―記憶の中の、―2
「眞祥……ちょっと眞祥、起きてるの?」
母の蛍子に揺り起こされて、眞祥は目を瞬いた。
ふと顔を上げると、画面には、あの写真が出たままになっていた。
……いつの間にか、寝てしまっていたらしい。
眞祥は目をこすると、凝った肩を伸ばしながら母に問い掛けた。
「あ……母さん? 父さん追って、どっかに行ってたんじゃなかったっけ?」
「ええ、今回は結構近場で、タミルナードゥにいたわ。一応州内だから、早く帰って来れたのよ。それにしても……」
蛍子は、溜息をついて眞祥を見下ろした。
「眞祥、あんた学校サボったの? 母さん達がいないのをいいことにして!」
眞祥は、慌てて時計を見た。
今の時刻は、午前十一時三十分過ぎ。
今日は何だか早くに目が覚めてしまっていたので、眞弥からの電話も取ることができたのだが、そのせいでだいぶ居眠りしてしまったようだ。
「全く……もうお昼よ? しょうがないから、ご飯作るわね。ああ、あと学校にも連絡しなきゃ。ほんと、何て言えばいいのよ。居眠りしてたから学校行けませんでしたって? ああもう、しょうがないわねえ、親子揃って手間が掛かる!」
「あ、うん……ごめん」
もしかしたら、今までのは夢だったのだろうか。
そうだ、きっとそうに違いない。
だって、千紗と千紗の全てが姉の所から姿を消し、由梨亜が記録から消えるなんて――そんなの、夢物語にしか聞こえない。
けれど、画面に目を戻しても、そこには由梨亜の姿はなく、小さい頃の千紗の姿もまたなかった。
「なあ、父さん……」
台所に消えた母に代えて、父に声を掛ける。
「ん? 何だ? 眞祥」
どこかげっそりとした表情で、父が答えた。
『蛍子』なんて古風で儚い名前なのにも拘らず、母はいつも行動的で、ある意味暴力的でもあり、父が家に帰って来る時はいつもこんな風にげっそりとしているので、眞祥はそれを気にも留めずに問い掛けた。
「父さん……千紗、憶えてるよな?」
姉は憶えていて、自分も憶えている。
だから、両親も憶えているに違いない。
けれど、眞祥の期待は裏切られた。
「チサ……? 誰だ?」
「やあねえ、お父さん。眞祥の友達じゃないの」
いきなり話に割り込んで来た母の言葉に、眞祥の思考が停止する。
「友達? ここのか?」
「違うわよ。眞弥に預けてた時の友達よ。貴方、本当に憶えてないの? 呆れた。もう歳なの? そうよねえ、もう還暦過ぎちゃったからねえ」
「そ、そう言うお前だって、あと何年かで六十だろう?!」
「あら? 私、まだ五十七なのよ? まだ三年も先です! やあねえ、六十一歳のお爺ちゃんったら」
「お、お爺ちゃんって、おい! 俺はまだ孫なんていないぞっ?! 眞祥はまだ中学生だし、眞弥だって、櫻堵君は亡くなってしまったし……」
(孫が、いないって……父さん?)
けれど、眞祥の途惑いを気にも留めずに、あっさりと蛍子は慧斗の発言を認めた。
「はいはい。でも、孫がいなくたって、もう六十も過ぎているんですから、立派にお爺ちゃんでしょう? 私達と同年代の人、孫持ちの人だって多いもの。それに、眞弥のとこって、最初から子供は諦めてたでしょ? 眞弥、子供ができにくいから……」
眞祥は、目を瞠った。
確かに、姉が子供を産むのは絶望的だったと、幼い頃に聞いていた。
だから両親は、眞弥が櫻堵と結婚するのを渋ったのだと。
けれど、義兄はそれをねじ伏せ、まだ未成年だった姉を掻っ攫うようにして二人は結婚したのだと。
そして、結婚してすぐに子供ができて、そうして奇跡的に娘が――千紗が産まれたのだと、眞祥はそう聞いていたのだ。
だが、この二人の様子だと――二人とも、自分に孫がいたことを、憶えていない。
「母さん……母さんは、千紗のこと、憶えてるんだな?」
微かに、声が震える。
「ええ、この子でしょ?」
蛍子は、眞祥が画面に映し出していた写真を指差した。
これは、確か修学旅行の時の写真だ。
「ああ……そうだ」
蛍子は、千紗を見て、それが千紗だと認識している。
でも、彼女が孫だとは、認識していない。
その矛盾を解く為には、どうしたらいいのだろうか。
しかし、その難問は、あっさりと放たれた蛍子の言葉によって解かれてしまった。
