第三章「秘密」―2
あれこれ書くと、ネタばれになってしまうので、これだけ。
千紗、法律違反してませんからっ!!(予防線)
千紗は、いつもの定席からそっとお嬢様の様子を窺った。
幸い、普段と何も変わりはない。
いかにも高そうな服を身に付け、真っ直ぐと背筋を伸ばして教師の話を聞いている。
その椅子に座っている面積は少なく、隣で退屈そうに髪をいじっている咲のように、背もたれに寄っ掛かったりなどはしていない。
いかにも、清楚な意味での『お嬢様』だ。
千紗はそれに呆れながらも感心するとともに、ほっと小さく溜息をついた。
昨日は、きっと気付かなかったのだ。
だって、あともう少しなのだ。
あとちょっとで、自分の望みは達成される。
だからこんなところで、しかもあんな予想外なところからは、決して邪魔をされたくなかった。
――時間が経つのは、早い。
ぼんやりとしているだけで、あっと言う間に昼になり、放課後になり、人がいなくなる。
千紗は溜息をつくと、自分の荷物を鍵付きのロッカーに放り込み、掃除道具を取り出した。
千紗が掛けたその南京錠は、昔ながらのダイヤル式だ。
今は、小型ながらも生体認証の付いた南京錠も存在するが、技術があれば、そんな物はすぐに解除されてしまう。
小学生の彼らにそんな技術があるとは思えないが、相手は貴族だ。
……つまり、金がある。
今、彼女はお嬢様に取り入るので精一杯だが、ふと思い付いて、鍵を解錠して悪戯しないとも限らない。
だったら、生体認証も何も付いていないただのダイヤル式の南京錠を使い、毎回毎回暗証番号を変えればいい。
何しろ、暗証番号を変えるのはタダなのだし、簡単に変えることもできる。
おまけに開けられる可能性は低くなるし、そうすれば安価で済む。
実に、小学生の懐と千紗の事情に優しい作りだ。
(……でも、時々開けられるんだよなぁ……。何でだろう。あたしって、そんなに分かりやすいのかな? これでも、一応法則性は作らないで、気分で変えてるんだけど……)
所詮は、いたちごっこだと、千紗にも分かっている。
この悪循環をやめさせるには、大財閥のお嬢様が転校して来たことだけでは、充分ではないのだ。
……大本を、絶たなければならない。
(だから、その為にも、あたしは――)
ガラリ、と扉が開いて、千紗は思わず飛び上がった。
(まさか、こんな時間まで、人が残ってるなんて……)
振り返ると、赤い夕焼けの中に、千紗と同じくらいの背の子が立っている。
それを見て、千紗は思いっ切り顔を顰めて舌打ちを洩らした。
こちらからだと、逆光になっているせいでよく顔が見えない。
けれど、その高そうな服装と、手間の掛かっていそうな髪型。
そして、ヨーロッパ系の血がどこかで入っているのか、アジア人離れしたミルク色の色白の肌と、彫りのしっかりとした――つまり、はっきりとした顔立ちは見て取れた。
そして、こちらからだと逆光だということは、向こうからだと順光だということだ。
彼女からは、千紗が彼女の訪れを歓迎していないことがよく見えただろう。
けれど、それを全く気にした様子もなく、そのお嬢様は、小首を傾げた。
「こんにちは、彩音さん。やっぱり、放課後に毎日貴女が掃除をしているって噂、本当だったのね」
「……あんたは、何しにここに来た訳?」
「私、忘れ物しちゃったのよ」
そう言うと、お嬢様は今日使っていた机に近付き、明日提出しろと言われていた宿題を取り出した。
「ほら、ね?」
そう言って邪気なく微笑む彼女に、千紗は顔を顰めた。
あの初日以来、彼女は何もしてこなかったから、正直油断していた。
けれど、それは甘かったとしか言いようがない。
何故なら、
「あんた……絶対に、わざと忘れ物したでしょ? 自分のせいだからって言って、周りにいる『取り巻き』とか『お付き』の人を付いて来させない為に」
「あら? 何のことかしら? よく分からないわ」
彼女は首を傾げてみせたが、その目には悪戯の色が――それも、成功した誇らしさと、満足そうな色がある。
絶っ対に、確信犯だ。
それ以外にはあり得ない。
けれど千紗は、こういうタイプが――実は、苦手ではない。
むしろ、好きな方だ。
何故なら、本来は千紗だってそういう属性なのだ。
もし彼女が貴族のお嬢様でなければ――彼女と自分は、仲のよい友達になっていたかも知れないのに。
一番気の合う、それこそ一生でも付き合えるような、真の意味での友情を、築き上げることができたかも知れないのに。
そう考えると、ちょっと惜しいような気持ちが浮かび上がって来る。
けれど、それを認めることはできない。
