第四章「真実と暴露」―2
「ここ……って……」
由梨亜は、呆然とそれを見上げた。
その家は、最早家と呼ぶのが躊躇われるほどの大きさで、屋敷そのものだった。
ただ、由梨亜の家には到底及ばない程度の大きさである。
だから由梨亜が驚いたのは、その家が大きかったから、という訳ではなかった。
そこが、クラスメイトの家だったから。
それも、こんな大きな家を建てるほどの。
「まさか、咲の家っ?!」
由梨亜は、思わず千紗と眞祥を凝視する。
「どうして、ここに……」
「まあ……強いて言うなら、仇討ち、かな」
千紗は腕を組んで、少し難しい顔をしている。
「仇討ち、って……いじめられたから、そんなことを言うの?」
「違うよ」
由梨亜の語尾にかぶさるほどの勢いで、千紗ははっきりと言い放った。
「あたしは別に、いじめられたぐらいじゃあ、こんなことは思い付かなかったと思う。確かに、あれは嫌だけど……」
千紗は顔を顰めて、目の前にそびえ立つ館を睨み上げる。
「でも、我慢して、息を殺していれば、中学に上がった時には終わるの。あいつは、中学まで庶民の学校に通う気はないから、どっかの適当な私立に行くだろうし、あたしは近くの公立に行く。それで縁が切れる。まあ――」
不意に苦笑を洩らすと、千紗は肩を竦めた。
「そういう持久戦って言うか、何にもしないでるのはあたしの性に合ってないけど、どうせ長引いても三年足らず。我慢できなくはないし、実際我慢するつもりだった。それに、相手は没落気味とはいえ貴族。下手なことをすれば、こっちがやられちゃう。そう思って、大人しくしようと思ってたの。……あんなことが、なければね」
「あんなこと、って……?」
由梨亜が訊ねても、千紗も眞祥も何も言わない。
ただ、二人で視線を交わしただけだ。
そうしてそのまま、千紗は無言で玄関へと進む。
そこは、勿論閉ざされていた。
だが、由梨亜の屋敷とは違って、人間の門衛はいない。
ただ、堅固な二メートル以上もある柵状の門がそびえ立っているだけだ。
勿論そこは、堅く閉ざされている。
一体どうやって中に入るのかと由梨亜が訝しんでいると、千紗に門の前から退くようにと促され、咲の屋敷からは見えない煉瓦調の塀の辺りに移動する。
すると、何故か眞祥が携帯端末を取り出した。
それで、どこだかに電話を掛ける。
しかし、すぐにその電話は終わってしまった。
「…………?」
由梨亜は問い詰めようと千紗を見詰めたが、首を振られ、おまけに黙っているようにと促される。
――時間にして、五分ほど経った頃だろうか。
慌ただしく駆ける足音が聞こえたかと思うと、門扉がゆっくりと内側に向かって開いた。
そして、人一人がぎりぎり通れる広さになったかと思うと、一人の少女が駆けだして来て、眞祥に飛び付いた。
「まあ、眞祥! 何度あたくしが誘っても来なかったのに、よく来てくれたわ! ほら、入って。ちょうど今日は、お父様がお休みだからいるのよ。ああ、何て運のいい日に来てくれたの! お父様はお忙しいから、週の半分は東京に行っているのよ?」
「ええ。以前にもお伺いしたことはありますよ、並樹様」
「ああ、だから、もう何度言わせるの? 名前で呼んでって。それに、うちだとお父様もお母様も、お兄様もみんな並樹なのよ? 区別が付かなくなるじゃないの」
「いいえ、ご身分が違うと、何度も申し上げているでしょう?」
由梨亜は、思わず呆気にとられた。
由梨亜は学校ではいつも咲に付き纏われ媚を売られているが――いや、だからなのか、いくら顔がいいとはいえ、咲が庶民の男子にここまですり寄っているなんて、初めて見た。
由梨亜が唖然としていると、ふと横を風が吹いた。
思わず隣を見ると、そこにいたはずの千紗の姿がない。
(あ、あれ……?)
由梨亜は慌ててきょろきょろと辺りを見回したが、目に付いた動きと言えば、咲が眞祥を門の中に引きずり込み、門が閉ざされただけだ。
由梨亜は一人、道に突っ立っていた。
(置いて、かれた……?)