「そうそう、懐かしいわねえ。よく眞弥の所に遊びに来てたんでしょ? 確か……そう、本条家のお嬢様」
「え…………?」
眞祥の声はとても小さく、蛍子も慧斗も気付かなかったようだ。
「ああ、そう言えばいたな。何であんな小さな町に本条家の人間がいるのか、よく分からんが……」
「あら。何か新しい会社とかができたから、総帥一家が越して来たんじゃないの。そうそう、千紗ちゃん。こっちに越して来る前……眞祥の卒業式の時に挨拶したでしょう? それに、この子の両親も。だから私は憶えていたけど……お父さんったら、挨拶したのにすっかり忘れちゃったの? やあねえ、歳って。ボケたくないものだわぁ」
蛍子はそう言うと、台所に戻りながら言った。
「あとちょっとでご飯だから、二人とも、お箸とか並べて?」
「あ、うん……」
眞祥はそう答えながらも、頭のどこかが麻痺したように、考えが纏まらなかった。
(本条家の、お嬢様って……母さん、確か、そう言ってた……)
眞祥は、本棚の中から卒業アルバムを取り出す。
震える手で堅いページをめくるから、手が滑って上手くめくれない。
それでも、何とか自分のクラスのページを開いた。
「これ、やっぱり……何で、だよ……」
眞祥は、唇を噛み締めた。
そこには、やはり由梨亜の姿はなかった。
千紗は――『本条千紗』という名前で、写っていた。
彩音千紗では、なかった。
「何だよ、これっ……。由梨亜は、一体どこに消えたんだ? それに、何で千紗が『本条』なんだよ! 何だよ、何だよ、これっ……!」
眞祥は、顔を歪めた。
けれど、何度見返しても、結果は変わらない。
ここから考えられることは、由梨亜はどこかへ行ってしまって、千紗は本条家の人間になったということだ。
しかし、納得できない。
自分が小学校を卒業した時、ここには間違いなく由梨亜が写っていて、千紗も『本条』ではなく『彩音』だった。
それを書き換え、自分と姉以外の記憶も書き換えるなんて、どこから見ても物語にしか見えない。
だって、人の記憶を書き換えることも、過去に撮られた写真を全て変えることも、常識的に考えて不可能だ。
絶対にあり得ないことのはずなのだ。
けれど、それは紛れもない事実である。
「…………」
こんなことは、姉には話せない。
自分の娘が、他の家の娘になって、しかも同じ町内にいるなんて。
――もしかしたら、母の記憶も失ってしまっているかも知れない、なんて。
(千紗……お前は、憶えているのか……?)
訪ねて行こうかと、思った。
けれど、もし彼女が記憶を失ってしまっているとしたら、平静でいられる自信がない。
「くそっ……何で――何で、こうなったんだよっ……!」
ばん、と壁を殴り付ける。
だが、それで気分が晴れる訳ではなかった。
(……そうだ。千紗、お前が姉さん達のことを憶えてるなら、義兄さんの命日に、もしかしたら墓参りに来るかも知れない……)
その日なら、自分が日本州に戻ったとしても、怪しまれることはないだろう。
そして、千紗に記憶があるならば、
(姉さんに、絶対会わせるからな。お前が嫌がっても……)
眞祥は、そう心に決めた。
――けれど、千紗が義兄の墓に訪れることはなかった。
「姉さん……もう、やめろよ。顔色悪いぞ?」
眞祥は、泣きそうな顔で必死に姉に訴える。
けれど、眞弥はそれをまともに取り合わなかった。
『大丈夫よ。ちょっと貧血なだけ……』
先程から何度も同じ言葉を繰り返すだけの眞弥に、眞祥はじれったくなった。
「だから、『ちょっと』じゃないだろう? 千紗が帰って来るのを待つのはいいよ。俺だって、あいつがいなくなったのが信じられないんだから。それに、いつか帰ってくるかも知れないし。でもさ、その前に姉さんが死んじゃったら元も子もないだろう? 一体誰があいつを待つって言うんだよ。姉さんしかいないだろ?」
しかし、眞弥は何かを諦めたような苦笑を漏らした。
『大丈夫。それに、もし私に何かあっても、眞祥がいるし……』
「おい、何で他力本願に走るんだよ! 俺は今そっちにいないんだぞっ?! その間に千紗が来たらっ……!」
眞祥は必死だった。
今の姉は、弟の自分が何を言ったって止まらない。
