―お転婆姫と苦労人王子―
本編の主人公・富実樹の母のマリミアンと、父の峯慶が主人公の、まだ二人が幼い時の話です。
『私は、貴女に私の婚約者になってほしいと思います。……貴女は、いかがですか? ……私と、婚約を結んではくれないでしょうか』
『……はい。わたくしも……わたくしからも、お願いします、峯慶王子殿下。……喜んで、貴方の婚約者にならせて頂きたく思いますわ』
それは、幼い子供の口約束。
けれど、大人達にとって、それは重い意味を持っていた。
つまり、自らの家系から、百年振りに王家に嫁ぐ娘を持つということ――ひょっとしたら、この王子の次代の王に、自らの血縁が即くかも知れないということ。
幼い子供達の想いとは別に、大人達の思惑も動き出す。
けれど、彼女の近しい血縁達は、家の繁栄とは別に、この幼い子供の未来を、幸せを――むしろ、そちらの比重の方が大きいのではないかと思えるほどに、祈っていた。
「リ……ア、様……ミア、様……!」
侍女達が、ばたばたと駆け回っている。
十歳くらいに見えるその幼い少女は、その様子を笑いを堪えながら観察していた。
やはり、ここはいい。
ここにいれば、大抵の人物には見付からなくて済む。
屋敷の中では、兄と家庭教師の女性が話しているのが見える。
家庭教師の方は、何故自分の教え子である少女ではなく、その少女の兄が応対しているのか不思議なようで、兄に受け答えをしながらも、首を傾げたり扉の方を窺ったりしている。
そのたびに、兄が焦って何かを話し掛けているのが、余計に笑いをそそる。
そのうちに、受け答えをしていた二つ年上の下の兄だけでなく、六歳年上の異母兄までもが部屋に入って来た。
この異母兄は十六歳になるので、家庭教師を治めるには、まだ十二歳の兄よりも彼の方が確かに相応しいだろう。
それに、この異母兄は恰好いいし、話術も巧みだ。
見事に彼女の話題から別の話題に誘導していくのを、彼女は隠れながら見詰めていた。
と、その時、足元の方で、何やら人の気配がする。
下を見ると――彼女は、思わず口を押さえ、気配を殺した。
けれど、何故だろう。
彼女は隠れんぼが得意なはずなのに――それなのに、いつも彼は見付けてくれるのだ。
そう、今、こちらを見上げているように――温かい、優しい目で。
そして、必ず呼んでくれるのだ。
「マリミアン」
と。
そう、彼女の名を。
「ほ、峯慶殿下!」
マリミアンは、思わず動揺してしまった。
(ど、どうしよう、どうしよう……! こ、こんなはしたない姿を……!)
その時、突風が吹いた。
「きゃあっ!」
マリミアンは、必死に木にしがみつく。
侍女達に見咎められないように、こっそりとスカートの下にズボンを履いて木に登ったのだが、そのスカートの面積はかなり大きい。
下にズボンを履いているお蔭で、スカートがめくれても気にはならないが、その大きなスカートが風に持っていかれて、かなり風に煽られるのだ。
「マリミアン!」
峯慶の声に、マリミアンは目を開ける。
けれど、その時――
「あっ!」
マリミアンは、バランスを崩して落ち掛け、慌ててより強く木にしがみつく。
だが、元々木の枝に立っていたのが良かったのか、木の叉に跨ることができた。
下からは、峯慶がはらはらとこちらを見上げているのが分かる。
でも、マリミアンは、心配はしていなかった。
何故なら、こういう時はいつだって――
「マリミアン!」
「シャーウィン御異母兄様!」
マリミアンは声を上げると、思いっ切り木から飛び下りた。
「あ、マリミアン!」
峯慶の慌てた声を尻目に、マリミアンはシャーウィンの腕に飛び込む。
シャーウィンは、しっかりとマリミアンを受け止めると、眉を吊り上げた。
「マリミアン! 何度も言っているが、木に登るのはやめなさい! お前、御淑やかになると言ったのではなかったのかっ?!」
「ごめんなさい、シャーウィン御異母兄様……」
マリミアンが上目遣いにシャーウィンを見上げると、シャーウィンは憮然として言った。
「全く、分かっているならいいが……それにしても、御前、王子殿下の御前で!」
「あっ……」
マリミアンは、呆然とこちらを見詰めている峯慶の視線に気付き、顔を真っ赤にする。
つい、いつもの癖で、異母兄に向かって飛び下りてしまったのだ。
何てはしたないところを見られたのだろう。
しかも、自分の大好きな男性に。
マリミアンは身を翻し、そしてそのまま、シャーウィンの手をすり抜けて屋敷の中に駆け戻ってしまった。
峯慶は、マリミアンの背に手を伸ばし掛けた格好で固まっていた。
気付かずに通り過ぎてしまったマリミアンに肩を落とした彼に、シャーウィンがにこやかに笑いながら声を掛ける。
「申し訳ありません、殿下。マリミアンは、どうやら御転婆気質が治らないようで――」
「……いや、いい。平気です」
そう言いながら、峯慶はシャーウィンをこっそり睨む。
彼が現れなければ――もしかしたら、マリミアンといい雰囲気になれたかも知れないのに。
けれど、にっこりと笑って返されてしまった。
所詮、十三歳と十六歳の少年では、年上の方が確実に勝つということなのだろう。
峯慶は、決心した。
(よし……。もし次にこんなことが起こったのならば、私が必ず受け止める!)