千紗が貴族を憎むのは、それ相応の理由があり、その理由の為に、千紗は由梨亜に近付くことができない。
だから、惜しいなんて思うこと自体が、間違っているのだ。
結局自分はただのしがない庶民で、彼女は大貴族のお嬢様。
この間には、決して越えることのできない、絶対的な壁がそびえ立っている。
だから、これは仕方のないことなのだ。
彼女と自分は、一生、決して相容れることはない。
千紗はそう思って、深い溜息をついた。
由梨亜は、目の前の少女に盛大な溜息をつかれて、思わず眉を吊り上げた。
そして、ふと思う。
(私、一体何回、彩音さんに溜息をつかれているのかしら……)
……思わず反射的に回数を数え掛けるが、何となく虚しくなってやめた。
そんなこと、数えるだけ馬鹿らしい。
由梨亜は何とか気を取り直して、
「ちょうど良かったわ。私、貴女に訊きたいことがあったのよ」
そう言ってにっこりと微笑んだが、顔中の筋肉を総動員して、引き攣らないように精一杯気を付けた。
何しろ目の前の彼女は、
『何を白々しい』
とでも言わんばかりの、醒め切って冷え切った視線で見詰めて来るのだ。
これで、少しでもひるまない方が可笑しいほどに、彼女の雰囲気は寒々しく、迫力に満ちている。
正直に言って――……恐怖だ。
だが、何とか微笑みを維持し、千紗に問い掛けた。
「彩音さん。貴女、この前の週末に東京にいなかった?」
「……それが、どうかしたの?」
はぐらかすようなその態度は、確かにいたと認めているも同然だ。
由梨亜は確信を深めると、更に問い詰めた。
「どうして貴女、たった一人でいたの? 親と一緒とかなら、まだ分かるけど……。それに、私達は子供だわ。そう簡単に東京へ行けるお金なんて、そうそう持ってるはずがない」
「ふ~ん。ま、そうだよね。でもさ、お年玉とかお小遣いとかをこつこつ貯めてけば、ここから東京まで普通に往復できるじゃん。一人で東京観光に乗り出すなんて、子供らしくはないとはしても別に不自然じゃないし。だって、普通に観光しても余裕で日帰りできる距離なんだよ? だったら、何にも可笑しいことはないと思うけど。それに、あんただって知ってるでしょ? あたしがクラスで孤立してるの。第一あんただって、あたしと喋ってるところがばれたら――」
「…………でも、二日もいたわよね?」
由梨亜の鋭い眼光に見詰められて、初めて千紗は、狼狽えた様子を出した。
「……二日もいちゃ、悪いの?」
「それだけじゃないわ」
語尾と半ば被さるように、由梨亜が畳み掛けて言うと、千紗は怪訝そうな顔になった。
「最初に会った時は、何にも思わなかったわ。私も、あの時はそれどころじゃなかったし。……でも、こうして転校して来て、貴女に無視されて……。それで私、分かったことがあるのよ」
「……何?」
「普通、誰かと道を擦れ違った時とかって、無視するわよね? 一々挨拶なんかしてたら、いつまで経っても進まないから。特に、常に人が絶えない都会なんかじゃ、そんなことは当たり前だわ」
「……そりゃあそうでしょ? まあ、知り合いがいたら別だけどさ……」
「ええ。そうよね。知り合いがいたら、別よね」
由梨亜は意味深な含み笑いを浮かべた。
そして、訝しげに眉を寄せる彼女に向かって、ある人物の名前を告げた。
「藤城恭興」
ぴくりと肩を揺らす彼女に、由梨亜はにっこりと笑い掛けた。
「やっぱり彩音さん、貴女、この人と知り合いなのね? 藤城家は、うちの親戚の中流貴族なのよ。確か、母方の祖母の実家、だったかしら? 彼は、私の母の従兄なのよ。だから、親戚一同での集まりにも時々呼ばれるし、この前だって、曾お祖父様である藤城グループの会長の、傘寿のお祝いでお会いしたばかりだわ」
「ふ~ん、遠い親戚なのに、結構なことで」
千紗は適当に言って目を逸らしたが、挙動はどこか落ち着きがなく、目線も定まっていない。
「まあ、そういうのが貴族だからね。……だから私、恭興小父様の奥様も、娘さんも知っているのよ?」
由梨亜はそう言うと、笑っていない目で千紗を見詰めた。
「だから、そのことに気付いた時には、とっても驚いたわ。――確か、去年の秋頃、だったかしら? 貴女、恭興小父様と一緒にいたわよね? それも、普通に道を歩いてた。私、その時友達と一緒に買い物に出ていたんだけど、貴方達と擦れ違ってとても驚いたわ。恭興小父様くらいの年齢の方が、私達の年齢くらいの子と一緒にいるって、親子関係を疑って当然よね? 離れていても、せいぜい甥っ子姪っ子くらいのものよ。そして、恭興小父様とそういう関係にある子なら、私、全員知ってるのよ。でも、その時擦れ違った子を、私は全く知らなかった」
