第一章「巡り会い」―1
「……ただいま……」
その小さな声は、たった一人の少女には広過ぎる空間に、溶けて消えた。
家には、誰もいなかった。
だが、それは元からだ。
千紗の両親は共働きで、二人とも大変忙しく、両親が平日の昼間に家にいる姿を、千紗は見たことがなかった。
そして――七ヶ月前に、千紗の父が、交通事故で逝ってしまってからは、更に。
昏く沈んだ瞳が、僅かに揺れた。
その時、家の電話が鳴った。
それに、千紗ははっとした表情になり、震える手で通話可能状態にする。
すると、映像は流れて来なかったが、機械で変えられた声が流れて来た。
『――死ね』
微かに、千紗の手が震える。
代わって、別の声が、
『学校来んじゃねぇ! 汚ぇだろうがっ!』
『邪魔なんだよ、この阿呆が!』
『とっとと死んじまえ!』
『誰がお前なんか相手にするかよ、ば~かっ!』
『このドブス!』
『死ねよ、お前なんか!』
『二度と俺らの前に顔出すんじゃねぇ!』
『さっさと消え失せろ!』
『死んじまえっ! 生きてるだけで目障りなんだよっ!』
千紗は、歯を食いしばって通話を切った。
けれど、先程の言葉が、ずっと頭の中を駆け巡る。
耐え切れずに、耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。
でも、その声は、現実の声ではない。
耳を塞ぐことで、より神経が研ぎ澄まされ、その声は更に大きくなった。
「嫌っ……!」
……分かっている。
もう、自分に電話を掛けて来る友人なんていない。
それでも、どうしてもと、一縷の願いを抱いてしまう。
そして、絶望する。
両親に相談することも、考えた。
けれど、元が意地っ張りで負けず嫌いな千紗は、相談することが『負けた』ように思えて、できなかった。
それでも、耐え切れずに、相談することを決めた。
その矢先だったのだ。
父が、交通事故で急死したのは。
母は常に忙しくしていて、それに父が死んだことにショックを受けていて、とてもではないけれど、相談できるような状態ではなかった。
「…………」
また、電話が鳴った。
自然と伸びる右手を左手で抑え、顔を背ける。
それでも、ずっと鳴り続けるのに耐え切れず、千紗は家を飛び出した。
ざざ、ざざ、と、波が防波堤に打ち寄せる音がする。
千紗は、唇を噛み締めて、その流れを凝視していた。
千紗の胸の辺りまで、木製風の柵がある。
けれど、それは景観を阻害しないように設置されているので、隙間から、もしくは乗り越えれば、向こうに行くことができる。
そこから少し下がった所に、更に頑丈な柵があって、乗り越えるのは容易ではない。
でも、そこを乗り越えれば、堅い岩があって、そこから飛び下りれば、溺死できるかも知れない――
はっとして、千紗は頭を振った。
自分に非はない。
確かに今、自分はいじめられているが、それは自分が悪い訳ではないのだ。
いじめは、基本的にいじめる方が悪いとされるが、いじめられる方に一点の非もないということは、とても少ない。
でも、このいじめは――
柵を握り締めた両手に、強く力が籠もる。
もし自分に悪い所があるとすれば、それは、無駄に溢れていた正義感だろう。
思わず唇を噛み締めた千紗に、背後から、声が掛かった。
由梨亜は、初めて来た町に、心を躍らせていた。
それまでいた東京よりも、高い建物は少なく、娯楽施設もほとんどない、由梨亜にしてみたら田舎だ。
でも、道を歩いている時に、騒々しい音がしないのが気に入った。
由梨亜が住んでいたのは閑静な高級住宅街の一角だが、時折休日に出掛けると、人が多いだけではなく、拡声器で大音量に流れる人の声や音楽で、気が休まらなかったのだ。