けれど、その決意は結局無駄となる。
油断して羽目を外した、お転婆なところを大好きな峯慶に見られてしまったマリミアンは、以後二度と木登りをしようとはしなかったのであるから。
シャーウィンは、何やら決意をしたらしい年下の少年を微笑ましく見ていたが、この国の第一王子が急に訪ねて来たということに疑問を覚え、訊ねた。
「しかし、何ゆえ本日は我が家に御越し下さったのですか? 殿下は、先日こちらを御訪ねになられたばかりだと存じておりますが……」
その言葉に、峯慶は自分の用向きを思い出した。
「ああ。それに関してですが……」
峯慶はそう言って、後ろに控えていた侍従から、巻筒式の文書を受け取った。
それを見たシャーウィンは、その古典的な公文書のような物に、眉を寄せる。
「殿下、それは?」
「これは、マリミアンの王籍名のことに関しての文書です。私は本日、これを戦祝大臣殿に御届する為と、王籍名についての説明にここへ伺いました。戦祝大臣殿も、御承知のことです」
峯慶は、そう言うと苦笑した。
「このようなこと、口頭でも何ら問題がないはずですが、そうはいかないようで……。このような、前時代的な公文書でなければならないという慣習があるのです。ただ、これを作るのは、相当時間が掛かるようで、先日の訪問には間に合わず、このような中途半端な時期となってしまいました」
「そう……でしたか。では、こちらへどうぞ。祖父は書斎にいるはずですから」
「ええ、頼みます」
峯慶はそう言って屋敷の中に足を踏み入れた。
(うう……どうしましょう! わたくしったら、殿下の御前で、何てはしたない真似を……!)
マリミアンが、寝室の片隅で蹲っていると、
「マリミアン……? マリミアンったら、どこにいるの?」
「御異母姉様?」
マリミアンが寝室から顔を覗かせると、四歳年上の異母姉のシュメリアンがいた。
「御異母姉様、一体どうかなさったの?」
「どうかなさったの、じゃないわ! マリミアン、貴女の王籍名が決まったのよ!」
そう言う割には、嬉しそうではない。
「そうなの? じゃあ、何て名前になるのかしら」
「それなのよ!」
シュメリアンにがしっと肩を掴まれて、マリミアンは目を白黒させる。
そうして告げられた、マリミアンの将来の『名前』に、マリミアンの顔が強張った。
「――殿下! 峯慶殿下!」
峯慶の待ち望んでいた声が聞こえ、峯慶は立ち上がって彼女を迎えた。
けれど、彼女の蒼褪めた顔に、峯慶は訝しげに首を傾げる。
「マリミアン? どうかしましたか?」
「あ、あのっ……わたくしの、王籍名が、『ユリア』だというのは真に御座いますかっ?!」
「ええ……そうですけれど?」
その途端、マリミアンの腰が砕けた。
「マリミアン!」
慌てて彼女を支え、椅子に座らせると、マリミアンは蒼褪めた顔で呟いた。
「『ユリア』と言うのは、先王陛下の御名では御座いませぬか! そんな……そんな、恐れ多い名を……!」
「それは……」
峯慶は言葉を詰まらせた。
確かに、それはそうだ。
彼の祖母である、昨年崩御した先王癒璃亜は、賢帝として名高い。
王族の名の音が使い回されているということは、貴族では周知の事実ではあるが、庶民の間ではそうではない。
よって、あの先王陛下と同じ音の名を名乗るということは、余程凄い人なのか、はたまた虚栄心が強い人なのか、と要らぬ憶測を招きかねない。
だから、マリミアンが蒼褪めているのも、無理はないことだった。
マリミアンは、何とか息を整えると、峯慶を見上げた。
「……ですが、もうそれは決定したことなのですわよね。そして、今更変更もできないこと」
「え、ええ……そうです」
「では、仕方がありませんわ」
マリミアンはそう言うと、ふうと溜息をついた。
「わたくし、名前負けと呼ばれぬように、精一杯頑張りますわ!」
そう断言した口調は気負ったところがなく、目はきらきらと輝いていた。
峯慶は、思わずほっと力を抜く。