由梨亜は、最後通牒を突き付けるかのように言った。
「何故、貴女は小父様と一緒にいたの? 時期的に考えると、咲が転校して来たのは去年の初夏。そして、彼女の性格を考えたら、貴女がいじめられ出したのも、きっとその頃よね。……だったら、どうして貴女は貴女の嫌いな貴族と一緒にいたりしたの? それに、きっとあの時が最後じゃないわよね。この前、擦れ違った時だって――本当は、会ってたんでしょう? 誰か、貴族と。下手をしたら、貴女、また恭興小父様とお会いしていたのかも知れないわよね? 私がそう疑っても、当然だと思わない?」
「……それが、何? あんたと関係ないでしょう?」
千紗は、疲れたように溜息をつく。
「関係ない? そんなことはないわ。恭興小父様は私の親戚よ? 貴女の目的は一体何? どうして小父様に近付くの?」
「…………あたしの、目的の為よ」
「その目的って?」
由梨亜が重ねて問い詰めると、千紗は呆れたように溜息をついた。
「……あたしに、そこまで話す義務がある? あたしは、貴族の言い成りになるのが、大っ嫌いなの」
千紗は吐き捨てると、踵を返した。
これ以上、話してはいられないと思ったのだろう。
「待って、彩音さん! 貴女――小父様に近付いて、何をしているの? ……それだけは、答えて頂戴」
由梨亜の気迫が伝わったのか、千紗は少しだけ振り返る。
「……別に、あんたには関係ないことよ。ただ――ちょうどいいのよね。それくらいの年代の人って」
由梨亜が片眉を吊り上げると、千紗は意味深な笑みを浮かべた。
「そのくらいの年代の人にとっても、あたしくらいの年齢だとちょうどいいんだよね。……ま、欲を言えば、もうちょっと上の、中高生くらいがいいみたいなんだけど」
「彩音さん、貴女――」
由梨亜は、絶句した。
その言い方では、まるで――
「あ、それと」
千紗は、戻し掛けていた体を反転させ、歩きながら告げた。
「別に名字で呼ばなくてもいいよ? まだるっこいし。名前で呼んで。あたしの名字は珍しいから、誰か別の人と被る心配だけはないけどさ、名字だと別の人を呼ばれてるみたいで、なんか嫌なの。子供の頃から、名前で呼ばれてたから」
それだけ言って立ち去ろうとする千紗に、由梨亜は思わず手を伸ばす。
だが、不意にその手は引き止められた。
振り返ると、確か、クラスの男子だったと思われる少年が、由梨亜の手を掴んでいる。
「……離して」
「嫌ですね」
ふっと笑みを浮かべたその顔すら、今は憎らしい。
「離しなさい! 私は、彼女に聞かなければならないことがあるのよっ!」
「無理ですね。あいつは話しませんよ。……それに、まあ、別に離しても構いませんが――」
彼は、いきなりぱっと手を離した。
そのせいで、全力を籠めていた由梨亜は、思わずよろめく。
「もう、無駄ですよ。あいつはもうここにはいません。少なくとも、ここから視認できる範囲には」
由梨亜が振り向くと、確かに、千紗の姿はどこにもない。
「貴方……」
由梨亜が言葉を濁らせると、少年はくっと黒縁眼鏡を押し上げる。
「ご存じないのでしょうね? 僕は東風上眞祥と申します」
「コチガミ……? 随分と、珍しい名字なのね」
「ええ、よく言われます。何でも、広島の方の名字らしいですよ? 確かに、言われてみれば、あちらの方には親戚もいますし。まあ、大抵は一発で顔と名前を憶えてもらえるので、僕としては得なのですけれど、ね」
眞祥はそう言って小首を傾げたが、その眼鏡の奥の瞳は――笑っていない。
「……貴方は、一体誰なの?」
由梨亜が呟いた言葉に、眞祥は意味深な笑みを浮かべた。
「何でもありませんよ? 僕は、ただの貴女のクラスメイトです。ただ――」
眞祥は、不意に表情を消す。
そうすると、何故か不気味さが際立って、少々恐ろしい。
「あいつに深入りするのは、金輪際やめた方がいい。第一、あいつはガキじゃない。自分で全部分かって、いざと言う時の責任は自分が取って、周りの人間に迷惑を掛けないようにしようと、たった一人っきりで頑張っているんだ。……放っておけ。本人も、そんなことは望んじゃいない」
「……それは……彼女にも、言われたわ」
「だったら尚更だ。本条さん、貴女がやっていることは、ただの過干渉なんだ。これ以上付きまとわない方がいい。……貴女がもし貴族じゃなかったら、話は別になるんだけどな。世の中って、上手く回らないよ」
眞祥はそう言い残すと、夕陽から夕暮れに変わり掛けた光が差し込む教室を出て行った。
弱くなった陽が差し込む教室に、由梨亜は、ただ一人で立ち竦んでいた。