―二人の母を持つ姫君―
前半は本編開始の八年前、後半は本編第Ⅰ部~それぞれの居場所~第五章直後の、富瑠美が主人公の話です。
彼女は、物心ついた時から、ハハを『御母様』と呼んではいなかった。
けれど、一緒に育っていたイモウトやオトウトは、ハハを『御母様』『母上』と呼んでいたので、彼女は何度もハハに訊ねた。
どうして自分だけ、ハハを『御母様』と呼んではいけないのか、と。
そのたびに、ハハは何度も繰り返し彼女に言い聞かせた。
自分は貴女を育ててはいるが、産みの母親ではない。
そして、貴女の本当の御母様は他にいるのだから、そちらを『御母様』と呼ばなければならないのだ、と。
けれど、それでも納得できなくて、週に一度訪れる父にも訴えた。
自分にとって、母親は彼女しかいないのに、どうしても『御母様』と呼ばせてはくれない。
だから、『御母様』と呼びたいのだ、と。
父は、どこか辛そうな顔をして、けれど首を振った。
どうしても、駄目だと言って。
反論したかったが、その父の沈痛な表情は、彼女から一切の言葉を奪った。
納得はできなかったが、従うしかなかった。
本当は『御母様』と呼びたかったけれど、いつまでも意地を張る訳にはいかなくて、ハハを名前で呼ぶことにも、いつの間にか慣れていた。
――けれど、いつまでも続いて行くと思っていたその生活は、ハハに告げられた言葉によって、一変した。
彼女が十になった時に、産みの母親の元に戻されるという、五歳のまだ幼い彼女には決して覆せない言葉によって。
「富瑠美……富瑠美? どこに行ったの? 富瑠美……?」
由梨亜妾は、大きく声を張り上げた。
見渡す限りに広がっているのは、鬱蒼と茂った林ではあるが、人が手を加えているので、散歩のできる小道が伸びている。
けれど、問題は、行方が分からないのはまだ五歳の幼子だということだ。
まだ一メートルもない背の子供ならば、どこに潜んでいるのか分からない。
唯一安心できることは、ここが避暑の為に造られた、毎年訪れている離宮の『庭』であることだ。
だから、普通に歩く分には、問題はない。
問題は、道を外れてしまった場合である。
そうなると、富瑠美を見付けるのは難しくなってしまうだろう。
「本当に……どこに行ってしまったのかしら」
由梨亜妾は、深く溜息をついた。
富瑠美は、小さくなって茂みに隠れた。
彼女には、異母姉がいる。
けれど、その異母姉は、産まれてすぐにどこかへ行ってしまったのだという。
どうやら父や祖父がどこかに隠したらしいのだが、どこにいるのかは分からない。
だから、主に貴族達の間では、その異母姉は存在しないこととして扱われているようで、上から二番目の子供である――つまり、父の次に王位に即くと目されている富瑠美への、貴族達の重圧は凄かった。
――我儘を言って泣くことは、許されなかった。
ぐすり、と鼻をすする。
それでも、濃い桃色の瞳を大きく見開き、涙は決してこぼさない。
……ここには、誰もいないというのに。
その時、
「富瑠美。こんな所にいましたの? 本当に捜しましたわ」
そう言って抱き上げられ――富瑠美は、くしゃくしゃに顔を歪めた。
「おかあさま……」
由梨亜妾は、今にも泣きそうな顔をしている富瑠美を見て、困った顔をした。
「富瑠美……何度も言っているでしょう? 貴女の御母様は、深沙祇妃ですわ。わたくしは、貴女の義理の母であり、育ての母でもありますが、産みの母では御座いません。ですので、『御母様』とは、決して呼んではなりません」
由梨亜妾の言葉に、富瑠美は益々顔を歪めた。
けれど、涙はこぼさない。
