ悩んで立ち止まっているより、『今』を一生懸命頑張った方が性に合う。
そして、後悔するより、ずっと先のことを思い悩むより、取り敢えず今頑張っておけば、きっと何とかなるだろう。
そんな、希望的観測に近い甘い考えでも、今までやって来られたのだから、多分大丈夫。
そう思って、千紗は取り出した宿題を机の上に置くと、ひっそりと笑みを浮かべた。
(終)