第二章「初登校」―1
「うわ、来たよ」
「え~、何でくんだよ」
「キモっ!」
「うっぜぇ」
「っつうか、何でヘーキで学校来れんの?」
「神経通ってないんじゃない?」
「うっわ、人外かよ!」
「いや、むしろ、俺らの言葉分かってねぇんじゃね?」
「あ、なるほど! 頭いいねぇ」
「確かに。それは納得するかも」
「え? 耳が聞こえないってこと?」
「ば~か、ちげぇよ」
「そうよ。耳が聞こえないって意味じゃなくって、あたし達の言葉が理解できてないって意味!」
「あ~、そういうことか。納得~」
「はは! そこまで言っちゃうかよ!」
「え~、だってそうじゃん!」
ざわつく教室には目もくれず、千紗は出入り口に近い席に腰を下ろした。
このクラスでは、生徒の席が決まっていない。
特にディベート形式の授業の時は、積極的に意見の交換・発言ができるように、着席は自由なのだ。
席が固定されるのは、テストの時だけだと言える。
遠回りに、それでいて千紗に聞かせるように陰口を叩くクラスメイトに、千紗は表情一つ変えなかった。
ふっと視線を巡らすと、一人の女生徒と目が合う。
千紗が見詰めていたのは、ほんの一秒だけ。
けれど、それだけでその少女は、慌てて目を逸らした。
千紗も目を逸らして、廊下の方をぼんやりと眺める。
……その少女は、千紗の幼馴染みだった。
家も歩いて十分ほどしか離れておらず、小学校に入った時からずっと仲良しだった。
でも、そんな友達ですら、今では千紗をいじめる側に入っている。
千紗は、皮肉な笑みを浮かべた。
友情なんて、脆いものだ。
こんな小学生でも、権力に全てが押し潰される。
そんな混沌とした教室に、一人の少女が入って来た。
千紗が先日会った、本条家の令嬢と似た服装をしている。
つまり、高級そうな服装だ。
けれど、彼女とこの少女の間には、決定的に違う点がある。
それは、本条家の令嬢は優しげで親しみやすい雰囲気だったのに対して、この少女は高慢そうで偉そうで、とにかく貴族らしい雰囲気だという点だ。
その少女は、平然と座ってこちらを睥睨する千紗に気付くと、大袈裟な悲鳴を上げた。
「んまあっ! 何ていうこと!」
ぐらりとよろめくその仕草も、何もかもが芝居めいている。
「あ、咲様!」
「大事ありませんか?」
「どうなされたのですか?」
「どこか、具合でも?」
途端に、クラスメイト達が咲に群がる。
咲は、その中でも最も顔のよい男子の手を借りて立ち上がると、何とも儚げな笑みを浮かべた。
「ええ。大丈夫ですわ。――眞祥、礼を言うわ」
「いえ、並樹様がご無事なら、何よりです」
眞祥は、微妙に顔を引き攣らせながら言った。
確かにこの眞祥は、かなり顔がいい。
将来、芸能人やモデルになりそうだ。
けれど、咲は違う。
そこそこの顔、平凡でしかない。
千紗はそれなりに関わって来ているから知っているが、この眞祥は、自分の周りの女子だけでなく男子にも、『綺麗でいること』を求めるのだ。
だから、どんなに性格が良くても、綺麗でない人には近付きもしないし話もしない。
いじめこそはしないし、話し掛けられれば答えるが、自分から話し掛けることは決してない。
いい意味でも悪い意味でも、とにかくプライドが高いのだ。
自分の友達となる男子ですらその扱いだから、女子ともなると、彼のお気に召す人物はほぼいない。
しかも、ただ外面が綺麗なだけでは駄目で、中身も彼の気に入る人物でなければならないのだ。
だから、昨年までの彼ならば、咲と話すことも、こうして手を貸すこともなかっただろう。
実を言うと、眞祥は、咲を気に入っている訳ではない。
もし咲を拒否すれば、自分が退学する羽目になって、家族にも危害が及ぶ。