由梨亜のこめかみを、汗が伝い落ちる。
「何ぼうっとしてんの?」
どこからともなく千紗の声が聞こえ、由梨亜は慌てて辺りを見渡した。
でも、どこにも彼女の姿はない。
由梨亜が不安に駆られると、
「どこ見てんの、上だってば」
由梨亜は慌てて空を見上げたが、そこにはただ青い空が広がっているだけだ。
「ちょっと、あんたってほんとに馬鹿なの? 上って言われて空見上げるなんて、正真正銘の大馬鹿か純粋培養のお嬢様だけだって――あ、そうか。あんた、正真正銘のお嬢様だもんね。仕方ないかあ」
由梨亜が何とか声の元を辿ると、塀の上に千紗の姿があった。
「どうやって……そこまで上がったの?」
「どうやってって、助走付けてジャンプして塀の上に手ぇ引っ掛けて、あとは木登りみたいに登っただけだよ? ほら、煉瓦風に作ってあるから、とっかかりが多いんだよね。さすがに四、五メートルくらいだと難しいけど、三メートルないもん、ここ」
千紗はあっさりと言うと、含み笑いをして由梨亜を見下ろした。
「まあ、あたしは平気だけどさぁ、あんたは無理だよね、ここ登んの」
「あ、当たり前じゃない……」
千紗は明るく笑うと、ぴょんと塀の内側に飛んだ。
「あ、ちょっとっ……!」
「門の方に回って。今開けるから」
少し張り上げた声に促されて、由梨亜は恐る恐る門の前に立つ。
すると、あっさりと門は開かれた。
と言っても、それは僅かな隙間でしかない。
「ほら、さっさと入ってよ」
門の近くに佇む千紗から不満気に言われ、無断で中に入るのに躊躇っていた由梨亜は、慌てて門の内側に滑り込む。
その途端、すぐに門は閉められた。
「どう……やったの?」
「何が?」
何も躊躇うことなく屋敷へ歩いて行く千紗に、由梨亜は焦りながらその後ろを追い掛ける。
「何がって、どうやって門を開けたの? 人もいないのに……」
「だから、その人の代わりをあたしがしたんだってば。この家は広いけどさ、家計の実情は火の車なんだ。だから、こういった所に人を雇う金がない。だったらさ、ここを開け閉めするのは、ここを通る人しかないじゃん? だから、あたしでも簡単に開けられたって訳」
あっと言う間に並樹家の玄関に辿り着いたかと思うと、今度は遠慮もへったくれもなく玄関の扉を開け放つ。
「あ、ちょっ……!」
由梨亜が慌てて手を伸ばしても、千紗はするりと中に入ってしまう。
あまりにずかずかと進んで行く千紗に、由梨亜は躊躇いながらも後を追った。
けれど、不安が付いて回る。
「ねえ、ちょっと……いいの、これ? 不法侵入じゃない」
「違うよ? あたし達は、門の前でこれを見付けたの」
千紗は、人差し指と中指の間に挟んだカードを振った。
「それ……学生証?」
由梨亜は、思わず呆気にとられた。
しかも、その学生証は咲の物だ。
「どうやって、そんな物……」
「ん? 眞祥がかすめ取ってたの。知らなかった?」
「知らないわよ……」
由梨亜は、思わず脱力した。
「でも、それじゃあ不法侵入したことには変わりないじゃない……」
「だから、違うってば。ここは咲のお屋敷だし、家の目の前で拾ったなら、届けるのが普通でしょ? それで見たら、門が開いてたから、こうやって入って来たの」
ふてぶてしく笑う千紗に、由梨亜は更に力の抜ける思いで額を押さえた。
「そんな屁理屈、通用するとでも思ってるの……?」
「通用するとかしないじゃなくて、通用させるの」
不意に強い口調で言われ、由梨亜は訝しげに千紗を見上げる。
「彩音さん……?」
「ああ、ここだね」
千紗はしゃがむと、何かを手に取った。
そして、その何かを巻き取るような仕草をする。
「え……? ちょっと、何やってるの?」
由梨亜もしゃがむと、何かがきらりと光った。
「これ? テグス。まあ、天然繊維のじゃない、強いて言うなら『テグスもどき』かな? 本物だと高過ぎて、あたしみたいな一般庶民には手出しできないからね。でも、透明度で言うとこっちの方が上だよ? これ、注意して見ないと見えにくいから、眞祥に屋敷の玄関から落として行ってもらったの。これだったら、簡単に後を追えるでしょ?」
「そりゃあ、そうだけど……」
由梨亜は呆れて溜息をついた。
こんなことは、一朝一夕には思い付かないだろう。
つまり、千紗と眞祥は、随分と前から用意周到に準備を進めていたということだ。
「貴女……一体、何を仕出かす気なの?」
「それはまあ、見てのお楽しみってことで」
千紗は悪戯っぽく笑うと、またしても無造作に扉を開け放った。
しかも、乱暴に。
ダーンという音が響き、中にいた咲は驚いてこちらを見た。
