―『オネエサマ』と私―2
こんこん、と来客を告げるノックがあり、ミーシャは訝しげに顔を上げた。
そして、その扉から入って来た人物を見て、思わずミーシャは立ち上がった。
「へ、陛下!」
時計を見て、更にミーシャは蒼褪めた。
今の時刻は、土曜日の十四時。
先日、癒璃亜が訪ねると言っていた時間である。
……本当に、すっかり忘れていた。
そのせいで、何も準備はしていない。
「あ、あの、陛下。その……」
ミーシャが目を彷徨わせるのを見て、癒璃亜はふんわりと笑う。
「ああ、大丈夫ですよ。御仕事の区切りは、宜しいですか?」
「あ、だ、大丈夫です……」
「では、御話ししましょうか」
「あ、で、では、今お茶を――」
「いいえ、大丈夫ですわ。別になくても」
「いえ、そんな訳には参りません。今すぐにお茶を淹れて参りますので、少々お待ちを」
ミーシャはそう言って、早足で廊下に飛び出す。
そして、そこにわいわいと集まっている野次馬達を、一睨みして追い払った。
ミーシャのこの一睨みにはかなりの迫力があるらしく、大抵の人物(特に男)はこれで追い払える。
ミーシャは安心して、給湯室に急いだ。
「それで……本日のご用は、一体何でしょうか」
ミーシャが癒璃亜の目を見詰めて単刀直入に言うと、癒璃亜は少し目を瞠った後、かちゃりとソーサーにカップを置いた。
「わたくしが、魔族の全ての力を持っていること――知っているわよね?」
その言葉に、ミーシャは驚いて目を瞠る。
「ええ。勿論です」
「ええ……そうよね」
癒璃亜は独り言のように呟くと、小さく息をついた。
「ブルーノ統括官。……貴女、時を越えたいと思ったことは?」
ミーシャは、思わず凍り付いた。
「――思ったことならば、あります。ですが……」
ミーシャは、震える息を何とか整える。
「それは禁じられたことです。確かに私なら、あるいは陛下であれば、時を越えることは可能です。ですが、それは一方通行のもの。……往復は、たとえ陛下であっても、なりませぬ」
「そう、それが問題なのよね……」
癒璃亜は溜息をつくと、不意に真面目な顔になった。
「例えば、殺人事件。例えば、強盗事件。他にも、凶悪事件や、未解決事件。……いくら科学が進歩しても、そういった事件を全て解決することは、できませんわ。でも、魔法だったら?」
ミーシャは、思わず目を瞠った。
「そう。何も、わたくし達自身が過去に向かわなくてもいい。何か物を過去に飛ばす必要もない。ただ、その『時』を記憶できて、未来に、その保存されている過ぎ去った時間を……過去を覗き見ることのできる何かがあれば――」
癒璃亜は、にっこりと笑った。
「そう、思いませんか?」
ミーシャは、固く詰めていた息を吐いた。
「……ですが、それには問題があります。最初はかなりつたない技術も、進歩すれば、それは脅威になります。もし、それに制限がなくなれば――」
「ええ。人権侵害、ストーカー、機密情報の漏洩、他にも沢山の問題がありますわね。でも、それほど心配しなくても大丈夫だと思いますわよ」
あっさりとそう言う癒璃亜に、ミーシャは眉を顰めた。
「何故ですか?」
「まだ、具体的にはよく分かっていない、過去を覗き見ることのできる何か――これは、多分魔族の血を引く人の中でも、適性がないと動かせないと思います。そう、魔族の力と同じように」
「あ、そうか……確かに、そうですね。そして、それを花鴬省の、もしくは宗賽省の管轄に置けば――」
「そう、余計に悪用の危険は少なくなる」
二人は顔を見合わせて、くすりと笑った。
「何だか、楽しそうですね、陛下のご提案は」
「やる気になったかしら?」
「はい。どうか陛下、わたくしにも手伝わせて下さいませ」
「元よりそのつもりですわ」
