序章「岐路」
本編のダブル主人公、千紗・由梨亜が小学校五年生の時の、出会いの話です。
また、この ~邂逅のその時~ は全体的に暗めな話になります。いじめや差別的な表現も相当出てきますので、苦手な方はご注意下さい。
「お父様……今、何と?」
娘は、呆然と父に問い掛けた。
「引っ越すと、そう言ったのだ、由梨亜」
父はそう言うと、力強く娘を見据えた。
「勿論、今すぐという訳ではない。引っ越すのは、三年後だ。だから、お前は六年生になった時に、引っ越すことになる」
「え、でも……どうしてですか? 何で、そんなにいきなり……」
「実は、我が本条グループが、新たな仕事を手掛けることになってな。それには、この東京にいたままでは、何かと不便なのだ。……お前には、可哀想なことになるが……」
父の言葉に、けれど、娘は首を振った。
「いいえ。……むしろ、好都合です、お父様」
その言葉に、父はハッとした顔になり、小さく頷いた。
「そうか。……そう、だったな。――由梨亜。お前は、今すぐ引っ越したいのか?」
娘は、少し迷った後、こくんと頷いた。
「はい。……正直なところを言うと、そうです」
「そうか……」
父は小さく溜息をつくと、幼い娘の頭を撫でた。
「確かに、今引っ越して、いいことはいい。だが、今は、向こうに家を造らせている途中だ。だから、今引っ越したとしても、住む家がないのだ。……だから、由梨亜。あと、もう少し我慢してくれ」
「ええ。……でも、できるだけ、早めて頂けませんか? 私、あんまりこちらには、長居したくありません」
その言葉に、父は渋い顔になった。
「まあ、不可能ではないが……それでは、学期の途中の、中途半端な時期の転校になるぞ。お前は、本当にそれでいいのか?」
「大丈夫です、お父様。……私が六年生になるよりも前に、遅くても六年生になる時には、引っ越す。これは、決まっているのでしょう?」
「ああ、そうだ」
「なら、それでいいです」
父は娘を痛ましい目で見詰めると、力強く言った。
「勿論、向こうの学校も充分に吟味しよう。幸い、時間はまだたっぷりとあるからな。お前に――本条家の跡取り娘に相応しい学校を選ぼう」
「あ、あの、お父様!」
娘は、熱心に父を見上げた。
「何だ? 由梨亜」
「あの……学校は、公立がいいです。私……その、私立の学校は、ちょっと……。――いえ、あんなことがまた起こるとは言いませんが、もし、あんなことと似たようなことでも起こったらと、そう思うと……。だから、私、私立には行きたくありません。公立なら、あんなことは起こらないと思うんです」
娘は、必死に――いささか、必死過ぎるほどに、熱心に父に訴えた。
その様子に、感じるものがあったのだろうか。
父は、しばらく唸って考えていたが、やがて頷いた。
「……分かった。お前が、そこまで言うのなら……。公立の学校にしよう。……ただし!」
父はぴしゃりと言った。
「その学校の素行は、充分に調べさせてもらうぞ。万が一にも相応しくない事柄があるのであれば、そして、相応しい公立の学校がないのであれば、私は、お前が何と言おうとも、お前を私立の学校に入れるぞ」
「はい。それで結構です、お父様」
娘は頷くと、父に辞去を述べ、それまで話していた父の書斎を出た。
そして、その廊下を、どこか感慨深げに歩く。
娘は、ふと足を止めて、窓から外を眺めた。
そこでは、まさに満開の桜が、散り落ちていた。
その幻想的な乱舞を、娘は無言で、無表情で、ただじっと眺める。
――共通暦一三一七年、本条由梨亜、初等部三年生の、八歳の春だった。
墨を流したような漆黒の髪を持つ少女は、暗い顔をして職員室に向かった。
「――先生」
その声に、職員室中の教師が振り返り、一様に気まずげな顔をして目を背ける。
けれど、その少女に声を掛けられた教師だけは、そういう訳にはいかず、体はその少女に向かったものの、顔は微妙に逸らされ、視線も宙を彷徨った。
「ど、どうした、彩音」
すると、その少女は、小さく溜息をついて言った。
「教室と廊下の掃除、終わりました」
「そ、そうか。ご苦労だったな、彩音。あ、明日も、遅れないように、な」
「……先生。明日から、三連休ですけど」
「あ……ああ、そ、そう、だったな。じ、じゃあ、彩音、もう、帰ってもいいぞ」
始終びくびくしっぱなしの教師に、少女は暗い目をひたと当てる。
「はい。失礼しました」
少女は暗い顔付きのまま、頭を下げ、職員室を後にした。
廊下に差し込む光は、すっかり黄昏の色だ。
少女は皮肉めいた自嘲を浮かべると、教室に戻って行った。
「…………」
可笑しい。
電気は消したはずなのに、何故か付いている。
少女が教室に入ると、そこには誰もいなかったが、少女が机の上に置いていた荷物は、すっかりばら撒かれていた。
少女は、思わず深い溜息をついた。
そのまま床に膝を付き、荷物を拾って仕舞い直す。
自分が予想外に早く戻って来たことで、これをやった人達は、これ以上の悪戯をする余裕がなかったのだろう。
そう思うと、益々憂鬱な気分になった。
立ち上がり、少女は教室を見渡す。
ここの掃除は、今日、自分がやった。
今日だけではなく、昨日も、一昨日も、先週も――そして、一ヶ月前も、二ヶ月前も、ずっとずっと。
全てが自動化された今日、生徒が掃除をする意味はない。
自動機械で、掃除が全てできてしまうのだ。
けれど、生徒の自立心と責任感を養うとか何とかで、自分達の使う教室と廊下は、交替で掃除することになっていた。
しかしこのクラスでは、この少女以外の生徒が掃除をしたことは、一度もない。
このクラスだけではなく、昨年、この少女が属していたクラスでも、そうだった。
だから、去年から少女は、一度も早く帰ったことはない。
曜日ごとに授業数が違うせいで、その時間にはばらつきがあったが、基本的に遅くなった。
それも、仕方のないことであろう。
この広い教室と廊下を、たった一人で掃除しているのだから。
――共通暦一三一九年、彩音千紗、小学校五年生の、十歳の晩春だった。