―『オネエサマ』と私―3
そののち、癒璃亜が第二子の奨砥を出産して一年が経った頃、過去を覗き見る道具の開発・研究が始まった。
けれど、それをどんな形状にするか、どんな制限と利用方法にするか、そこから始めなければならなかったので、その方針に見合った上でちゃんと機能する試作品が完成するまで、何と二十年近くも掛かってしまった。
だが、その試作品ができてからの展開は早く、それからも有効範囲を広げる試行錯誤が繰り返され、ミーシャが五十一歳、癒璃亜が五十三歳になった時――
「……ようやく、完成致しました。陛下。これならば、市場に出すことも可能です」
顔に深く皺の刻まれた女は、その言葉に、にっこりと微笑んだ。
「ええ、ようやく……。この去解鏡が完成するまで、もう、何年掛かりました?」
「そうですね、もう、二十年は過ぎて……二十四年です」
ミーシャはそう言うと、皺の浮いた自らの手を眺めた。
時は、無常に流れて行く。
もう、すっかり年老いてしまった。
「全く、時が経つのは早いものだわ……」
「ええ、そうですね、陛下」
癒璃亜は、そっと鏡を持ち上げて、そこに映る自分を見て笑った。
「でも、よいこともありました。こうしてわたくしは年老いていき、もう五十代です。――ミーシャ。わたくしは、今年いっぱいで退位します」
その言葉に、ミーシャは一瞬目を瞠った後、頷いた。
「ああ……。そう言えば、決まりがございましたね」
「そう。王の在位は三十五年に留める。わたくしは、今年が在位三十年目。五年ばかり早いですが、来年からは、籐聯が王です」
「ですが、籐聯殿下も、随分とご立派になられております。それは、陛下と比べてしまえば、幾段か落ちてしまいますが……二十七歳の青年にしては、見所がございます」
その言葉に、癒璃亜はくすくすと笑う。
「まあ、王子すらも批評の対象にしてしまいますの? ミーシャは」
「ええ。わたくしは、花鴬省の人間ですもの。王族とは深い関わりを持つ省ですから」
癒璃亜はミーシャの言い分に笑顔を浮かべた後――突如として、咳き込んだ。
「陛下!」
慌てて、ミーシャは癒璃亜の背中をさする。
しばらくすると落ち着いたのか、癒璃亜は弱々しい笑みを浮かべた。
「……ごめんなさいね。近頃は、めっきり体も弱くなって……」
「いいえ、陛下。そんな弱気なこと、仰らないで下さい。昨年、初孫がお生まれになられたばかりでしょう? せめて、そのお子様が――峯慶殿下が大きくなられるまでは、生きておられて下さい」
癒璃亜は、小さく笑った。
「ええ、そうね……それくらいまでは、わたくしも、生きたいわ。……でも、峯慶が結婚する頃までは、無理でしょうね……」
ミーシャは、その場に膝をついて、強く癒璃亜の手を握り締めた。
「もしそうだとしても、陛下。私は、生きて、生きて、ずうっと生きて、それこそ峯慶殿下のお子様がお生まれになるまでは、最低でも生きていきます。そうして、私が身罷った後、陛下にそのことをお話し致します」
すると、癒璃亜は寂しげな微笑を浮かべた。
「それよりも、わたくしは――貴女に、御異母姉様と、呼んでほしいのだけれど……」
「――それは……」
相手は、あと数年で、亡くなってしまうかも知れない相手だ。
最期の願いを叶えてあげたいとは思うものの、母の、そして他の総下や異母兄弟の様子を間近で見聞きしていただけに、王である相手を『姉』として認めることに、強い抵抗がある。
「ふふ……言ったでしょ? 死ぬまでの間に、貴女に『御異母姉様』と呼ばせてみせるって。……それなら、わたくし、どんな手でも使ってよ?」
ミーシャは、固く唇を噛み締めた。
それが、決して叶えられない願いだと、知っていたから。
ミーシャは、年老いて動かしにくくなった体で、懸命に早足で部屋を出た。
あの部屋には、他にも人がいた。
それはそうだろう。
彼らは、あの『賢王』花雲恭癒璃亜の、最期を看取ったのだから。
だから、そんな有力者揃いの中で、己の醜態をさらすことはできない。
何故なら、彼らのほとんどが自分の素性を知らないのだから。
人のいない所まで行くと、ミーシャは蹲り、声を噛み殺す。
「陛、下っ……」
(御異母姉様っ……)
「ごめん、なさい……。ごめ、なさっ……! 最期まで、御異母姉様って、呼べなくて……ごめんなさい……」
髪は白髪になって誤魔化せたが、濃い桃色の瞳だけは、コンタクトがなければどう足掻いても誤魔化しきれない。
だから、あの部屋の中ではコンタクトが流れる泣き方はできなかった。
でも、ここなら誰も来ない。
ミーシャは思う存分泣いた。
第百五十代花鴬国国王だった花雲恭癒璃亜が、息子の花雲恭籐聯に譲位したその十年後、長い闘病生活の末、彼女は逝った。
享年、六十四歳。
平均寿命が八十年を余裕で越える現代では、あまりにも早い死だった。
それから、また幾年が過ぎ、異母姉が亡くなってから十六年後、ミーシャが七十八歳になった時。
「ふふ……いいですよ。私が、その役目、引き受けましょう」
ミーシャは、穏やかに微笑んだ。
「ですが、ブルーノ殿っ……!」
「ですが、とは何でしょうか? 陛下。峯慶殿下。申し入れは、そちらからのもの。それに、私の夢も叶います故、問題はございませぬ」
老女の言葉に、籐聯と峯慶は顔を歪めた。
「本当に……宜しいのですか?」
「ですから、何度も申し上げております。これは、私の夢が叶う方法。否やはございませぬ」
ミーシャは断言すると、二人を追い出した。
途端に、部屋の中は静かになる。
椅子に腰掛けると、自然と体から力が抜けた。
こういったところから、徐々に自分が衰えていっているのだと、認識することができる。
(それにしても……)
ミーシャは、くすりと笑った。
峯慶は、さすが癒璃亜の孫息子だ。
本当に、本質がよく似ている。
ミーシャは、寂しげに微笑んだ。
異母姉が逝ってから、もう十年以上が経った。
けれど、その断片は、こうして次の世代に見受けることができる。
そのことが、酷く楽しかった。
「私も、子供を持てば良かったかしら……」
小さく呟いた後、ミーシャはかぶりを振った。
ミーシャの中に流れる血は、王家の血。
彼女が子供を持てば、それは次の世代へと流れて行ってしまう。
ただでさえ、こんなにややこしい血筋に産まれたのに、それを次の世代へ持ち越したくはなかった。
「まあ……いい殿方が見付からなかったというのも、あるのかしらね?」
呟いた後、ミーシャは立ち上がった。
全ての準備が終わったら、もう、自分はここへと還って来ることはない。
異国の、それも異なった時で、その生涯を閉じることとなる。
だから、全ての整理を付けなければならなかった。
……それが不幸だと、嘆く人もいるだろう。
けれど、ミーシャは不幸には思わなかった。
もう、この場所には未練が――心残りがないから。
自分の人生に、決して満足はしていなかったけれど、強く心が惹かれるような未練は、最早この時代にはない。
それに、この歳になっても『夢』が持てるのだ。
これ以上のことはないだろう。
老女は立ち上がると、心持ち軽い足取りで歩いて行った。
自身の望む、未来に向かって。
(終)