癒璃亜は、悪戯っ子のように笑った。
その姿は、到底一児の母とは思えない。
「あ、でも、今すぐではなく、しばらく時を置いてもらっても構わないかしら?」
その言葉に、ミーシャは首を傾げる。
「ええ、少し残念ですけれど、構いません。……ですが、何故ですか?」
すると、癒璃亜は少し笑った。
「実は、妊娠したのです。まだ安定期には入っていないので、発表は、今しばらく先ですが……」
「それは、おめでとうございます、陛下」
ミーシャは、目を瞠りながらもお祝いを言って頭を下げた。
確かに、彼女の長男である籐聯王子は二歳だし、そろそろ妊娠しても可笑しくはない。
「第二子ということになりますね。本当にお喜び申し上げます。健やかな御子のご誕生をお祈り申し上げております、陛下」
そう言って深く頭を下げるミーシャに、癒璃亜は少し寂しそうに呟いた。
「……御異母姉様、とは、呼んでくれないのね」
その声に、ミーシャは思わず驚いて肩を揺らした。
――実の父親でも、把握していたかどうか怪しい娘だ。
なのに、彼女が知っていたなんて、夢にも思わなかった。
けれど、ミーシャは顔を上げずに、頭を下げたまま言った。
「何のことでございましょう、陛下」
癒璃亜が、どこか辛そうな雰囲気なのは、感じ取っている。
でも――これは、自分のけじめだ。
「……いいわ。時間はまだあるものね。わたくし、絶対貴女に『御異母姉様』って呼んでもらうから。覚悟しておいて」
癒璃亜はそう言い置くと、部屋を出て行った。
彼女は、たとえ妊娠していると言っても、王に違いない。
恐らく、執務が溜まっているのだろう。
癒璃亜が出て行ってからしばらくして、ミーシャは顔を上げた。
そして、少しほつれてしまった髪を撫で付ける。
その髪が、赤茶けた色をしているのを見て――ミーシャは、唇を噛み締める。
王家には、赤系統の色が出やすいらしい。
その証拠に、王家の証しとされる瞳の色は桃色だし、髪の色は赤茶色だ。
勿論、それ以外の色が出る時もある。
癒璃亜の髪の色だって漆黒だし、瞳の色は貝紫だから、王家の特徴とは全く違う。
確か、彼女の母である早莉阿女に似たのだったか。
けれど、その癒璃亜の夫である斑都は、王家の人間らしく目も髪も赤茶色だ。
ミーシャは、強く髪を引っ張った。
こんな、髪の色……大っ嫌いだ。
いっそのこと、染めてしまおうか。
瞳と、同じように。
ミーシャは溜息をつくと、コンタクトレンズを外した。
そのレンズの色は、一般的な花鴬国の瞳――菫色をしている。
けれど、鏡を覗き込むと、そこには強い桃色の瞳が映っていた。
きつく、唇を引き結ぶ。
赤茶色の髪なら、探せば他にもいる。
けれど、この花鴬国で桃色の瞳を――それも、濃い桃色の瞳を持つ者は、王族に連なる者に限られている。
これこそが、ミーシャの血筋を示す証し。
だから、こんな色――
「大っ嫌い」
どうして、自分はこんな色を受け継いでしまったのだろうか。
自分は総下の娘で、正統な王族とは言えないのに――母親も庶民だから、精々が、後宮の下級侍女になれるくらいの血統でしかないのに。
ミーシャは、癒璃亜女王自身は嫌いではない。
むしろ、尊敬している。
でも、できることと、できないことがある。
あの、後宮を出た十二歳の時に、決めたのだ。
もう、仕事以外では、金輪際花雲恭家には関わらない。
たとえ血筋がばれたとしても、決して異母兄とは、異母姉とは、異母弟とは、異母妹とは――絶対に、呼ばないと。
「これは、私なりのけじめなんだから。……だから、絶対に、貴女の希望には、答えられない。たとえ貴女が死んでも、私には、絶対に無理。……ごめんなさい、」
オネエサマ――
その言葉だけは、胸の奥に仕舞って。
(続)