第二章「初登校」―2
由梨亜は、担任の教師が振り返るのと同時に、少し深呼吸した。
数日前に会った、あの名前も分からない少女――彼女は、『多分同じクラスになる』と言っていた。
だから、このクラスの中にいるのかも知れないのだ。
由梨亜には、彼女が言っていたことの意味がさっぱり分からなかった。
どうしても、納得がゆかなかったのだ。
だから、できれば本人の口から、その意味を聞きたかった。
彼女が自分を嫌っているのは、あの短い会話でも分かった。
だが、彼女が由梨亜を嫌うその理由は、由梨亜の性格でも見た目でもなく、由梨亜の身分なのだ。
だったら、ちゃんと話し合えばきっと分かってくれるし、仲良くもなってくれる。
由梨亜は、そう信じていた。
でも――由梨亜は、転校するのは初めてだし、由梨亜の通っていた学校は、皇族も通うような正真正銘のお嬢様学校だ。
そんな学校に転校生など、ほとんど来る訳がない。
勿論、何人かは転校して来ていたはずだが、彼らは由梨亜と違うクラスになっていたので、由梨亜にとって、『転校生』という存在は非常に遠いものだったのだ。
だから、由梨亜は酷く緊張しながら――けれど、見掛けはゆったりと落ち着き払い、教室の中に足を踏み入れた。
教室を見渡すと、驚くことに、生徒達はてんでんばらばらに座っていた。
どうやら、ここでは席が決まっていないようだ。
特に、教室の後ろの出入り口の辺りは、一人しか座っていない。
由梨亜は、ほんの少し目を瞠った。
そこに座っているのは、この前会ったあの少女だ。
奇しくも、彼女が言ったことが事実になった、そういうことだろうか。
由梨亜は、ざっとクラスを見渡して会釈した。
「初めまして。私は本条由梨亜です。東京から来ました。宜しくお願いします」
「え、えー、では、お好きな席に、どうぞ……」
どこかおどおどとしている担任に、由梨亜は思わず眉を寄せた。
先程から思っていたが、どこかこの担任は可笑しい。
それに、由梨亜は転校して来たばかりだし、『好きな席にどうぞ』と言われたって、どうすればいいのかも分からないのだ。
由梨亜が躊躇っていると、生徒の中の一人が立った。
「由梨亜様! どうぞ、こちらへお越し下さいな!」
その声の主を見て、由梨亜は驚愕に目を瞠った。
「え……貴女、まさかっ……」
「はい。咲です。並樹咲にございます、由梨亜様。本当にお久し振りですわね。どうぞ、こちらへ。あたくしが、色々と説明を致しますわ」
咲はそう言うと、近くに座っていた女子を睨んだ。
それに、その少女は怯えたように首を竦めると、そそくさと席を移動した。
由梨亜は、思わず唇を噛み締める。
こんな――こんなことなら、ここに転校して来なかった。
咲の申し出を断るのは、本当に簡単だ。
でも、このクラスの様子を見ると、リーダーは咲なのだろう。
転校して来たばかりなのに、クラスと軋轢を起こすのは良策ではない。
由梨亜は、渋々とその少女が空けた席に腰を下ろした。
「由梨亜様、学生証はお持ちですか?」
「……これのこと?」
「はい。そうですわ。それを、机のこの部分に差し込んで下さいまし。これで、出席の確認ができるのですわ」
「……そう」
由梨亜はそう言うと、眉を寄せたまま、前を向いた。
担任の話が、続いているのだ。
その声はぼそぼそと小さく、よく耳を澄まさなければはっきりとは聞こえなかったし、そもそも担任の様子そのものが不快だったが、由梨亜は咲と話しなんてしたくなかった。
だから、より嫌な方である咲を無視したのである。
咲は、それでもまだ話し足りなさそうな顔をしていたが、由梨亜の毅然とした態度に諦めたのか、口を噤んだ。
だが、髪をいじったり、視線を窓の外にやったり、どうも担任の話を聞く気が端からないようだ。
由梨亜は、思わず零れた溜息を押し殺した。
初っ端からこれで、本当に大丈夫なのだろうか。
それに、このクラスの雰囲気は、どうも可笑しい。
クラスにリーダー格の人間がいるのは当然だが、それにしては、咲の裁量権が大き過ぎるような――担任までにも、その影響が及んでいるような気がするのだ。
由梨亜は、別の小学校にすれば良かったと、早くも後悔を始めていた。
昼休み、由梨亜は咲を誘って外に出た。
何も知らないクラスメイトの前で、会話をする気にはなれなかったのだ。
「咲、貴女、ここに転校していたの?」
「はい、由梨亜様。確かに今は、こんな下民だらけの学校に通っておりますが、中学からは違いますわ。中学は、れっきとした私立の学校に通う予定ですのよ。あ、由梨亜様も――」