「でも……さなみは、おかあさまのことを『おかあさま』ってよんでおります。ゆきやも、このごろはなせるようになりましたでしょう? ゆきやも、『ははうえ』ってよんでいます。どうして、わたくしだけだめなのですか? わたくしにとって、『おかあさま』はおかあさまだけです。それなのに、どうしてよんではならないのですか? ちがつながっていないから?」
由梨亜妾は、この幼子を不憫に思いながらも、決して妥協はしなかった。
「そうです。些南美も柚希夜も、わたくしが産みました。けれど、貴女は違います。確かに、貴女の『富瑠美』という名はわたくしが付けましたが、それは殿下の御許可を頂いた上でのこと。また、貴女をわたくしが御育てしているのも、陛下と殿下の御許可の下です」
「でも、わたくしをすてるって、このまえおっしゃっていたではありませんかっ!」
その言葉に、由梨亜妾は困惑した。
「わたくしが貴女を捨てる? そんなことは、決して御座いませんわ」
「うそです! だって、わたくしがとおになったら、もう、おかあさまといっしょには、いられないって……」
とうとう、富瑠美はぽろぽろと涙を流す。
由梨亜妾は唇を引き結び、堅い声で告げた。
「確かに、それは事実ですわ。けれど、わたくしが貴女を棄てる訳では御座いません。元々、わたくしが貴女を育てているのは、深沙祇妃の態度に問題があったからです。陛下は、時が経てば態度が改まるのではないかと御考えになり、貴女をわたくしに預けたのです。貴女が、十歳になるまでと、期限を区切って」
「きげん……?」
不思議そうに目を瞬く富瑠美に、由梨亜妾は頷いてみせた。
「そうです。貴女を産んだのは深沙祇妃で、同母の弟妹は柚菟羅と苓奈。些南美と柚希夜は、杜歩埜や璃枝菜達と同じ異腹の弟妹で、わたくしは、莉未亜貴や阿実亜女と同じように義理の母。貴女が実の母の元に戻るのは、自明の理――当たり前のことですわ」
そう言って、由梨亜妾は富瑠美の頭を撫でる。
けれど、富瑠美は激しく首を振って由梨亜妾の手を払い除けた。
「いやです! ぜったいにいやっ!」
「富瑠美……」
さすがに由梨亜妾も困り果てた。
由梨亜妾は、富瑠美の顔を覗き込んだ。
「ねえ、富瑠美。どうして、深沙祇妃の元に帰るのが嫌なの?」
「『みさぎひ』って……ゆうらやれいなのおかあさまで、わたくしとおなじかみのいろをしたかたでしょう?」
柚菟羅はまだ三歳で、苓奈もまだ一歳――そろそろ二歳になるところだが、富瑠美は頻繁に彼らと会っている。
彼らは十五人兄弟で、今は長女の富実樹がいないから十四人なのだが、母親は六人もいる。
しかも、歳が皆近いのだ。
これでもし互いの顔が分からない、名前が分からないというような環境では、国際的に見て『不健全な家庭』と言われかねない。
一般家庭ならまだしも、花雲恭家は王家で、しかも花鴬国は列強の一つ。
余計、国内外の目に気を配らなければならない。
だからこそ、『仲が悪い』と言われない為に、彼ら兄弟は一日のうちの一定時間、一緒に過ごしているのだ。
けれどその時間、母親達はお茶会や公務をしているのが普通で、特に深沙祇妃は富瑠美との接触が禁じられている為、富瑠美は深沙祇妃と口を利いたことはなく、何かの儀式や、こういった避暑地などで擦れ違ったり、遠目で見たりしかできてはいなかった。
だから、富瑠美が深沙祇妃のことを『自分と同じ髪の色の人』としか認識できなくても、それは仕方のないことなのだ。
「ええ……。そうですわ。富瑠美のその金の髪の色は、深沙祇妃から譲り受けたものですから」
「でも! あのかたは、いつもおかあさまのことを、すごいめでにらんでおります! とてもこわい!」
「それ、は……」