その向かいでは、ゆったりと眞祥が紅茶を飲んでいて、咲の隣や近くには、咲の両親や兄と思われる人物がいる。
彼らも咲同様に驚いていて、唯一泰然としているのは眞祥だけだ。
「何だ、遅かったな」
「仕方ないじゃん。あたしだけだったらさっさと来れたけど、塀を乗り越えられないお嬢様がいたからさ。それに何? 一人で優雅に紅茶飲んじゃって」
「まあ、一見優雅に見えるけど……飲む?」
「うん。貰う」
千紗は眞祥からカップを受け取って一口含んだが、すぐに渋い顔になった。
「うっわ、何これ。まず~い……」
「な、何をっ!」
今まで呆然としていたくせに、批判には敏感な咲だ。
「だってそうじゃん。出過ぎてて渋いのを、何とか砂糖とミルクで誤魔化してる感じ。よくこんなの飲めるよね、眞祥」
「俺だって、本音を言えば飲みたくなんかなかったさ。だけど、お前が来るまでに疑われる訳にはいかないだろう? 多分セイロンだと思うが……明らかな粗悪品だよ、こんなの」
「ま……眞祥? い、一体何を……」
強張った顔で咲が言うと、眞祥は明らかな冷笑を浮かべた。
「不愉快なんだよ。俺の名前を呼ぶな。ブスが」
「なっ……!」
途端に、咲の顔に血が昇って引き攣る。
「見た目は可愛くないし、中身も最悪。まだ中身が良かったら話す価値もあったかも知れないが、お前にそんな価値はない。この紅茶と同様」
眞祥は、千紗に付き返された紅茶のカップを掲げてみせた。
「まず、淹れたお湯の温度が低過ぎる。充分沸騰させないとまずくなるだろう? それに、出し時間だって長過ぎる。だから渋くなるんだ。おまけに茶葉の方も最悪だな。等級はオレンジペコだろうがダストだろうが構わないが、もっと質が良くないと駄目だ。不味過ぎる。まあ、俺の好みはフラワリー・オレンジペコだが、その中でもやっぱりシルバー・ファイン・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコが一番だな。今まで飲み比べた中で、一番だった」
由梨亜は自分の顔が、咲に負けず劣らず徐々に引き攣っていくのを感じた。
「あと、種類だとセカンドフラッシュのダージリンだな。ダージリンのあの渋みが、ストレートティーに最高に合う。別にファーストフラッシュも美味いんだが、高級品のダージリンの特徴であるマスカテルフレーバーが一番多く含まれているのはセカンドフラッシュだからな。それを考えると、やっぱり……」
その、まるで本物の貴族のような批評に、並樹家の面々は目を白黒させる。
(何で、たかが小学生なのに沢山知ってるの……? ほんと、紅茶のディーラーになれるんじゃないかしら……)
「眞祥……あんた、相っ変わらず気取ってんのねぇ……。って言うか、何? オレンジペコって」
「…………お前はそこからか」
眞祥は呆れたようにじっとりと千紗を睨んでいるが、普通の小学生としては、千紗のような反応が最も正しいものだろう。
「いいか、紅茶ってのは奥が深いんだ。オレンジペコかダストかだと、抽出時間が大きく変わるんだぞ? それだけじゃない。茶葉の種類や出荷時期によって、濃い目に出した方がいいか薄目に出した方がいいか、ストレートがいいかレモンがいいかミルクがいいか、全っ然変わって来るんだからな! それに、淹れる水の種類が硬水か軟水かでも、大きく変わって来てっ――!」
「あ~、もういい。めんどくさい。別にあたし、市販の奴で充分だし」
溜息をついて投げ遣りに言う千紗に、眞祥が血相を変えて噛み付いた。
「なっ! いいか千紗、あれは紅茶じゃない! 断じて紅茶とは認めないぞ、俺はっ! あんなのは紅茶『風』飲料だっ! 香気も味もあったもんじゃないぞ!」
「は~あ~。もう好い加減にしてよ。あんた、目的忘れてるでしょ?」
千紗に呆れたように睨まれて、眞祥は少したじろいだ。
「…………だったら、お前が進めろよ。そもそも俺は、お前に協力しているだけであって、本命はお前だろう」
「ま、確かにそうなんだけどさ。そっちの方向に話を持ってけなかったのって、眞祥のせいじゃん」
千紗は頬を膨らますと、溜息をついた。
「まあ、いいけどさあ……」
「いいのっ?!」
由梨亜が思わず声を上げると、初めて咲達は由梨亜の存在に気付いたのか、大きく目を瞠った。
だが、その後の反応は違った。
咲は、何故彼女がここにいるのかと訝しみ、咲の兄は由梨亜が誰なのかと不快を示し、咲の両親はぎょっとして顔を強張らせた。
「ん? だって進まないじゃん。いつものことだし」
「いつものことって……」
由梨亜が脱力して呟くのを気にも留めず、千紗は肩から下げていたバッグの中からファイルを取り出した。