「悪いけど」
由梨亜は、冷徹な声でそれを遮った。
「由梨亜様……」
「咲。貴女、何があったのか、忘れたの? たったの一年前なのに。――いいえ、まだ、一年も経っていないわ」
由梨亜に見据えられて、咲は居心地悪そうに身じろぎした。
「それは……」
「私は、貴女を許さないわ」
「由梨亜様!」
追い縋ろうと伸ばされた咲の手を、由梨亜はぴしゃりと叩いた。
「貴女がやったことは、最早犯罪よ。いくら向こうの身分が高いからって、それは捏造でも何でもなくて、紛れもない事実よ」
悔しげに唇を噛み締める咲に、由梨亜は憐れむように言った。
「貴女だって、彼女の身分を知らなかった訳じゃないでしょ? なのに、貴女はそれをやった。……退学だけじゃ飽き足らずに、東京を追放されたのも無理はないわね。しかも、その追放された先で、またおんなじことをやろうとしてるの? ……いいえ、もうやっている、ってレベルかしらね」
「……ですが、由梨亜様。彼らは人間ではないのですよ? ただの下民ですよ? あたくし達が奴らの上位に位置するのは、紛れもない事実ですわ。奴隷を扱き使って、何が悪いと言うのです?」
由梨亜は、思わず嘆息した。
「ふ~ん。その理屈で言うと、イギリス州の陛下が、ただちょっと気分がむしゃくしゃするからって貴女の親を撃ち殺しても、貴女には何かを言う資格はない、むしろ、『偉大なる陛下の御手に掛かって死ぬことができたのですから、両親も大変光栄でしょう』と褒め称えなきゃならないんじゃない?」
「いっ……いくら何でも、飛躍し過ぎですわ!」
「そう? 私は、至って普通だと思うけど」
由梨亜に見据えられて、咲は唇を噛んだ。
「そう言えば……教室の、一番後ろにいた子、一人でいたのは何故? 貴女は、その子をいじめてるの?」
その言葉に、咲は睨むように由梨亜を見上げた。
「ええ。確かにそれは否定しません。ですが、由梨亜様が気に掛ける価値もないような奴ですわ」
「何故?」
「あいつには、貴族が絶対、貴族が優位という世の中の条理が理解できていませんもの。あれでは、社会に出てもやって行けるのかどうか。ですから、あたくしが指導を付けてやっているだけのことですわ」
「いじめが? いじめが指導なの? それって、可笑しくない?」
「いいえ。下民には相応しい扱いですわ」
咲はそう言って踵を返し掛けた。
「待って。咲」
「……何か?」
訝しげに振り返った咲に、由梨亜は端的に問い掛けた。
「貴女がいじめている、その子の名前は?」
「……彩音千紗、ですわ」
「彩音、千紗?」
「はい」
「ありがとう、咲」
由梨亜はそう言うと、今度は由梨亜の方が踵を返した。
放課後になったのに、教室には随分と多くの人が残っていた。
転校して来たばかりのお嬢様のことが気になったのだろう。
だが、毎日掃除をしている千紗にとっては、邪魔でしかなかった。
勿論、掃除なんかサボって帰ってもいいのだ。
――しかし、そうすれば、それがばれた後の方がきつい。
千紗は、自分の心が限界に近付いて来ているのを感じていた。
だから、無闇に軋轢を起こすよりも、譲れるところは譲った方が自分の精神安定上いいと思って、咲に言い返しはしても、大人しく掃除をしているのだ。
でも――どうせ、一日くらいサボったってばれないだろう。
千紗は溜息をつくと、廊下に出た。
まだ青い空が、実に清々しい。
クラスメイト達も、お嬢様のことが気になってか、今日はちょっかいを出して来なかった。
千紗はそのまま真っ直ぐ家に帰ろうとしたが、そうは問屋が卸さなかったのである。
千紗が、まさに家の前に着いて、生体認証で家の鍵を開けた時だった。
「貴女、ここに住んでいたのね。彩音さん」
その言葉に、千紗は驚くべき速度で振り返った。
そして、自分の背後にお嬢様がいるのを認めると、鋭い舌打ちを洩らした。
「……何で、あんたがここにいる訳? あたし、関わるなっつったでしょ」
「ええ。でも、その理由が、よく分からないわ」
小首を傾げるその姿に、千紗は遠慮なく顔をしかめた。
「……あんた、ほんっと馬鹿なの? って言うか、どうやってここまで来た訳?」
「付けて来ただけよ」
「…………」
千紗は、あまりの馬鹿さ加減に走った痛みにこめかみを押さえた。
「……あんたは転校して来たばっかだし、本条家のお嬢様だし、咲とかクラスの奴らが放さないと思ったんだけど?」
「ええ。私もそう思うわ。だから、トイレに行く振りをして出て来たの」
「…………」
千紗は、益々痛くなって来た頭を押さえた。
「……んで? 何がしたい訳?」
