―無自覚の新しい世界―3
「あ、いた! 千紗~、ありがと! 一緒に付いて来てくれて!」
部活が終わる時間に千紗が音楽室に戻ると、クラリネットを抱えた藍南に、何故か突然飛び付かれた。
「ちょっ! 危ないでしょ?!」
千紗は狼狽えながら、慌てて藍南を引き剥がす。
「結局、あたしが一緒にいった意味、あんまりなかったみたいだけど……それで? ここに入部するの?」
「うん! 先輩達もみんなレベル高くて、付いてけるかちょっと心配だけど……でも叔母さん、一応音楽家だから、休みの日にでも特別レッスンやってもらって頑張ろっかなって思うの!」
やる気と向上心に満ちた言葉に、千紗は苦笑した。
「そっか。あたしも、多分入ると思う。できればホルンがいいけど……駄目だったら、他の金管楽器かな?」
「へ~……あ、玲央南先輩!」
藍南が大きく手を振ると、恐らく副部長なのだろう女生徒と頭を付き合わせて話していた玲央南は、振り返ってにっこり笑った。
「あら? 入部決定者でも引っ張って来たの?」
「はい! この子も入ります!」
「あ、ちょっと藍南、勝手に進めないでよ!」
確かに入ろうとは思っているが、今すぐ手続きをしようと思っていた訳でもない。
「え? だって、どうせ入るでしょ? だったら早く手続きしといた方がいいよ!」
「そりゃあそうだけど……。はあ、もういい。先輩、私も入ります」
「よっしゃあ! しーちゃん! 手続き宜しく!」
「は~、全く、レオったらいっつもこっちに雑用押し付けるんだから……」
「いいでしょ? 部長の特権!」
そう言って高笑いの振りをする玲央南に、彼女は苦笑した。
「あ~、はいはい。ほんと、しょうがないなあ。私、三年副部長の村主汐華。じゃあ、ここに名前書いてね。あと、どの楽器やりたいのか聞いてもいい?」
「はい、ホルンがいいなあって思ってます」
「ホルン……!」
途端に、玲央南が瞳を輝かせた。
「しーちゃん! この子逃がしちゃ駄目よ! ただでさえも少ないホルン志望者……!」
「あ、ええっと……ホルンって、希望者少ないんですか?」
千紗が玲央南の勢いに顔を引き攣らせながら問うと、更に玲央南が食いついて来た。
「そうよ! 大抵は木管楽器に流れるし、特にフルートなんか人気高いんだから! その次はサックスとかクラリネットとか……! 金管楽器も、知名度高いトランペットに流れやすいのよ! 特にホルンなんて、どっちかって言うとオーケストラ向けの楽器なんだから、吹奏楽だと人気低いの……いっつも、他の楽器からあぶれた子が必ず一人はいるのよ……」
ずんと落ち込む玲央南に、千紗は思わず引いた。
けれど、汐華は玲央南を無視して話を進める。
「じゃあ、続けよっか。あ、レオは気にしなくていいわよ。ホルンが絡むと人格変わるの、いつものことだから。ほんっとレオ、ホルンラブだからねえ……。じゃ、携帯のアドレス、教えてもらってもいい?」
そう言って携帯端末を取り出す汐華に、千紗は首を振った。
「あ、私、携帯持ってないんです……持ちたいんですけど」
その言葉に、汐華は眉を寄せた。
「そうなの? えっと、その……ちょっと言いにくいんだけど、貴女って初心者よね?」
何が言いたいのか分からず、千紗はきょとんと目を瞠った。
「はい。そうですけど……?」
「えっとね、吹奏楽って、凄いお金掛かるの。別に楽器は買わなくてもいいんだけど、最低限のお手入れ用品とか、チューニング用のチューナーも必要だし、大会に出たり楽譜買ったり、楽器の修理やったり、コンサート開いたり……結構出費が多いの。勿論学校からも貰えるんだけど、毎月部費も徴収しなきゃやってけないくらいなのよ。それで……もし、お金がなくて携帯端末が買えないなら、あんまり吹奏楽はお勧めできないわ」
その見当違いな発言に、千紗は何とか吹き出すのを堪えた。
確かに、もしお金がなくて端末が買えないというのであれば、何かと出費のかさむ部活に入るのは躊躇われるだろう。
だが、そんな心配は、千紗に限ってはただの取り越し苦労でしかない。
「あ、先輩。そいつにその心配は無用ですよ? そいつ、『お嬢様』ですから」
背後から掛かった声に、千紗は振り返って睨んだ。
「ちょっと香麻、『お嬢様』って呼ばないでって何回言わせるの?」
「え? だって、お前がお嬢様なのは事実だろう? 家に召し使いもいるだろうし、そいつらからも『お嬢様』って呼ばれてるんだろうし? だったら俺に呼ばれるのを嫌がる理由が分かんねえな」
「だから、それが嫌なんだってば! 第一同級生から『お嬢様』呼ばわりなんて、ぞっとするよ。ほら、鳥肌立ってる!」
千紗はそう言いながら、腕をさすった。
「え? 千紗って、お嬢様だったんだ」
隣にいた藍南が目を瞠るのを見て、千紗は藍南を睨む。
「別に、あたしがお金を稼いでる訳じゃないし。それに、父親が過保護すぎるし、いいことって言えばお金に制限がないことぐらいだもん。あとはみ~んな制限付けまくりだし。携帯端末だって、うちにお金がないからじゃなくって、あたしを束縛する為に持たせてくれてないんだよ? あ~あ、普通の家に生まれたかった」