それを分かっているから、眞祥は大人しくしているのだ。
咲のことを、名前ではなく姓で呼ぶのは、眞祥のささやかな抵抗だ。
けれど、咲はそれを気付きもしない。
「ねえ、眞祥。貴女になら、あたくしの名前を許すと、何度言ったら分かるの? 並樹なんて名字じゃなくって、咲って、名前で呼んで? 様も、貴方だったら付けなくっていいって、何度も言ってるでしょう?」
そう言って眞祥の腕に自分の腕をからめ、上目遣いに見上げる。
だが、眞祥はすっとその腕を外した。
今まで(それこそ幼稚園児の頃から)何度もこういうことを経験しているだけあって、動きは実に滑らかだ。
「いいえ、僕は男ですから、そこまでは……。謹んで遠慮します、並樹様」
そう言ってふっと笑い、咲の髪を一筋掬い上げ、そっと唇を落とす。
黒縁の伊達眼鏡の上から、そっと咲を見上げるその仕草は、到底小学五年生とは思えない。
まるで、一流ホストだ。
咲も、それにくらくらして、目はうっとりと潤み、頬は赤くなる。
だが、はっとしな垂れかかっていた体を起こし、千紗を睨んだ。
「ついつい、忘れるところでしたわ。まあ、このあたくし直々に気を掛けられる下民なんか、そんなにいませんから、光栄に思いなさいな」
「あら、それは光栄に――」
千紗は軽く首を傾げると、思いっ切り蔑んだ表情を浮かべる。
「って、素直に言うとでも思った? 馬鹿が」
「なっ……!」
咲の顔に血が昇る。
だが、今までの約一年間で、口では千紗に勝てないと知りぬいている咲は、周囲に当たり散らした。
「だから、言ったでしょう! 今日だけは、何があっても、絶対に、この下民を近付けてはならないと!」
逆切れして喚くのを相手にするのは、本当に大変だろう。
千紗は、平然とそれを傍観していた。
実際それは、千紗にとっては他人事だったのだ。
「咲様! それはっ――」
「言い訳は聞きません! どうしても、今日は来ていけなかったのに!」
だんだんと足を踏みしめる、まるで駄々っ子のような咲に、クラスメイト達はさすがに困惑した表情になった。
「あの、咲様……? それって、一体……」
「お前達は分からなくてもいいのよっ! 今からでも遅くはないわ、帰りなさい!」
鬼のような形相をする咲に、千紗は鼻で笑った。
「はっ? 何であたしがそんなことしなきゃいけない訳? 嫌。学校に来るのも来ないのも、あたしの自由でしょ? あんたなんかに指図される覚えないし」
「んなっ……!」
「っつうか、好い加減悟れば? あんたなんかがあたしに口で勝てる訳ないって。精々勝てんのは家柄くらいだし? あんた、それだけしか取り柄ないし。顔は平凡、頭は悪いじゃあ、貴族階級でもなきゃどうしようもないお馬鹿さんだよ。あ、実際に、ほんとの大馬鹿かぁ。ごめんね、忘れてた」
「なっ……!」
顔を真っ赤に紅潮させる咲を見詰め、千紗は机に肘を付いてその上に顎を載せた。
「ま、そうやって権力で人の頭押さえ付けて、お山の大将気取ってんのが、あんたにはお似合いだよ。中流貴族さん?」
わざと『中流』を強調して言うと、咲の頬に更に血が昇った。
ここが咲のウィークポイントだということは、千紗は知り尽くしている。
逆に、千紗のウィークポイントを、咲はなかなか掴めていない。
確かに、周囲の協力性や家柄、持っている権力、親の社会的地位などは、咲の方が上だ。
でも、確実に孤立させたというのに、千紗は屈することがない。
逆に、こうして反撃して来る。
事実、それは千紗の唯一の心の支えにもなっていたが、咲はそれも気付かず、更に一層怒りを募らせるばかりだった。
「何をっ……!」
「っていうか、あたし知ってるし。あんたが今日、あたしを遠ざけたかった理由なんて」