その様子を見たマリミアンは、首を傾げた。
「どうか、なさったのですか? 大変安堵なさった御様子ですけれど……」
「ええ……。ちょっと」
峯慶は、そう言って溜息をついた。
「この王籍名の告辞と説明は、上位から――つまり、マリミアンの前に、后と妃の候補の所も伺ったのです。まあ、后となる沙樹奈は異母妹ですし、大した問題もなかったのですけれど、妃となるミオメス国の王女殿下の所が、王籍名という制度自体に渋られまして……。その、産まれた時に名付けられた名を改めるのは、気に食わないと」
「まあ……そんなことが。確かに、親とすれば、自らの名付けた子の名が変えられるのは、御嫌かも知れませんわね」
その言葉に、峯慶は曖昧な笑みを浮かべる。
「はあ、まあ……そんなところですね」
実際は、それを嫌がったのは妃候補本人なのだが。
「とにかく、これで貴女は私の正式な婚約者です。どちらかに不測の事態が起こらない限り」
「え、ええ……そうですわね」
マリミアンは、峯慶の『婚約者』という言葉に頬を赤らめる。
こういうところが、大変初々しくて、愛らしい。
峯慶は、図々しかったミオメス国の王女、ミアン・ストールを思い出して溜息をついた。
他の候補達は、野心や好奇心が全くない訳ではなかったが、ミアンほど押し付けがましくはなく、図々しくもなく、我儘でも高慢ちきでもなく、それぞれの分をわきまえた少女達であっただけに、彼女に対する幻滅感が払拭できない。
ひょっとして、代々の王が大抵六十代から八十代の早さで亡くなっているのは、そういった心労があるのではないだろうか。
峯慶は、思わずそう勘繰ってしまった。
ふと見ると、何故かマリミアンが目に涙を浮かべていた。
「マ、マリミアン? 一体何が?」
峯慶が慌てて彼女の顔を覗き込むと、
「峯慶様……わたくし、やはり子供なのですわね」
「はい?」
峯慶は、滅多にないマリミアンからの『峯慶様』という言葉に相好を崩しつつ、『子供だ』という、前後の繋がりがよく分からない言葉に首を傾げた。
「だって、わたくしがこんなことで恥ずかしがっているから、峯慶様は溜息をつかれたのでしょう? 『正式な婚約者』だなんて言葉だけで、舞い上がってしまったのですから」
とんでもなく見当外れの言葉に、峯慶は慌てて否定する。
「い、いえ、これはそうではなく――」
「いいえ、取り繕わないで下さいませ!」
マリミアンの強い語調に、峯慶は思わず口を閉じる。
本当に見当違いのことだったから、それを撤回したかったのに、マリミアンの勢いがそれを許さなかったのだ。
マリミアンは、小さな拳を強く握り締めると、立ち上がって峯慶に歩み寄って見上げる。
距離は、ほとんどない。
「わたくし、もっと頑張って、早く大人になりますわ!」
そう言うと、マリミアンは峯慶に抱き付いた。
「ですから、待っていて下さいましね、峯慶様! 三年歳が違うくらい、一体何だと言うのです! わたくし、早く大人らしくなりますから、見ていて下さいませ!」
そう言って、目をきらきらさせる姿は、とっても――可愛い。
結婚どころか、婚約自体が公になるのがだいぶ先のことだと思うと、その年月が憎らしい。
本当に、今すぐにでも結婚したいくらいなのに。
けれど、この峯慶の気持ちは、まだ幼いマリミアンには早いだろう。
峯慶は内心を押し隠すと、何とか笑みを作ってマリミアンに同意した。
「え、ええ……そう、ですね……。貴女が早く大人になるのを、待っていますよ、マリミアン」
その言葉に、マリミアンは更に顔を輝かせると、ぱっと破顔した。
「はい、峯慶様!」
ぎゅっと力強く抱き締めて来るマリミアンを抱きしめ返しながら、峯慶は遠い目をした。
(ああ、早く大人になりたい……。三年どころではなく、十年以上も先だな、ようやく結婚できるのは……)
何にも知らない、けれども大変可愛らしい十歳の少女を前に、峯慶は切実な溜息をついた。
(終)