千紗は投げ遣りに言うと、汐華が渡したプリントへ乱暴に署名した。
「先輩、どうぞ」
それを受け取った玲央南は、恐る恐る口を開いた。
「あ、あのさ、勝手に部活に入っても大丈夫なの? そんな家だったら、後から駄目って言われたりとか……」
「あ、それは大丈夫です。運動部じゃなきゃいいってお墨付き貰ってますから。文化部でも、忙しくて大変な部活があるっていうの、多分忘れてるんだと思いますけど。でもまあ、一度言ったことを引っ繰り返すのは嫌がる人なので、大丈夫だと思いますよ?」
あっけらかんと言った千紗に、玲央南は引き攣り気味の笑みを浮かべた。
「そっか……うん、大丈夫ならいいんだ……って、え?」
玲央南の表情が、瞬時に凍り付いた。
「あ、あのね、千紗ちゃん。ここに『本条』ってあるんだけど……ま、まさか、あの本条家? えっと、ただの同姓同名よね?」
その言葉に、千紗は目を逸らした。
「…………すみません、その本条家です……」
すると、がくりと玲央南が膝を付いた。
「あ、先輩?」
「ふふ……本条グループって、うちのパパの勤め先だわ……。あ~、確かにパパ、総帥が娘を溺愛してるとか何とか言ってたような……。うん。それだったら、お金の心配なんてないわよね……笑えるわ……はは」
醒めた顔で笑い続ける玲央南に、思わず千紗は一歩引いた。
「うん、そっか……確かに、お金持ちなら部費の心配はいらないわよねぇ……。でも、携帯がないと不便だわ」
そう言って眉を寄せる汐華に、千紗は思わず感心した。
自分で言うのも何だが、『本条家』を知らない人は、この地球連邦にほとんどいない。
明らかに上から数えた方が早い、大財閥なのだ。
だから、玲央南の反応は『普通』と言ってもいいのだが、汐華のこの反応は、ちょっと予想外だった。
「あ、えっと……家の電話じゃ駄目ですか?」
「駄目ね。この人数だと、電話よりメールの一括送信だし。それに、当日の変更だと伝わらないでしょ? ……ねえ、どうしても買ってもらうのは無理?」
熱心に訊ねてくる汐華に、千紗は目を泳がせた。
あの父が、自分の考えを曲げるとは思えない。
千紗だって、どんなに頑張っても、騙し討ちでしか自分の願望を掠め取ることができないのだ。
「無理……だと思います」
「そっか。……じゃ、バイトしない?」
その言葉に、千紗は目を瞠った。
「え……でも、部活は……」
「ああ、それは大丈夫。うちって進学校でしょ? だから、土日のどっちかに丸一日か、両方の午前中もしくは午後に、休みを取らなきゃ駄目なの。あと、平日も一日部活なしの日を作らなきゃいけないのよ。つまり、その日は勉強しろってこと。まあ、その日に遊んでる人もいるし、楽器を持って帰って練習してる人もいるけどね。で、その日にバイトしない? お金を貯めれば、携帯も買えると思うのよね。毎月の使用料だって、使い方に気を付ければ払えるだろうし」
きらきらと、汐華の目が光っている。
確かに、それなら上手く行くかも知れない。
千紗は、ごくりと唾を呑み込んで身を乗り出した。
「あの、それって、どんな感じのバイトなんですか?」
「ストリートミュージシャン――有り体に言えば、素人バンドよ。つまり、アマチュアの路上ライブを手伝ってほしいの。まあ、時々だけどちっちゃい所を借りて、屋内でのライブもやるんだけどね。でも、ちゃんと黒字は出るのよ? 有料だけど、ネットでも配信してるくらいなんだから」
「……トランペットとかならともかく、私、ホルン志望なんですけど……?」
千紗が訝しげに汐華を見上げると、汐華はにっこり笑って言った。
「大丈夫。貴女には、キーボードをやってほしいの。実は、今までやってた子が、ちょっと辞めちゃってねえ……。貴女の気が済むまででいいから、お願い! むしろ手伝って下さい!」
「わ、分かりました! その、休みの日だけで大丈夫なんですよね?」
「勿論! 私達も、それぐらいの日しか動けないし……。って言うか、今更だけど、キーボード弾ける?」
心配そうな顔で覗き込んで来る汐華に、千紗は吹き出してしまった。
「大丈夫です。私、前にちょっとピアノをやってたので、練習すれば勘も取り戻せるだろうし、多分いけますよ」
「そう? 良かった。助かったわ」
そう言って笑う汐華に、千紗も笑みが零れて来た。
「でも……それで、お金貯められるんですか?」
「平気よ。黒字だって言ったでしょ? それに、結構私達のバンドってファンが多いし、一回配信したりライブやると、口コミとファンだけでも結構いけるのよね。キーボードは備品としてあるし」
少しほっとした千紗は、小さく溜息をついた。
確かに、それなら何とかやっていけそうだ。
あとは残っているのは、父の説得くらいだろうか。
千紗は、実に嫌そうに眉根を寄せ、汐華達に気付かれないように溜息をついた。
(続)