第7話:インクの枷(かせ)
雪に閉ざされた廃屋の奥、煤けた戸棚の裏側に、それは隠されていた。
一冊の、古びた革表紙のノート。久保寺あこがそれを開いた瞬間、凍りついた空気が微かに震えた。
「……全部、英語? いいえ、これは……」
あこが眉をひそめる。ページを埋め尽くしていたのは、現代の若者には馴染みの薄い、流麗で、しかし強迫観念めいた密度で綴られた**筆記体(Cursive)**だった。
インクは乾ききっているが、紙面にはペン先が紙を突き破らんばかりの鋭い筆圧が残っている。
「もみじ、これを見て。瀬戸先生、誰かに宛てて書いていたんじゃないわ」
もみじがノートの端をクンクンと嗅ぎ、不快そうにくしゃみをした。紙面からは、古い紙の匂いに混じって、あの「青い結晶」と同じ、金属質の冷たい香りが立ち上がっていた。
あこはスマートフォンの翻訳アプリを構えたが、乱れた筆記体は機械の目を拒絶した。彼女は覚悟を決め、祖父・耕介から叩き込まれた「プロの読解」を試みる。
―― I thought this was an escape, but it was a cage crafted by someone else.
(これは逃避だと思っていたが、誰かに用意された檻だった)
冒頭の一節を解読したあこの背筋に、冷たいものが走った。
手記の内容は、澪への愛の告白ではない。自分たちが町田を出た瞬間から、何者かによってルートを指定され、食料を供与され、この北の果ての「死に場所」まで誘導されていたことへの、戦慄すべき記録だった。
「『あの日、ホームで僕たちにチケットを渡した影は、神の使いだと思っていた。だが、彼は悪魔の編集者だった』……?」
あこの指が止まる。手記の後半、文字は次第に崩れ、のたうつような線へと変貌していた。劇薬が全身を回る中、瀬戸は死に物狂いでこの事実を遺そうとしたのだ。
不意に、もみじが廃屋の「外」に向かって鋭く吠えた。
あこが顔を上げると、雪明かりに照らされた窓の外、木立の間に人影が見えたような気がした。こちらをじっと観察し、物語の結末を検分しているような、冷徹な視線。
「……待ちなさい、もみじ! 深追いはダメよ!」
あこは手記を抱え込み、懐中電灯を消した。
二人の死は、単なるスキャンダルではない。町田高校という平穏な水面の下で、誰かが「最高の悲劇」を執筆するために、二人の命をインクとして使ったのだ。
「瀬戸先生。あなたが遺したこの『筆記体』、私たちが必ず解読してみせるわ」
あこは闇の中で呟いた。
手記の最後のページには、掠れた文字で一人の人物の名前が記されていた。それは、第3町田高校の職員名簿にも、澪の家族構成にも存在しない、未知の登場人物の名前だった。