由梨亜妾は、うっと黙り込んだ。
最初に峯慶と結婚した時、自分と深沙祇妃の仲はあまり悪くなかった。
沙樹奈后に比べると、そう親しくしていた訳ではなかったが、深沙祇妃にとって近親婚は論外であった為か、貴族の娘であった由梨亜妾にはそこまで風当たりが強くなかったのだ。
けれどそれは、互いに子を身篭るまでの話。
特に、由梨亜妾が最初の子供を産み、数時間差で深沙祇妃が二番目の子供を産んで、おまけにその深沙祇妃の子を由梨亜妾が名付けて育てることになってからは、決定的に仲が悪くなった。
だから、深沙祇妃はよく自分を睨んでいたし、まだ二歳の些南美ですら、四ヶ月年上の異母兄である柚菟羅と仲が悪く、よく『ゆうらおにいさまにいじわるされた』と言って泣いていた。
由梨亜妾は目を泳がせ、何とか言葉を捻り出す。
「えっと……その、あのね、深沙祇妃は――そう! 御自分の子供を、わたくしが育てるのが気に入らないの。自分の子供は、自分で育てたいもの。だから、わたくしを睨んだりしているのですよ? だから、富瑠美。貴女には、優しいはずだわ」
「そう、なのですか? でも……わたくしは、やっぱり、こわいです」
そう言って口をへの字に曲げる富瑠美に、由梨亜妾は困ったように笑った。
そして、富瑠美の頬に残る涙を拭う。
「さあ、もう戻りましょう? 富瑠美。皆が心配しておりますわ」
「はい、おかあさま……」
「ですから、富瑠美。わたくしを『御母様』と呼んではなりませんと、何度申し上げれば御理解頂けるのです?」
由梨亜妾の手厳しい言葉に、富瑠美は唇を引き結び、再び目に涙を浮かべる。
「まあ、そうは言いましたが――」
由梨亜妾は、富瑠美の前に膝を付いた。
「人間、間違いを犯さないというのはあり得ません。ただ、その誤りは、決して人前ではしてはならないのです」
「…………?」
首を傾げる富瑠美に、まだこの年では難しかったかと苦笑しながら、由梨亜妾は更に言った。
「つまり、人前でなければ、過ちを犯したとしても、咎められないということですわ。富瑠美、人前では、決してわたくしのことを、『御母様』と呼んではなりませんよ?」
その言葉で、富瑠美は由梨亜妾が何を言いたかったのかが分かったようだ。
ぱっと顔を輝かせて、由梨亜妾に抱き付く。
「おかあさま、だ~いすきっ!」
そう言って抱き付く富瑠美に、由梨亜妾は目を和ませた。
(そう、この子なら……きっと、大丈夫だわ。些南美にはまだ早いし、柚希夜はまだ一歳だから、理解できるとも思えない……。けれど、この子なら、富実樹のことを話しても、きっと大丈夫ですわ……)
由梨亜妾は、べったりと張り付いた富瑠美を抱き上げ、そっと顔を覗き込む。
「おかあさま……?」
「あのね、富瑠美。貴女には、貴女の御異母姉様のことを、話しておきたいの」
「おねえさまの……?」
赤子の頃にだけ、一緒に過ごしたことのある異母姉だから、富瑠美の記憶には残っていないだろう。
けれど、その存在は知っているはずだ。
ことあるごとに、由梨亜妾自身がその存在を言い聞かせていたし、貴族達の口さがない噂話も、きっと彼女の耳に届いているだろうから。
「そう。貴女の御異母姉様はね――」
富瑠美は、固く引き結んだ拳に気付くと、慌てて手の力を緩めた。
そして、自室の内装を、改めてじっくりと眺める。
由梨亜妾の所で育っていた頃の自室は、質素ながらも洗練された美しさと温かさがあった。
けれどここは、富瑠美が深沙祇妃に引き取られてからの三年間でいくらか手を入れたとはいえ、とにかく華美だ。
富瑠美は、思わず顔を歪めた。
……本当は、今でも由梨亜妾を『御母様』と呼びたいし、深沙祇妃の所なんかで過ごしたくはない。
