第五章「最後の秘密」―1
可哀想なことに、笈は固まって動けない。
他の並樹家の家族も同様だ。
千紗は冷笑を洩らすと、手にしていた紙をテーブルに叩き付けて、踵を返した。
「ああ、これはそちらでどうぞご自由に? 二重三重にバックアップは取ってるし、警察にだってこれのコピーはあるから」
鮮やかに捨て台詞を残して立ち去ろうとする千紗と、その後について自然に立ち去ろうとする眞祥に、由梨亜も慌てて部屋を立ち去ろうとする。
こんな居心地の悪い場所に、いつまでもいたくはない。
だが、空気が読めないと言えばいいのか、彼女はどこまで行っても彼女だということなのか――。
「お、お待ちなさい!」
傲慢な貴族の声に、眞祥は立ち止まりこそしたものの振り返らず、千紗は煩そうに顔を顰めて振り返った。
「何? 落ちぶれたお嬢様」
「落ちぶれた、ですってっ……?!」
「そう。いくら貴族だって言っても、娘のあんたが事件を起こして、その父親までもがこんだけやっちゃったらねぇ。もう貴族とは認められないかもよ? 中学だって、あんたは町の方の、ここいらの富豪が沢山通ってる私立に行くっつってたけど、もうこうなったら無理じゃないかな? この屋敷の維持費だけでも馬鹿になんないし、たとえぎりっぎり貴族として認められたとしても、固定資産税も学費も出せないんじゃないかな?」
「な、何を言うのです?! そう簡単に、貴族ではないとは認められないというのにっ!」
顔を真っ赤にして怒鳴る咲に対して、千紗は至って落ち着いている。
「ふ~ん。ま、どうせ庶民とか富豪扱いになるか、名ばかりの貴族になるかって違いしかないだろうけどね。で? 訊きたいことって何」
「そ、それですわ! お前と眞祥は、一体どういう関係ですの?!」
バン、と強く椅子の肘掛けを叩く咲に、眞祥は思いっ切り顔を顰めて振り返った。
「うっせえな、このドブス。キャンキャン吠えてうっせぇんだよ」
その言葉に、咲だけではなく、由梨亜も顔を引き攣らせた。
「い、いくら何でも、その言い方は、ないんじゃないかなぁ……?」
「は? 今までず~っと、こいつの物言いには我慢させられてきたんだ。これだけじゃあ足りねぇよ。俺は、基本的には綺麗な奴としか喋んないっつうのに、お前って奴は……」
半眼で千紗を睨む眞祥に、けれど千紗はどこ吹く風だ。
「だって、しょうがないじゃん? あたしには使える人がいなかったんだから。だったら、親戚のあんたに頼むしかないでしょ? ねえ? 眞祥叔父さん?」
――途端に、咲の顔が凍り付いた。
「うっわあ……やめろよ。タメのくせして『叔父さん』はないだろ」
「だって、事実でしょ? あたしのお母さんの歳が離れた弟があんたなんだから」
和やか(?)に会話をする二人に、由梨亜はずっと気になっていたことを訊ねた。
「歳が離れてるって……いくつ違うの?」
「え? え~っと……十九歳、かな? あたしのお母さん、十九歳であたし産んだし。……っつうか眞祥、何であんた十一月生まれなの? あたしは正真正銘あんたの姪なのに、誕生日はあたしの方が先じゃん」
その言葉に、由梨亜の思考が停止した。
「……ってことは、彩音さんの方が早く産まれたのに、東風上さんは叔父さんってこと……?」
「言うなっ! それは二度と口にするなっ!」
……どうやら、眞祥にとってそれは禁句だったらしい。
「じゃあ、これから眞祥のこと、『眞祥叔父さん』って呼ぶから。宜しくね? 眞祥叔父さん?」
「んのっ……! もう帰るぞ、千紗!」
「あ、逃げた」
思わず由梨亜が呟くと、何とも凄まじい形相で眞祥に睨まれる。
「いいからつべこべ言わずにさっさと行くっ!」
「は~い。あ、忘れるところだった」
千紗はそう言うと、咲の学生証を咲に向かって投げ付ける。
「ほら、これで用は済んだし、もう行こう」
いきなり千紗に手首を掴まれ、由梨亜は思わず目を瞠った。
由梨亜も咲達も唖然としているうちに、そのまま千紗に引きずられて外に出た。
千紗も眞祥も、もうこの屋敷には近付きたくもないのか、あっと言う間に咲の屋敷は見えなくなる。
「あ、あの――そろそろ、手を離してもらってもいい?」
由梨亜が恐る恐る声を掛けると、千紗はびっくりした顔で手を離した。
どうやら、無意識で掴んでいたようだ。
辺りはもう、すっかり暗くなっている。
「なあ。本条さん。家、大丈夫か?」
「家?」
「門限だよ、門限。貴族なんだし、結構厳しいんじゃないのか?」
「あ……すっかり忘れていたわ。今、何時くらいかしら? もう暗いけど……」
「ん~、六時半だな」
眞祥が携帯端末を取り出して言うと、由梨亜はその時間にがくりと肩を落とした。
「……もう、いいわ。東風上さん、その端末、貸してもらえるかしら?」
「あ、いいけど?」
由梨亜は眞祥の携帯端末を受け取ると、家の番号に掛けた。
「もしもし? 由梨亜ですけれど、遅くなるので一応連絡を入れました。帰る時にまた連絡します」
由梨亜はたったそれだけを言うと切り、更には端末の電源まで落とした。
「……え~っとさ、今、留守電みたいな感じで話してたけど……」
千紗に恐る恐る言われ、由梨亜はあっさりと頷いた。
「ええ。留守電だもの。私が今掛けた番号は、お父様の予備端末だから、基本的に留守電に接続されることになっているのよ。悪戯電話だったら留守電になった時点ですぐに切られるし、何か大事な話だったら、留守電にメッセージを残すでしょ? そうしたら、それをお父様が聞いてリダイヤルすればいいから。あ、その携帯端末、電源入れないでね? 多分お父様から凄い電話が掛かって来るだろうし、下手したらGPS使って位置探索してくるかも知れないから」
由梨亜はそう言うと、少し小首を傾げる。
「私、まだちょっと訊きたいこともあるし、もう少しお喋りしていたいの。彩音さんの家に行ってもいいかしら?」
その言葉に、千紗は盛大な溜息をついた。
「はあ、もう……いいよ。あと五分で、うちに着くし」
「良かった。ありがとう」
そう言ってにっこり笑う由梨亜の背後で、眞祥が
「確信犯かよ……」
と呟いたのは、聞かなかったことにした。