第5話:追跡の包囲網
第3町田高校の正門前に、赤色灯が凍てついたアスファルトを毒々しく撫でていた。
かつて瀬戸が「自由(Liberty)」と「放縦(License)」の違いを説いた教室は、今や町田署の捜査員たちが土足で踏み荒らす「現場」に成り果てていた。
「瀬戸健一。履歴書を見る限り、欠点のない『模範解答』のような男だな」
ベテラン刑事の野上は、瀬戸のデスクに置かれた『退職願』を、不潔なものを見る目で眺めた。
「教頭先生。この男、授業中に変なことは言ってませんでしたか。例えば、社会への呪いとか、現実逃避の願望とか」
「……いえ、至って熱心でした。補習も、佐々木さんのために時間を割いて……」
「それが『餌』だったんだよ」
野上は吐き捨てた。瀬戸の私物PCからは、匿名で綴られた日記が掘り起こされていた。そこには、規律に縛られた日々を「魂の去勢」と呼び、壊れかけた少女に自分の理想を投影する、知的で独善的な欲望が並んでいた。
「駅のカメラ、Nシステム、それからSNSの目撃情報を洗え。この男は自分を悲劇の主人公だと思っている。必ず、自分の『美学』に反するようなヘマをやらかす」
その頃、二人が降り立ったのは、越境した先の、音の死に絶えた無人駅だった。
雪が、あらゆる色彩を塗り潰している。車内の異常な暖房に慣れた肌に、零下の冷気が容赦なく噛みついた。
駅の売店で買ったスポーツ紙の隅に、自分の名前を見つけた時、瀬戸の喉の奥が不快な酸味で満たされた。
(……指名手配か。想像より早い)
隣でマフラーに顔を埋める澪は、まだ自分の置かれた状況の「法的意味」を理解していない。彼女にとってこれは、退屈な日常からの卒業旅行に過ぎないのだ。
「先生……ここ、どこ? 誰もいないよ」
不安げに袖を引く澪。その「先生」という呼び声が、今の瀬戸には、自分の首を絞める縄のように感じられた。
「瀬戸、だ。……いいか、これからは誰に見られても、俺をそう呼ぶな。他人を装え」
突き放すような口調に、澪が傷ついたように目を見開く。瀬戸は舌打ちしたい衝動を抑えた。ロマンチックな逃避行など、最初から存在しない。あるのは、飢えと凍えと、警察の足音に怯えるだけの惨めな敗走だ。
駅舎の古びたスピーカーから、列車の出発を告げるアナウンスが響く。それは二人を祝福するファンファーレではなく、社会からの追放を宣言する弔鐘だった。
瀬戸は、かつて自分が教壇で語った美しい英文を一つも思い出せなかった。今、彼の脳内を支配しているのは、次の潜伏先への経路と、残り少ない現金の計算、そして――
(この子を、いつまで『モノ』として隠し通せるか)
という、暗い計算だけだった。
二人は、光を吸い込む雪の闇へと、深く沈んでいった。




