―記憶の中の、―1
本編第Ⅰ部~それぞれの居場所~第五章の後の、眞祥視点の話です。
いきなり自宅の電話が鳴って、眞祥は驚いてそれを見詰めた。
眞祥は、小学校を卒業してからインド州に引っ越していた。
原因は、父の東風上慧斗だ。
元々『紅茶狂い』と言われるほど紅茶好きだった父は、娘婿が亡くなってからというもの、更にそれに磨きが掛かってしまったのだ。
結果、日本州にあった店舗を畳み、ネット上での販売のみとして、紅茶の一大産地であるインド州までやってきてしまったのだ。
けれど、ここでも父は落ち着くということを知らず、州内の様々な産地へ足を運び、はたまた紅茶生産の指導をしてまで自分好みの茶葉を作らせて買い取り、気付けばお隣とはいえスリランカまで足を運んで試飲し、ふといなくなったと思えばヨーロッパへ赴いて知らない紅茶を訪ね歩き、しばらく帰って来ないと思ったら中華州で中国茶に嵌り――とにかく、落ち着かなかった。
しかも、まだインド州に引っ越してきてから半年と少ししか経っていないのだ。
また、そのたびに母が取っ捕まえに行くので、結局眞祥は一人きりになることが多かった。
正直、ネットで紅茶を売っていなかったら、この家は破産していただろう。
そして、そんな風に両親がいないのが普通だったので、家の電話が鳴るというのも、正直何ヶ月振りだか分からない。
「…………」
眞祥は、電源の所で手を彷徨わせる。
率直に言って、何かの販売や間違い電話以外、この電話に掛かって来たことはない。
だから、無視するのが一番だ。
けれど――胸騒ぎがして、眞祥は電話を取った。
そして、そこに映し出された姿を見て、眞祥は驚きに目を瞠った。
『ああ、良かった、眞祥ね? 番号、間違ったかと思ったわ……』
そう言って溜息をつくのは、間違いなく、眞祥の姉の彩音眞弥だ。
けれど、その顔は非常にやつれていて、まだ三十代の前半だと言うのに、四十代くらいにしか見えなかった。
「姉さん……? 一体、どうしたんだ?」
眞祥が強張った顔で訊ねると、眞弥も負けず劣らず強張った顔で訊ね返して来た。
『ねえ、眞祥……あんた、千紗のこと、憶えてる?』
「千紗?」
眞祥が眉を寄せると、眞弥は顔を引き攣らせた。
一体、何に?
……恐らく、恐怖に。
『眞祥……まさか、あんたまで忘れちゃったのっ?!』
その悲鳴のような言葉に、眞祥は目をまん丸に見開いた。
「馬鹿言え! 何でそうなるんだ! 千紗は姉さんの娘だろうが! そんでもって、認めたくはないけど、正真正銘俺の姪っ子だろう?!」
眞祥が怒鳴り返すと、眞弥は細い息をついた。
「ちょ、姉さん? ……何だよ、忘れたって! 誰が、千紗のことを忘れたんだっ?!」
眞祥が、画面が埋め込まれた壁に手を付いて怒鳴ると、眞弥は泣きそうな顔をして言った。
『みんなよ……みんな。近所の人も、会社の人も。みんなみんな、千紗のこと忘れちゃったの……!』
「な、んだよ、それ……何で、みんな千紗を忘れるんだよ?!」
『分かんないわよ、そんなの! でも、千紗がいないの! 昨日学校に行って、そのまま帰って来なくて――それで、警察に行ったのよ! でも、私には子供がいないだろうって言われて、相手にされなくて――狂人扱いされて!』
喚き散らす眞弥に、眞祥は慌てた。
「ちょっと落ち着けよ姉さん! これじゃ全然話が分かんないだろう?! もっと詳しく話せよ!」
眞祥の言葉に、眞弥は深呼吸を繰り返す。
『……私にだって、分からないわよ……。だって、今まで普通だったのよ? 夏休みが明けて、あの子が行って来ますって言って、学校に行って……。でも、私が帰って来ても、家には灯りが点いてなかったの。それで、慌てて家の中に入ったら、千紗がいなくて……。それに、千紗の物が全部なくなってたの! 写真も、映像も、靴も服も鞄も、全部全部っ! み~んなっ!』
激昂したかと思うと、眞弥は不意に顔を歪めた。
『……ねえ、眞祥。全部、私の妄想だったのかな? 旦那が死んで、子供が欲しいって思って――妄想で、娘を持ってたの?』
その声はあまりにも弱くて、儚くて――眞祥は、自分の頭にかっと血が昇るのを感じ、耐え切れずに叫んだ。
「そんな馬鹿なことがあるかっ! 千紗がいないなんて、そんなのあり得ない! 俺だって憶えてるぞ。ちっちゃい時から、よく遊んでたしっ……!」
