第一章「巡り会い」―2
その日、夕食を食べる由梨亜の落ち込んだ様子に、耀太が眉を寄せて訊ねた。
「由梨亜? 一体、どうしたんだ?」
「あ……その……」
由梨亜は、少し目を泳がせる。
「今日、少し外に出てみたんです。そこで、私と同い年の女の子に会って……」
「同い年の? じゃあ、貴女と同じ学校になるのかしら?」
母親の瑠璃が、はしゃいだように手を合わせて言った。
「ええ……そうです。でも……」
思わず俯いた由梨亜に、両親は目を瞬いた。
「由梨亜?」
「どうか、したの?」
「その……最初は、仲良くできるかな、って、思ったんですけど……。話し掛けるな、近付くな、って、言われて……」
由梨亜には、訳が分からなかった。
最初は、優しそうな子だと思った。
敬語なのが堅苦しかったけれど、表情も、声を掛ける前の様子も少し気になったけれど、きっと仲良くなれると思った。
そして、自分が貴族だと分かった時の、あの丁重な態度――少し悲しかったけれど、あれには嫌になるほど覚えがあったから、何となくは理解できた。
でも、分からないのは、その後の態度だ。
最初は丁寧で、優しそうだったのに、突然豹変した。
こちらを、少しも寄せ付けない、冷たい雰囲気になった。
言葉も――こちらを、明らかに拒絶していた。
その辺りを、辿々しく説明すると、母は柳眉を顰め、父は眉を逆立てた。
「まあ、それは……」
「由梨亜。その子供の名前は何と言う? 厳重に抗議しなければ。お前がこの本条家の娘だと知っての言葉だろう? しかも、これからお前が通う学校の同級生だと言うではないか。そのような子供は、お前の同級生として相応しくない。場合によっては、転校させることも考えなければ」
平然と言い放つ父に、由梨亜は思わず身震いした。
でも、これが『普通』なのだ。
貴族は――身分の高い人間は、その下の身分の人間が、身分差で何もできないことをいいことに、何でも強引に押し通してしまう。
耀太も、至極『当たり前』のことを言っているだけ、という意識しかないだろう。
でも、それでは――由梨亜にとって、そのままでは、わざわざ引っ越して来た意味がない。
由梨亜は、意を決して言った。
「お父様。それは、いくら何でもその子が可哀想です。確かに、その子とは仲良くなれないかも知れませんけれど、誰とでも仲良くなれる訳ではないでしょう? 前の学校でも、そうだったのだもの。偶々、あんまり仲良くなれない子と会っただけだったのに、それでその子を転校させるなんて、失礼じゃないかしら? それにここでは、引っ越して来た私の方が余所者よ。その子にとやかく言える筋合いはないわ」
真剣に見据えてくる娘に、耀太は少したじろいだ。
「いや、しかし、だな……」
「それに、私、その子の名前も知らないもの。だから、お父様にもお母様にも、お教えできません」
その言葉に、瑠璃が不思議そうに首を傾げた。
「あら? でも、由梨亜。貴女は名乗ったんでしょう?」
「ええ、お母様。ちゃんと、本名で名乗りました。でも、そうしたら……その子に、私が本条家の娘だってばれて……嫌われちゃったみたいなんです」
「そうなの……。確かに、うちが屋敷を造ってるって話は、この辺りに住んでいる人でしょう? 知ってても可笑しくないけれど……。それまでは馴れ馴れしくて、貴族だと分かったら丁寧になるのは分かるんだけど、それとは違うのでしょう?」
「はい。最初はずっと丁寧で、私が本条だって名乗ったら……その、何て言うのかしら? インギン……」
「慇懃無礼?」
「そう、それです。そんな感じで……。それで、そのまま立ち去ろうとしていたから、思わず引き止めたら、態度が乱暴になって……。だから、向こうが名乗る隙がなかったんです」
首を竦めて言った由梨亜に、それでも耀太は渋い顔をした。
「だが、なぁ……」
「貴方」
瑠璃が、隣に座った耀太の膝を叩く。
「由梨亜は一人娘ですもの。可愛いのは仕方がないわ。でも、あんまり構ってばっかりいると、由梨亜が成長できないわ」
「しかし、お前……」
「それに、ね?」
瑠璃は、少し含みを持たせた笑みを浮かべた。
「由梨亜は今十歳でしょう? 再来年には、もう中等部――いえ、庶民では、中学生って言うのかしら? とにかく、上の学校に行くわ」
「それが……何だ?」
「まあ、忘れちゃったの? 初等部を卒業して中等部になると、大抵の子は思春期で、反抗期に入るのよ。具体的に言えば、親の干渉を嫌うの」
「あ、ああ……一般的には、そう言われているが……」
「それでね、その時期に、すっごい反抗期になる子って、その親が過保護で、猫可愛がりしている場合が多いんですって」
楽しげに手を合わせて言う瑠璃に、耀太がフリーズした。
「な、何だと……?」
「まあ、そういう場合、思春期に入っても、あんまり反抗期らしくならない子もいるんだけど……。大抵は、どちらかに分かれるみたいね。私は前者だったわ」
「そうなんですか、お母様?」