だが、ここではそれがない。
由梨亜は、思わず目を細めた。
実を言うと、父に引っ越すことを告げられた時、自分はそれまでの学校に嫌気が差していた。
それは、周りの環境であり、特定の人物だった。
けれど、それから二年近くが経った今、嫌になった環境はほとんど変わらなかったが、その特定の人物はいなくなった。
だから、我慢できなくはなかったのだが、こうして引っ越すことができて、とても嬉しい。
風が吹いて来た時、その中に感じた独特の臭いに、由梨亜は目を瞬き、少し笑った。
この臭いは、海の臭いだ。
ここは沿岸の町だから、海があるのだ。
由梨亜は心を躍らせて、海の臭いを感じる方に足を向けた。
しばらく歩くと、海が見えて来た。
由梨亜は思わず駆け寄って、その海を眺めた。
とても、綺麗だった。
束の間それに魅入っていた由梨亜だが、ふと顔を上げた時に、人の姿が視界に入って驚いた。
本当にそこは静かだったから、人がいるとは思わなかったのだ。
それに、その人物の、悄然としてどこか思い詰めたような雰囲気に、由梨亜は思わず息を呑んだ。
見たところ、多分、自分と同い年くらいだ。
学年が違ったとしても、いいところ、一つ二つの差だろう。
雰囲気からしても、精々小学生、とても中学生には見えなかった。
引っ越したばかりで、知り合いが家族以外誰もいなかった由梨亜は、初めて庶民の学校に通うことになったのだからと理由を付けて、大人しめに装ってはいても、実は好奇心満々に、その少女に声を掛けた。
「あの……?」
千紗は突然声を掛けられ、驚いて振り返った。
するとそこには、いかにも育ちの良さそうな、歳の近い少女が立っていた。
垂らせば胸の辺りまでありそうな茶色の髪を、一つに纏めて巻き、左肩の方から前に垂らしている。
服は、手の甲に当たる部分が長い薄手でハイネックの白ニットの上に、薄い朱色と桃色を混ぜ合わせたような綺麗な色合いの、柔らかなシフォンのレースでできたボレロを着ている。
下は、灰色に近い白の、汚れも皺も一つもない、膝の半ばを隠す長さのプリーツスカート。
ニットの裾は、折り目正しくスカートの中に入れている。
脚は、靴下ではなく肌の色が透けそうに薄い黒のストッキングを穿き、薄桃色をしたエナメルのパンプスを履いていて、更に言うならば、彼女のその脚はかなり細く、運動をやっているような筋肉がまるでない。
まるで、これから結婚式にでも参列するような姿だ。
けれど、そういった高価な服装を気にすることがなく、至って普通に着こなしているので、それが普通通りの服装でしかない、大金持ちのお嬢様だということが分かる。
少し気になるのは、こちらを窺うような目付きだ。
ある事情から金持ちが大嫌いな千紗は、嫌な顔をするのを、すんでのところで堪えた。
彼らは、いちゃもんを付けるのが大好きな一族だ。
そして、困ったことに、そのいちゃもんを正当化できる社会的地位と名声と金を得ている、実に厄介な一族だ。
千紗はこれ以上、彼らの我儘に振り回されるのは真っ平だった。
「何か、用ですか?」
できるだけ丁寧に、穏やかにと心掛けて、言葉を発する。
本当のところを言えば、顔を盛大に顰め、立ち去りたいくらいだ。
でも、それはできない。
それをすれば、後々、自分だけではなく母にまで迷惑が掛かるのが、目に見えている。
この少女が、どんな理由でここに来たのかは分からないが、どうせ長居はしないだろう。
だったら、適当にあしらうに限る。
千紗は、嫌々少女の望むように振る舞った。
けれど、それを本心からだと勘違いしたのか、その見るからにお金持ちそうな少女は、ぱっと顔を明るくした。
