第四章「別れと、」―2
今回、育児や授乳に関する記述や場面があります。苦手な方はご注意下さい。また、誤った内容があった場合は、ご指摘頂けると嬉しいです。
二日後の、八月二十八日。
その早朝に、由梨亜妾は外に出ていた。
由梨亜妾は富実樹を抱きかかえ、ある省に入る。
その名も、花鴬省。
基本的にここの省は、王族関連の仕事をこなしている。
何しろ、ここの大臣は花雲恭奨砥。
現国王花雲恭籐聯の実弟であり、由梨亜妾の腕の中で眠っている富実樹からすれば、実の大叔父である。
つまり、代々王族が頂点に立つ省なのだ。
だからこそ、国の最高機密を取り扱うこともある。
そして、花鴬国の中でもトップシークレット、決して諸外国にばれてはいけないことが、魔族の力のことだ。
国内でこそ公然の秘密となっているが、国外にばれたが最後、国際社会から爪弾きにされかねないのだ。
だから、魔族の力を科学の力と誤魔化すのも、この省の担当となっていた。
また、それだけではなく、魔族の力を持って生まれた子供の教育や、魔族の力を社会に役立てる――つまり、就職先の斡旋も、この省がやっていた。
だからこの省には、魔族の力を持つ者が多くいるのである。
ミーシャも、つい先日退職したのだが、元はこの省の職員だった。
由梨亜妾は、まだ誰もいないこの省に、足を踏み入れた。
そして、元から指定されていた部屋に入ると、そこには籐聯、峯慶、ミーシャが揃っていた。
由梨亜妾は、峯慶とミーシャがいるのには驚かなかったが、籐聯までがいるのには、驚いて目を瞠った。
五十代の前半に差し掛かっている籐聯は、その歳よりも老けたような顔をしていた。
その視線が娘にあることを知って、由梨亜妾は、そっと富実樹を差し出す。
籐聯は無言で富実樹を抱きかかえると、その険しい表情を緩めた。
初孫を手放さなければならない悲しみは、峯慶や由梨亜妾と、同じだろう。
籐聯は富実樹を抱き締め、その柔らかな頬に口付けると、ミーシャに手渡した。
ミーシャは、大事に富実樹を受け取る。
その足元には、複雑な紋様の描かれた魔方陣と、鞄が一つ置かれていた。
誰もが無言の中、ミーシャが口を開く。
「妾様。……私は、これから地球連邦へ、それからその過去へと参りますが、それには、これも持って行こうと思っております」
ミーシャが指し示したそれに、由梨亜妾は首を傾げた。
「これは……鏡?」
「はい。鏡ですが、ただの鏡ではありませぬ。これは、去解鏡と申します」
「去解鏡、ですってっ?!」
由梨亜妾は、唖然としてミーシャを凝視した。
「去解鏡って、二十年ほど前に創られた、過去を覗き見ることのできる、あの去解鏡ですかっ?」
「そうです。……これは、その『時』に存在していた過去しか、見ることはなりませぬ。そして、その近くになければ」
ミーシャは、そっと鏡を撫でた。
「ですが、隣の部屋にある去解鏡は、少し改善しておりまして、距離の制限を関係なくしたのです。……それを汎用品にするのは危険過ぎますが、少し覗き見る程度には、ちょうどよいでしょう」
ミーシャは、由梨亜妾を強く見据えた。
「私がこの去解鏡を過去へと持って行くことによって、妾様、貴女は、富実樹様の成長された姿を見ることが叶います。そして、それを御確認なさることにより、富実樹様が無事に花鴬国に戻られるかどうかということも、間接的にではありますが、知り得るでしょう」
ミーシャはそう言うと、驚きに目を瞠る由梨亜妾の返答も聞かず、魔方陣を作動させた。
魔方陣から光が零れ、由梨亜妾達の目を射る。
「陛下、殿下、妾様。……さようなら」
その声が聞こえた途端に、光が消え失せ、ミーシャや富実樹も、魔方陣と共に消え失せた。
後には、何も残らなかった。
いつまで、立ち竦んでいたのだろうか。
そっと峯慶に肩を叩かれて、由梨亜妾が気付いた時には、籐聯の姿はなかった。
「富実樹、は……富実樹は……!」
泣き崩れる由梨亜妾を抱き留め、峯慶は言った。
「由梨亜妾……これで、良かったのだよ。これしか、方法はなかった。だから……」
峯慶は、由梨亜妾の頬を拭った。
そして、促して外に出る。
隣の部屋に入った由梨亜妾は、そこに立てられた巨大な鏡と、一人の男性がいるのに目を瞠った。
そして、ミーシャが言っていたことを思い出す。
思わず駆け寄って鏡に縋り付いた由梨亜妾を、峯慶は辛そうな顔で引き剥がし、男に目配せをした。
それを受けて、男は鏡を向き、手をかざす。
その途端、鏡に映像が映った。
由梨亜妾は、それを食い入るように見詰める。
見たこともない建物に、見たこともない服装の、見たこともない人達。
いかにも古めかしいそれは、確かに千年も昔の過去なのだ。
やがてそれは、二人の少女を映し出す。
二人とも、十二、三歳くらいだ。
一人は、背に届くほどの長さの茶色の髪を持つ少女。
もう一人は、肩を越えるほどの長さの黒髪を持つ少女。
(どっちなの……? どっちが、富実樹なの……?)