由梨亜が驚いて目を瞠ると、瑠璃は笑って頷いた。
「そうよ。私の場合は、親が煩くってねぇ……。別に、進学とか進路とか交友関係とか、そういうことなら分かるのよ? でもねぇ、高等部にまで進学した子供の服とか、靴とか、部屋の小物とか、果てには下着に筆記用具にノートに……全部、私の自由にさせてもらえなかったのよ」
由梨亜は、思わず頬を熱くした。
「もう、あんまりにも干渉が激しくってねぇ。それに、それが母親だって言うのなら、まだ良かったんだけど……」
「え……?」
嫌な予感に背筋を冷や汗が伝う。
瑠璃は、娘の様子に構うことなく、沁々と言った。
「それを選んでたの、父親の方だったのよ。別に、服とか靴とか小物とか、そういう物だったら、反発を覚えるだけで済んだんだけど、下着なんて、そうはいかないでしょう? その頃には、反抗期もだいぶ抜け出して来ていたから、母親に選んでもらう分には構わなかったんだけど……。お母様は、趣味が良かったし。でも、父親に下着を選ばれる、あの気恥ずかしさって言ったら、何とも言えなかったわ。それに、趣味もすっごく悪いのよ」
瑠璃は、向かいに座っている、母の話に若干引き気味の娘に向かって身を乗り出した。
「ほら、それくらいの年頃になると、可愛いのを着けてみたくなるのよ。リボンとかレースが付いてる、可愛いの。でも、お父様はそう言うのを、『はしたない』とか『ふしだらだ』って言って、買ってくれなかったのよ。しかも、よ? それだけならまだしも、お母様が、いくら何でも可哀想だって言って買ってくれたのを、捨てたのよ! 私の目の前で!」
思い切り憤慨する母に、由梨亜は既に腰が引けている。
「は、はあ……」
「それで私、もう、頭に来ちゃってねぇ。お母様と示し合わせて家出したのよ」
「い、家出……」
最早、鸚鵡のように繰り返すしかない。
途惑っている娘の様子に、瑠璃は少し首を傾げて言った。
「う~ん、そうね、びっくりしちゃうわねぇ。私は、これくらいだったら驚かないんだけど……やっぱり、貴女は私に似てないわねぇ。私の娘なのに、どうしてこんなに大人しいのかしら? 不思議だわ」
すると、それまで由梨亜と共に顔を引き攣らせていた父が、何故か納得したように頷いた。
「そうか、そういうことだったのか」
「そういうことだったのよ」
「なるほどな……そうか。今、初めて知ったぞ。そんな事情があったのか」
「あら? 初めて知ったの? 私もお母様も、お義父様とお義母様に、ちゃんと事情を説明したけれど……」
「……聞いてない……」
「まあ、お義父様とお義母様ったら」
ころころと笑う母に、頭を抱える父。
事情が全く分からなかった由梨亜は、首を傾げて訊ねた。
「あの……結局、お母様は家出をして、どうしたんですか?」
「あ、ああ……その、な……」
口籠る耀太を肘で小突き、瑠璃は笑いながら言った。
「私は、この人の所に家出したのよ。お父様は私を連れ戻そうとしたけれど、その時の私達は婚約者候補同士だったし、通ってる学校も同じ幼馴染みだったから、連れ戻す理由がなくて、散々喚いていたわ」
「わ、喚く……?」
母方の祖父の、あの厳格な態度を思い出し、由梨亜は目を点にした。
「ええ。しかも、ちょうどその時にお姉様が、お父様が薦めていた人を蹴って、別の婚約者候補と婚約しちゃったからねぇ……もう大変だったわ。切れて切れて」
「は、はあ……」
「……結局お前は、うちに三ヶ月はいたな」
「さ、三ヶ月も……?」
「ええ。そうよ。だって、お父様ったら、なかなか頭を冷やしてくれなかったんだもの。そうね……噴火しっぱなしの活火山みたいだったわ」
もう、何に驚いていいかも分からなくなった由梨亜は、無言で食事を口に運んだ。
「…………」
最初はあんなに温かくて美味しかった食事も、すっかり冷え切って、不味くなっている。
由梨亜の様子を見て、瑠璃も食事を口に運んだ。
けれど、瑠璃は食事の冷たさを気にする様子がない。
耀太は、反射的に顔を顰めていたが、全く気にする様子のない妻の様子に、諦めたように溜息をついて食事を再開した。
「もう、すっかり話に夢中になって、ご飯を忘れてたわ」
そう言って笑う母の姿に、由梨亜はすんでのところで溜息をつくのを堪えた。
母は偉大だという言葉はよく聞くが、本条家の場合の母は――妖怪変化に等しいのではないか。
少なくとも、この人が自分の母だと言うことが、にわかには信じがたかった。
「あら? そう言えば……私達、何の話をしていたのだったかしら? すっかり忘れちゃったわ」
朗らかに言って、にこにこと笑う瑠璃。
「…………」
由梨亜は、眩暈を何とか堪えた。
……ちょっとは、感謝しても、いいかも知れない。
いい具合に、母が話を曖昧にしてくれたのだ。
けれども、と思う。
自分は、母には似ていない。
どちらかと言えば父寄りだが、父と似ているとも言いがたい。
この両親に、自分は似ていないのだ。
では、自分は――誰に似たのだろう。
そう、不思議に思った。