けれど、自分の娘のことでならば止まるかも知れない。
だから、その一縷の望みに託すしかなかった。
しかし、眞弥は激昂した眞祥を宥めるように笑うと、ただ静かに首を振った。
『でも、このうちローンもあるでしょ? 大丈夫よ。だから、心配しないで。眞祥は、そっちで大人しく勉強でもしてなさい? それが学生のお仕事よ。私なら、大丈夫だから……』
そう言われ、一方的に通信は切られた。
眞祥は心配だったが、まだ自分の身分は高校生だ。
インド州では十四歳から十八歳が高校生なので、眞祥は高校三年生になったが、たったの十六歳の子供が、一人で日本州に行ける訳がない。
休みを待って行くにしても、往復の飛行機代がなければ不可能だ。
だから、こうして通信をして姉を説得するしかできなかった。
……でも、無駄だった。
その年の、八月。
この日と同じように、いきなり自宅の電話が鳴り、姉が孤独死したことが伝えられた。
皆が黒い喪服に身を包み、並んでいる。
遺影に写る姉は、ここしばらく見たことがないほどに穏やかな笑みを浮かべていた。
参列者達は両親に挨拶をした後、それぞれ帰って行く。
……気付くと、その部屋にいたのは、眞祥だけになった。
姉の遺影に近付くと、眞祥はその場に胡坐を掻いて座り、遺影を見上げた。
「姉さん……。千紗、見付かんないうちに、死んじゃったな……。ごめんな、姉さん。俺、千紗がどこにいるか、知ってたんだ。でも、多分千紗は、姉さんのことを憶えてないって思ったから……姉さんを傷付けると思って、俺、言わなかった。……こんなことになるなら、さっさと言っときゃ良かった。それなら、せめて千紗を見ることができたのにな。ほんと、ごめんな。……ごめん、姉さん」
眞祥は、ぐるりと部屋を見回した。
姉は、あまり大規模な葬式はしたくないと遺言に遺していたので、親しい人だけを招いて簡素な式にした為、この姉の家で葬儀を営むことができた。
まあ、だから眞祥も、葬式が終わった後にこうやって寛げるのだが。
それはさておき、姉が亡くなった後の両親の相談の結果、この家を売り払うことに決めたらしい。
だから、全ての手続きが済んだら、両親はインドに戻る。
けれど――眞祥は、日本に残る。
この辺りは、本条家の本社が移転して来たこともあり、地価は高いし空きも少なくて住めない。
でも、これから姉が入る場所であり、義兄が眠っている墓地の近くは、墓場が近いからか、交通の便があまり良くないからか、余裕でアパートを借りられた。
それに、もう編入試験も受けていて、こちらの高校に通うことも決まっている。
これらの手続きは、アパートのことを除いて、全て姉が死ぬ前に始めていたことだった。
本当は、姉の家に一緒に住んで、そこから高校に通うつもりだった。
だから、姉の家から通いやすくて、部活も強制ではない高校を選んで編入試験を受けたのに――結局、意味がなくなった。
「本当は、姉さんがこれ以上体を悪くする前に、支えるつもりだったんだけどな……。ごめんな、姉さん。俺、何にもできなかったよ……」
眞祥は、はあと息をついて立ち上がった。
自分は、意気地なしだ。
姉のことを忘れた千紗の前に、姿を現す勇気はない。
でも、忍耐はある。
姉夫婦の墓場の近くにアパートを借りたのも、そこが安くて空きがあったということもあるが、姉と義兄の命日は、ずっと墓の前で待っていようと決めたからだ。
随分と消極的だが、『彩音千紗』の存在を示すものは、既に自身の記憶しかないのだ。
もし、これが自分の妄想だったらと考えると、尻込みしてしまう。
こんなに自分が憶病者だったなんて、初めて知った。
眞祥は自嘲の笑みを浮かべると、勢いを付けて立ち上がった。
あと一、二週間もあれば夏休みが明け、眞祥は正式にこちらの高校に入学することになる。
一人暮らしに不安がないと言えば嘘になるが、今までだって、ほとんど一人で暮らしていたようなものだ。
それに、いつか千紗が墓を訪ねてくれると……そう、眞祥は信じていた。
勿論、確証はない。
けれど、いつになるかは分からないが、姉の為にも、決して諦めることはしない。
――記憶の中にしかいない彼女と、再び見えることを。
(終)