耳を澄ますと、二人が話している言葉が聞き取れた。
『ねえ、これ、何だと思う?』
『え~……。分かんないよ、そんなの。だって、学校で習ってないじゃん』
『そうよねぇ……。私も、分からないわ。別に、分からなくても困らないけど……』
『う~ん……。これを使ってる子達、みんな楽しそうだよね? それに、音もするし……。ゲームなのかな?』
『ああ、なるほど。確かに、そうかも知れないわね』
茶色の髪の少女は頷くと、黒髪の少女を促した。
『あ、そろそろ行かないといけないんじゃないかしら? ほら、時間が』
『ほんとだ~。あーもう、もっとゆっくりしてたいよぉ』
『千紗ったら、ここでそんなことを言っても仕方ないわよ。ほら、行きましょ』
『うん……。由梨亜、何でそんなに元気なの? あたし、寝不足で眠い……』
その後も、少女達は会話を交わしていたが、由梨亜妾の耳には、もうそれは入って来なかった。
「富実樹……」
由梨亜と呼ばれた、茶色の髪の少女。
去解鏡は、しばらく二人を追っていたが、やがて映像が途切れる。
由梨亜妾はそれでも、しばらく去解鏡を見詰めていた。
「……由梨亜妾」
峯慶は、堅く由梨亜妾を抱き締める。
「富実樹は……富実樹は、あそこで、元気にしていた。――だからきっと、私達の元にも、元気で還って来てくれる。だから、それまでは……」
由来妾は、峯慶を振り返った。
「はい。わたくしは、富実樹の母であるだけでなく、富瑠美の養母でもありますもの。……富瑠美を、ちゃんと育てますわ」
由梨亜妾はそう言って、頬を拭った。
「それでは、失礼致しますわ、峯慶殿下。富瑠美が、御腹を空かせているかも知れません」
そう言って立ち去った由梨亜妾を、峯慶は目を細めて見送った。
今考えてみると、由梨亜妾に富瑠美を育てるようにと言ったのは、良かったのかも知れない。
自分で産んだ娘を手放した悲しみは、きっといつまでも付いて回るだろうけれど、富瑠美を育てているうちに、その悲しみも少しは薄らいでいくだろう。
そう思った峯慶は、その富瑠美の産みの母である深沙祇妃を思い出し、苦い溜息をついた。
深沙祇妃は、富瑠美を自分の手から引き離されたことに激怒し、王である籐聯に直訴したのだ。
けれど、その剣幕を見て、籐聯は益々富瑠美を由梨亜妾に預ける意志を固めた。
峯慶は最初、富瑠美は六歳の頃まで由梨亜妾に育ててもらおうと思っていた。
さすがにそこまでの時を置けば、深沙祇妃の頭も冷えると思ったのだ。
けれど籐聯は、深沙祇妃の様子を見て、その期間を延長したのだ。
そして、深沙祇妃に
『もし御前がこのまま大人しく、妃として過ごすのであれば、富瑠美は十歳になった時に御前に返す。だが、それでも我を通すのであれば、由梨亜妾にはずっと富瑠美を育ててもらう』
と言い放ったのだ。
それを聞いた深沙祇妃の顔からは血の気が失せたが、ここで抗議すれば、永遠に富瑠美は我が手に戻って来ないことをようやく悟ったのか、渋々と引き上げて行った。
峯慶は由梨亜妾を特に愛していたが、それでも、他の妻達のことを粗略にするつもりはなかった。
由梨亜妾を愛する、この自分の気持ちは堪えようがないけれど、格別の愛情を注いでしまうのを止めることもできないけれど、他の点では、他の妻達と全て平等に接するつもりだったし、覚悟もあった。
けれど――深沙祇妃のことは、これから先も愛せそうにない。
だが、深沙祇妃と離縁する訳にもいかない。
そもそも深沙祇妃は、ミオメス国の王女なのだ。
こちらの都合で離縁したら、いくらミオメス国でも気性の激しさに手を焼いていた事実があっても、それこそ全面戦争になりかねないのだ。
このまま、ずっと大人しくしていればいいと思って、峯慶は深い溜息をついた。
まだ二十七歳の自分には、何もかもが、あまりにも重過ぎた。