『でも……でも、いないのよ。千紗。物も、思い出も、全部なくなってるのよ……?』
眞祥は、言葉を失った。
その弟の様子を見て、眞弥は歪んだ笑みを――まるで、笑いを作ろうとして失敗したかのような、今にも泣きそうになるのを堪えているような笑みを浮かべ、微かに震える声で言った。
『やっぱり、私……夢、見てたのかな? ……ごめんね、眞祥。そっち、まだ朝でしょ……? こんな時間に電話掛けて、ごめんね……』
眞弥はそう言うと、眞祥が何も言う前に、電話を切った。
しばらく呆然とブラックアウトした画面を見詰めていた眞祥は、その場にずるずると座り込む。
「――んな馬鹿なこと、あるかよ……」
眞祥は唇を噛み締めると、不意に立ち上がった。
姉は先程、『思い出もなくなった』と言っていた。
眞祥の家にも、千紗が写っている写真がある。
まずは、それを確認しようと思ったのだ。
――結果として、眞弥の言っていたことは、外れていた。
ちゃんと、千紗は写真に写っていたのだ。
眞祥は、ほっとして溜息をつき――けれど、ふと覚えた違和感に眉を寄せた。
そう、どこか変だ。
例えば、千紗のこの位置、そして何かが足りないような違和感――。
眞祥は、大きく目を瞠った。
そして、画面に写真を一覧状態にして全て並べる。
一枚ずつスクロールして見て、ようやく異変に気付いた。
――……本条由梨亜が、写真に写っていなかった。
ざわりと、眞祥の腕に鳥肌が立つ。
「どういう、ことだ……?」
例えば、半年と少し前の、卒業式の時の写真。
この時、眞祥は千紗に首を絞められかけながら写真を撮られた。
そして、その隣では、由梨亜が爆笑していたはずなのだ。
そう、よく憶えている。
何故なら写真を撮られた後、この二人の態度に切れた眞祥は、千紗の首を締め上げて由梨亜を蹴飛ばしたのだ。
そして、それを由梨亜の両親に目撃され、耀太にぎゃあぎゃあ怒鳴られたのを聞き流しながら瑠璃を見ると、何と穏やかに笑っていた。
自分の娘が蹴られ、夫はそれに怒鳴っているというのに、我関せず焉としている。
その態度は、最早『器が大きい』で済ませられる程度のものではなかった。
それに驚いたのと、やはり中学からは遠く離れた州に引っ越してしまうということから、本当に、その時のことはよく憶えていたのだ。
だから写真を撮った時のことも、前後状況を含め、今でもつい昨日のことのように分かる。
でも……由梨亜のその姿は、この写真に写っていない。
それに、五年生から六年生に掛けての、どの写真にも写っていなかったのだ。
眞祥は、今度は幼い頃の写真をデータの奥から引っ張り出した。
同い年の叔父と姪ということで、両親や姉夫婦はとても面白がり、幼少期は二人並べて撮った写真がとても多かった。
しかも、向こうの方が産まれたのは早かったので、赤ん坊の頃の体格差が如実に分かる写真は、眞祥にとっては千紗にいじられる格好の道具であり、あまり見返したくもない写真であったので、データの奥に葬っていた。
だから、引っ張り出す時には、多少の勇気が要ったが、その写真を目にした途端、眞祥は大きく目を瞠った。
……何故なら、そこに写っていたのは、眞祥だけだったのだ。
画面から、少し離された手が震えた。
「何で――どうしてっ!」
みっともなく、声までもが震える。
姉の家からは、千紗の全てが消えた。
自分の家からは――千紗ではなく、由梨亜が消えた。
「何が、どうなってるんだよ……」
眞祥は、頭を掻き毟ってうめいた。
深呼吸をすると、改めて写真を見詰め、以前との相違を必死に探す。
そして、気付いた。
四年生までの写真の中に、千紗はいない。
けれど、五年生の時から、千紗が写真に写っていた。
そう、五年生と言えば、
「由梨亜が、転校して来た時だ……。何でだよ……。何で……何で、由梨亜じゃなくて、千紗が写ってるんだよ……!」
写真に写っていることと、自分の記憶が一致しない。
記憶が正しいのか、写真が正しいのか――眞祥には、判断できなかった。
……普通に考えれば、写真が正しくて、自分の記憶が誤りだと思われるだろう。
でも、眞祥には、あの鮮明な記憶が偽りだとは――自分の創り上げたものだとは、決して思えなかった。
(続)