第三章「秘密」―1
次の日から、千紗には日常が戻って来た。
平日は学校に行き、淡々と授業を受け、真っ直ぐ家へ帰って閉じ籠もる。
あのお嬢様も、思ったよりは動きがなかった。
それに、咲からのいじめも少なくなった。
お嬢様はあまり咲のことが好きではないようで、その扱いはどこかぞんざいでおざなりだ。
だからなのか、それとも彼女が高位の貴族だからなのか、咲が彼女のご機嫌を取るのに必死になっているお蔭で、いじめる暇がなさそうなのだ。
おまけに、そうやって四六時中咲が付き纏っているお蔭で、千紗はお嬢様のことを余裕で避けられるし、彼女の方から近付いて来ようとしても、貴族至上主義で平民侮蔑主義な上に千紗を嫌っていじめまでしている咲が、あっと言う間に彼女を止めてくれる。
これは、あのお嬢様が転校して来て得た唯一の成果だろう。
千紗は、ほっと息をついて空を見上げた。
自分の家がある町とは違って、この都会は空気が淀んでいる。
雑踏の中に埋もれていると、汚れた空気に体中を汚染されて、安穏として全てを忘れてしまいそうだ。
でも、それは駄目だ。
(何の為にやってると思ってるの? 忘れちゃ駄目。忘れたら、あまりにも可哀想だわ……)
千紗は、唇を噛み締めて駅へと歩いた。
今日は日曜日の午後だから、やたらと人が多い。
気を抜くと、進みたい方向とは別の方向に持って行かれそうになったり、真っ直ぐ歩いているつもりが蛇行してしまったりすることもままあるのだ。
特に、子供の千紗は大人よりも二十センチは背が低いので、その分人混みに流されやすいのだろう。
千紗は苛立ちながら唇を噛み、できるだけ真っ直ぐ歩いていたが、ふと――視界に一人の少女の姿が映り、千紗は顔を引き攣らせた。
確かに、ここは大都市・東京だ。
彼女はここの出身だから、今東京に来ていても、全く不思議ではない。
けれど――
(何て、間の悪い!)
千紗は、思わず歯噛みした。
何故なら、彼女のような『お嬢様』が、車も使わずに歩いているのだ。
しかも、千紗のいる方向に向かって歩いて来ている。
普通に考えたら、まずあり得ない。
もしあり得るとしたら、千紗がうっかり彼女の家の近くにいるか、彼女が車で千紗が歩きで擦れ違うくらいだろう。
けれどこの場合、その二つは当てはまらない。
本当に、何て運が悪いのだろう。
こんなこと、予想もできなかった。
千紗は深い溜息をつくと、帽子を深くかぶった。
千紗は頻繁にこちらに来ているから、ここでお嬢様に向かって背を向けても、道に迷わないで駅に着く自信はあるし、それくらいは余裕でこなせる。
だが、そうやって遠回りすると、予約した電車の時間には間に合わなくなるのだ。
確かに、その後の電車に乗ればいいのだろうが、生憎ここは、そう気軽に行き来ができるような距離にはない。
一本でも乗り過ごせば、その後の乗り換えの電車が狂ってしまい、結果的に家に着くのは遅くなってしまう。
まあ、母親は休日出勤しているから、遅く帰って来ても叱られることはないだろうが、あんまり遅い時間に外に出ていると――そう、千紗の年齢だと、七時くらいに外にいると、警官に補導される可能性が高いのだ。
それは、面倒臭い。
非常に、面倒臭い。
第一、そんなことになったら親にも連絡を取られることになるし、そうしたら、ただでさえも忙しい母親の時間を削ることになってしまうのだ。
仕方がないから、ばれないようにするしかない。
(ああ、もう……面倒臭い)
幸い、彼女が転校して来た初日以外、言葉を交わしたことはない。
時折物言いたげにこちらを見ている視線は感じるものの、周囲の人間が邪魔なせいで言葉を交わすまでには至らないのだ。
だから、それに賭けるしかない。
(それもこれも……全部、あいつのせいだっ!)
千紗は、心の中で八つ当たりをしながら早足になった。
「あら……?」
由梨亜は、ふと振り返った。
そこにあるのは、ただの雑踏だけだ。
「由梨亜? どうかしたのか?」
耀太が由梨亜を見下ろして言ったが、由梨亜は小さく首を振った。
「あ、いえ……多分、見間違いだと思います。だから、大丈夫です」
「そうか。ならばいいが……」
由梨亜は、もう一度だけ、横目で後ろを見た。
(やっぱり、見間違いなんかじゃない……。あれは、彩音さんだわ。どうして、こんな所に……)
由梨亜は、本当は来年に引っ越してくる予定だった。
だが、初等部の三年になった時に、六年になったら引っ越すと聞いて、それを早められないかと頼んだのだ。
結果、半年以上予定を早めることができたが、その引っ越しは慌ただしく、こちらにも色々と残して来てしまった事物があるのだ。
今日はそれを回収する為に来て、ついでに街を歩いて買い物がしたいと父におねだりをして、こうして雑踏の中を歩いていたのだが――
(でも、まさか……初等部の五年が、勝手にこんな所まで、来れるの? 交通手段としては、可能だけれど――お金とか、色々掛かるだろうし……)
幸い、明日は平日だ。
つまり、学校はある。
由梨亜にたかる人集りと、向こうがこちらを避けまくっているせいで、学校では――少なくても、他に人のいる授業の前後では決して話せないだろうが、彼女が放課後に一人で掃除をしていることを、由梨亜は既に突き止めていた。
だから、その時間まで残って、彼女を捕まえて話を聞き出す。
由梨亜は、小さく拳を握り締め、自分に気合を入れた。