深沙祇妃に引き取られて、この間の誕生日で三年が過ぎたが、未だに深沙祇妃とは馴染めなかった。
柚菟羅や苓奈とは、以前からそこそこの親交はあったから、全く話さないということはなかったが、明らかにぎこちない関係でしかない。
実の母と同母の弟妹との生活よりも、義理の母と異腹の弟妹との日々の方が余程家族らしかったなんて、何と歪で不自然な家族関係なのだろうか。
富瑠美は、深い溜息をついた。
この国では、王の権限が、他の国よりも強い。
だから、独裁を防ぐ為に、王位に即ける長さが――期限があった。
その期限に従い、祖父の籐聯が退位して父の峯慶が王位に即いたのは、今から五年前のこと。
実の母である深沙祇妃は、自分が由梨亜妾と会うことを快く思っていないからあまり会えないし、父は即位してからは滅多に会えないし、富瑠美は寂しい思いをしていた。
けれど、これでもう終わりだ。
この国に、正当なる王位継承者が戻って来たのだ。
だからこそ、彼女に次代の王位を得る権利を譲り渡すことに、何の抵抗もなかった。
何故なら、自分で悟っていたのだ。
自分は、王の器ではないと。
この異母姉とは、富瑠美の記憶のある限り、一度も会ったことはない。
けれど、あの由梨亜妾の、実の娘だ。
性格が悪いなんてことは、まずあり得ないだろう。
勿論、性格は環境で定まることは多い。
しかし、その異母姉が育ったのは、父が選んだ家なのだ。
何の不都合もないだろう。
そう思い、由梨亜妾に連れられて彼女と対面した富瑠美は、はっきり言って拍子抜けした。
彼女は、由梨亜妾と同じ髪の色をしていたが、髪質や目の色は自分と同じだった。
そして何より、顔立ちが非常に似通っていた。
富瑠美はまずそのことに驚き、そして異母姉が、自分のことを『富瑠美様』と様付けで呼んだことに唖然とした。
そして、決意した。
この異母姉に――花雲恭富実樹に、花鴬国の王族として必要な全てを叩き込もうと。
富瑠美は、その時のことを思い出して、思わず笑みを洩らした。
彼女と対面を果たした後、富瑠美が早足で廊下を歩くと、一生懸命に背後を付いて来る気配がして、富瑠美は思わず口元をほころばせてしまったのだった。
まず、言葉遣いがなっていなかった。
そして、王族としての態度、歩き方、他にも知識など、彼女に叩き込まなければならないことは山ほどある。
言葉や態度がなっていないのは、富瑠美を多少苛つかせたものの、あの『御母様』の娘だ、きちんとした教育をすれば、きっと輝くだろう。
そう、何も全てを自分一人でやらなくても、兄弟達がいた。
勿論、総合的に見た時に、一番優れているのは富瑠美ではあるが、ある特定の分野で区切った時に、そこに一番秀でているという弟妹もいる。
異母姉には、早くこの国に馴染んでもらわなければならない。
その第一歩は、知識を得ることと、兄弟と馴染むことだ。
だから、むしろ積極的に兄弟を呼んで、異母姉に全てを教え込まなければならないだろう。
そのことを思うと、自然に笑みがこぼれた。
恐らく自分は、教育向きなのだろう。
ただし、その方法はスパルタ以外の何物でもないが。
異母姉がいるということを喜び、そしてこれからのことを思い――富瑠美は、楽しそうな未来が待っていると考えて、その考えの子供らしさに笑った。
けれど、これからが楽しくなるというのは、間違いないだろう。
あれだけ待ち望んでいた異母姉が、ようやく還って来たのだ。
富瑠美は、これから頑張って、異母姉の力にならなければならないのだ。
深沙祇妃の野望を知る娘として、そして、あの優しく厳しい由梨亜妾に育てられた義娘として――。
(終)