「理由が、知りたいの。どうして貴女は、私と関わり合いになりたくないの? どうして、貴族が嫌いなの?」
「……一々、人に説明すること? それ。――あり得ない。下んな過ぎ」
千紗は吐き捨てると、扉を開けて家に入ろうとする。
「あっ、駄目、待って!」
だが、お嬢様は慌てて手を伸ばし、千紗の袖を掴んだ。
苛立った千紗は、その手を乱暴に引き離す。
すると、
「……何てことをっ!」
と、甲高い耳障りな悲鳴が上がった。
千紗が眉を寄せて、声の発生源を振り返ると、そこには真っ蒼になった女の人がいた。
恐らく、三十代前半くらいだろう。
年齢からして、このお嬢様の母親かと思ったが、そのお嬢様が苦々しく言った言葉で、彼女が母親ではないことが分かった。
「鈴南……貴女、どうしてここにいるの?」
「僭越ながら、お嬢様。学校にお迎えに上がりましたら、お嬢様がいらっしゃらなかったので、本当に心配したのですよ? 本当に、見つかって本当に良かった」
「鈴南……」
お嬢様の口調は、どこかたしなめるような感じになった。
「私、送り迎えは要らないって言ったわよね?」
「とんでもないことです、お嬢様。仮にも本条家のご令嬢ともあろう方が、運転手なしで外出するなんて、あり得ません」
「でもねぇ、鈴南――」
千紗は、比喩ではなく本当に頭痛がしてきた。
何なのだろう、この異次元世界は。
上流階級の常識は、むしろ他星系の国の常識よりも非常識に思えて来る。
千紗は溜息をつくと、そのまま家に入ろうとした。
お迎えが来た以上、これ以上お嬢様がここに長居することはないと踏んだのだ。
けれど、今度はそれを鈴南と呼ばれた女性が邪魔をした。
「待ちなさい、そこの庶民」
千紗は眉を吊り上げ、横目で振り返る。
「お前は、先程由梨亜様に何をしました? 高貴な身分である由梨亜様の腕を振り解きましたよね? これは、立派な不敬罪に当たりますよ」
千紗は、彼女にも聞こえるように、盛大な溜息をついた。
「な、何ですっ?!」
千紗は、ゆっくりと振り返り、その女性を見据えた。
「一つ、現在の地球連邦に、不敬罪と言う刑法はない」
千紗が片腕を組んで指を一本立てると、彼女はぐっと詰まる。
「二つ、不敬罪とは、王室もしくは皇室に対して用いられる刑法であり、貴族に用いられるものではない」
唇を噛む女性に向かって、千紗は三本目の指を立てた。
「三つ、不敬罪とは、王族や皇族、それに関連した物事に対して侮辱をしたり、中傷をしたり、敬わなかったり、危害を加えたりした場合にのみ用いられる刑法である。……つまり、あたしがお嬢様の腕を振り解いたくらいじゃ、たとえこのお嬢様が皇族だったとして、不敬罪が今も存在していたとしても、あたしを罪には問えない訳。……それじゃあ」
千紗は、半ば呆然としている二人を置いて家の中に入ろうとしたが、ふと思い付いて振り返った。
「そうだ。……あんた、お嬢様のことが大事なんでしょう? だったらちゃんと見張っといてよね。あたしと関わってもいいことなんか一個もないから、ちゃんと管理しなよ? あたしだって、貴族と関わり合いになんかなりたくないんだから」
にっこりと笑って言い放つと、千紗は今度こそ、二人の鼻先でドアを閉めた。
由梨亜は、布団の中に潜り込んで深い溜息をついた。
今日は疲れたから、九時には部屋に戻ったのだ。
でも、何だか妙に目が冴えて、しばらくは寝付けそうにない。
由梨亜は寝返りを打って、天井を見上げた。
千紗とのことは、鈴南を何とか宥めて、両親には何も言わなかった。
言えば、千紗を退学にさせるに決まっているのだ。
それにしても――
由梨亜は、きつく唇を噛み締める。
まさか、並樹咲がこの学校にいたとは、思わなかった。
父や母には、詳しいことは言っていない。
けれど、並樹家の令嬢である咲のことは、特に日本州の一部の上流階級では、ブラックリストに載ったような危険人物扱いになっている。
それ自体は自業自得だし、由梨亜も同情していない。
何しろ、咲が『追放』されるようになった原因は、由梨亜の幼馴染みとも言える、由梨亜よりも身分の高い少女が関係しているのだ。
それに、由梨亜が前の学校を転校したかったのも、咲がいたからだった。
なのに、また同じになるなんて――最悪だ。
由梨亜は、また溜息をついた。
今日はとても疲れたし、最悪なことだらけだ。
これから、この学校で上手くやって行けるのだろうか。
由梨亜は、少し不安を覚える。
とにかく、一般的な転校生の生活を考えると、その中でも最悪な方に入る転校初日だっただろう。