「あの、私、この町に来たばかりで、ちょっと不安だったの。貴女、ここの近くの小学校に通っているの?」
その丁寧でありながら、どこか馴れ馴れしい言葉に、千紗は苛立ちを押し隠して頷いた。
「はい。そうです」
すると、その少女はぱっと顔を輝かせた。
「まあ、そうなの? 私も、これからあの小学校に通うのよ。貴女、何年生なのかしら?」
「五年生、ですけど……」
益々、少女の顔が明るくなる。
「まあ、嘘みたい! 私も五年生に編入するの。私達、同い年だわ!」
少女が喜んでいるのとは対照的に、千紗は内心舌打ちした。
同じ小学校というだけでも、しまったと思ったのに、同じ学年となると――。
考えるだけでも、頭が痛くなる。
それに、この少女は、見るからにお嬢様だ。
そして、何とも珍しいことに、千紗のクラスにも『お嬢様』がいるのだ。
彼女はそこまで身分が高くなく、精々中流程度の貴族だが、貴族と庶民の間には、大きな隔たりがある。
千紗達の誰もが――教師ですらも、『彼女』には逆らえなかった。
それはさておき、千紗のクラスには『お嬢様』がいて、その学年に、また別の『お嬢様』が転入して来る。
東京の大都会からこんな田舎まで来て、きっと心細いに違いないと、教師は考えるだろう。
そして何とも都合のいいことに、一年近く前からこの学校には、別の『お嬢様』がいるのだ。
すると、この少女が千紗のクラスに入って来るのは、ほぼ間違いないだろう。
千紗は、堪え切れずに眉を寄せた。
だが、幸いなことに、この少女は気付かずに、喜んで話を続けた。
「本当に、嬉しいわ! 私、ここに来たばかりだから、本当に知り合いがいないのよ。確かあの小学校の五年生って、三クラスあるのよね? じゃあ、同じクラスになるのかも知れないんだわ。宜しくね? それに、私達は同い年なんだから、敬語はなしにしましょう?」
そう言って笑った顔は、確かに可愛らしく、愛らしかった。
とても、同い年の少女だとは思えないほどだ。
「ああ、そうだわ。名乗るのをすっかり忘れてた。私の名前は、本条由梨亜よ。――貴女は?」
だが、千紗には、その少女――由梨亜の問い掛けが、頭に入って来なかった。
「ホンジョウ……?」
「え、ええ……。そうだけど?」
由梨亜は、少し不思議そうに目を瞬く。
「『ホンジョウ』って、あの、本条グループの、本条ですか?」
「え、ええ……。確かに、そうだけど、でも――」
それは父や祖父が関係しているだけで、自分にはまだ、関係ない。
第一自分達は子供なのだから、そんなことは関係ないのだから、仲良くしてほしい。
そう言おうとした由梨亜を遮り、千紗は頭を下げた。
「失礼致しました。本条家のご令嬢だったのですね」
それまでも丁寧な言葉遣いだったが、明らかに雰囲気の変わった千紗に、由梨亜が驚いて大きく目を瞠る。
「あ、ねえ、ちょっと、ちょっと待って――」
「失礼な振る舞いをしてしまい、申し訳ありませんでした」
とにかく、こういった貴族と関わると、碌なことがない。
『本条家』は、千紗のような庶民でも知っているくらい、大きな財閥を運営しているのだ。
貴族は数が多いので、正直言って把握し切れない。
それでも本条家は、この日本州のみならず、地球連邦全体でも名の知られている上流貴族――それも、随一の家だった。
正直言って、千紗とは身分が違い過ぎる。
そう言えば、この近くに本条家の本社が移されることになって、かなりの人が就職することができたとか、やけにだだっ広い土地に、本条家が、マンションでも何でもなくて一個の屋敷を建てているとか、そんな噂を聞いたことを、今更ながらに思い出した。
「ねえ、ちょっと!」