千紗があっさり言うと、今度は咲の顔から血の気が引いた。
「あ……」
咲はよろめくと、大袈裟にわななき、千紗を指で指した。
「お、お前という者は! それが何を意味するのか、分かって言ってるのっ?!」
「勿論。だって、先週会ってるし」
「会ったっ?!」
咲は益々身を震わせると、頬に血の色を昇らせる。
「何て、何て図々しいことを!」
「ったく……。別に、あたしが自分から会いに行った訳じゃないからね? あ~んなお屋敷なんて、一般庶民のあたしが好き好んで近付くとでも思ってんの? この、あたしが?」
千紗が嘲笑し、咲にそれが言い返そうとした途端、担任が教室に入って来た。
そして、教壇に立って怒りに頬を紅潮させているお嬢様と、教室の後ろで行儀悪く頬杖を付く一般庶民の図を見て、ぎょっとした表情をする。
けれど、頬杖を付いているだけでは、叱ることもできない。
そんなことをしたら、しょっちゅう叱るしかなくなるに違いないのだ。
普段は大人しい彩音千紗という人物が、いざと言う時に見せる図太さやら何やらは、この担任は嫌というほど思い知っていた。
叱るとすれば、始業時間になっても席を立っている咲達他の生徒達だが、絶対に、何があろうとも、咲だけは叱れない。
たとえ咲が法を犯したとしても、教育委員会に報告することも、警察に通報することもできないのだ。
まあ、たとえ通報したとしても、あっと言う間に揉み消されてしまうのだが。
そういうことで、担任の矛先は他の生徒達に向かおうとしたが、彼らも怒られるほど馬鹿ではない。
教室に入ってしばらく呆然としていた担任が自分を取り戻す前に、さっさと席に付いていた。
咲も、憤然としながらも席に付く。
担任は、どこか空回った気分を咳払いで誤魔化すと、教壇に立った。
そして、手元のデスクで出席を確認し、何やら曖昧に言った。
「あ~、今日は、全員出席してるな。うん、いいことだ。いいこと……」
そう言って語尾を濁らせるのは、恐らく千紗のことが気に掛かっているのだろう。
(……ほんと、こいつって優柔不断なんだよなぁ……。だから、生徒に『気弱』とか『そんなんで担任って、よく言えますね』とか、『知ってるのに見て見ぬ振りって、阿呆らしくないですか?』、『実際阿呆だし』とか、『ま、こっちも全然期待してませんけど?』、『今までの態度が物語ってますし?』とかって言われるんだよなぁ……)
……担任の教師を、ストレスの発散場としていた千紗だった。
だが、全く罪悪感などない。
優柔不断過ぎて、胃炎を起こす方が悪いのだ。
事実、咲にいじめられるようになって一年近くが経つが、千紗は、胃痛なんて食べ過ぎ以外で起こしたことは一度もないし、忌引き以外で欠席したこともない、立派な健康優良児だ。
そう思い、千紗は気分的には踏ん反り返って教師を見上げた。
……人はそれを、『責任転嫁』、『八つ当たり』とも言う。
でも、千紗が強いかと言われれば、そうではない。
ただ、意地でもクラスの人間に――特に咲に、自分の弱い所を見せたくないだけだ。
千紗は、本当は、精神的に追い詰められていた。
だが、負けず嫌いな性格が災いして、結果、他人に寄り掛かることができないだけなのだ。
担任は、しばらくもごもごと口ごもっていたが、咳払いをすると、廊下を振り返った。
「え、え~、き、今日は、転校生がいらっしゃいます……」
その言葉に、教室がざわめいた。
この担任が敬語を使うのは、自分と同じ教師や来客以外には、咲だけだ。
と、いうことは、この転校生も『貴族』だということだ。
思った通りの展開に、千紗は思わず視線を飛ばした。
咲の態度から何となく分かっていたが、できれば外れていてほしかったのに。