由梨亜は歩み寄って、距離を詰めた。
「私は、そんなことをしてほしくて、名乗った訳じゃないわ。ただ……貴女と、友達になりたいの。身分なんか、関係ないわ。本当よ」
純真に、真っ直ぐとこちらを見詰めて来る由梨亜に、千紗は小さな溜息をついた。
この少女は、上流階級の家のお姫様だ。
だから、現実を知らずに、身分など、関係ないと――庶民とも、友達になりたいのだと、心から言うことができるのだろう。
けれど、生憎と千紗は違った。
貴族なんかとは、間違ってもお近付きにはなりたくなかったし、ましてや友達になんてなりたいとは、微塵も思わなかった。
「……お嬢様」
「由梨亜よ」
千紗がたじろぐほどの真剣な目をした由梨亜は、力強く千紗を見据えた。
「私の名前は、由梨亜よ。『お嬢様』でも、『本条』でもないわ。私は、由梨亜。……それ以外の名前になった覚えなんてないわ」
千紗は、気付かれないくらいのか細い溜息をついた。
このお嬢様は、思った以上に強情らしい。
「……それでは、由梨亜様。今後は、私の姿を見掛けても、話し掛けない方が身の為です。――これで、失礼致します」
それだけを言い置いて、本当に立ち去ろうとする千紗に、由梨亜は驚いて棒立ちになったが、すぐに我に返って千紗の腕を掴む。
由梨亜はそう小柄な方ではないが、千紗と並ぶと、千紗の方が頭半個分大きい。
顔を見据えようと見上げた由梨亜は、逆に千紗の昏い瞳に逆に見据えられて、思わずたじろいだ。
由梨亜が怯んだのを見て、千紗は丁寧に、けれども有無を言わせず、由梨亜の手を引き剥がした。
「……私は……」
口ごもって俯く由梨亜に、千紗は無感動に告げた。
どうせ、これ以上は襤褸が出る。
「――だから、あたしに近付くなって、そう言ってんのよ」
突然乱暴になった千紗の口調に、由梨亜は驚いて顔を上げる。
「それ、って……どういう、意味……?」
「そのままの意味。あたしは、貴族が大っ嫌いだから、近付いて来てほしくない。友達なんて論外。とっとと消えてくれる? ま、その前にあたしが消えるけど」
呆然と棒立ちになる由梨亜に、千紗は盛大に溜息をついた。
「あのねぇお嬢様。あんた達貴族とあたし達庶民は、まず世界が違うの。あんた自身が、そう思ってなくても。周りが、あんたをお嬢様として扱う。――庶民の世界に来れば、たとえ下流のお嬢様でも、富豪のお嬢様でも、庶民にとっては雲の上の人。周りは何でも言うことを聞く。それが、更に上の存在の、国でも有数の貴族だなんて……。ちやほやされなかったら、そっちの方が不思議なくらいだし。誰がどう思おうと、あんたが特別扱いされることは間違いないよ」
そう言い捨てて踵を返したが、ふと思い付いて、振り返った。
呆然としていた由梨亜は、はっとして千紗を見詰める。
そのお嬢様に――千紗は、彼女に向けるのは、恐らく最後であろう笑顔を見せた。
その笑顔は最早冷笑に近かったが、千紗は、今までの声の中でも穏やかな声で言った。
「お嬢様。……あんたがあたしに近付かない方がいいって言ったのは、本当だよ。どうせ、あんたはあたしと同じクラスになる。――だから、一層近付かない方がいい。あんたは、ここらの中で身分が高いけど……クラスで浮きたくなかったら、仲のいい友達を作りたいって、本気で言ってんなら、あたしは徹底的に無視した方がいい。そうしたら、多分、友達ができるから」
その言葉に、再び呆然とする由梨亜を置き去りにして、千紗は今度こそ立ち去った。
公園を出て、潮騒の音も、その臭いも、遠くなる。
その頃になって、千紗は微笑していた。
「あたしも、親切なもんね……。貴族なんかに、アドバイスなんかしちゃって。いつものあたしじゃないなぁ」