第4話:日常の崩落
午前五時十二分。小田急線ホームの空気は、湿った吸い殻と凍結した鉄の匂いが混じり合い、肺の奥を刺した。
霧を切り裂いて現れた二条のライトが、点字ブロックの上に立つ影を照らし出す。紺色のコートに埋もれた佐々木澪。彼女は震えていたが、それは寒さのせいだけではないことを瀬戸は知っていた。
無言で隣を通り過ぎる際、瀬戸は彼女の指先に自分の指を絡めた。一瞬の接触。だがそれは、互いの人生を繋ぎ合わせ、同時に破滅させるための結線だった。
車内の蛍光灯は、死体安置所のように青白い。数人の土木作業員が泥のついた靴で眠り、始発の静寂を支配していた。二人は車両の隅、連結部の振動が直に伝わる席に深く腰を下ろした。
ガタン、と車体が跳ねる。その衝撃のたびに、昨日までの「正しい世界」が剥がれ落ちていく。
「……先生」
澪が、瀬戸のコートの袖を、布地が悲鳴を上げるほどの力で掴んだ。
「もう、先生じゃない。瀬戸だ」
瀬戸は手袋を脱ぎ、彼女の指を包み込んだ。氷のような冷たさ。彼はその冷たさを一生背負い続けるのだと、奥歯を噛み締めた。
午前八時二十分。第3町田高校の職員室には、平穏という名の薄氷が張り詰めていた。
瀬戸のデスクには、昨日採点を終えたばかりの答案用紙が、几帳面な束になって置かれている。一限目のチャイムが鳴っても、その主は現れなかった。
「瀬戸先生、連絡つきません。寮にもいないようです」
学年主任の声が、朝の湿った空気を切り裂いた。九時を回る頃には、その沈黙は「不吉な予感」から「確信的なパニック」へと変貌する。
教頭が事務室から駆け込んできたとき、その手には瀬戸の退職願があった。
「……三組の佐々木も、無断欠席だ」
誰かが呟いたその一言が、職員室の酸素を奪った。パズルのピースが、血を流しながら噛み合っていく。昨日まで「真面目な中堅」として信頼されていた男が、一瞬にして「少女を連れ去った獣」へと反転した瞬間だった。
「マスコミに知られる前に、警察と教育委員会へ……!」
同僚たちの口から飛び出すのは、瀬戸への心配ではなく、組織を守るための保身の言葉ばかりだった。
その頃、列車は多摩川を越え、灰色の市街地を突き進んでいた。
瀬戸のポケットの中で、スマートフォンが執拗に震え続けている。学校、親、警察。世界からの呼び出し音。瀬戸は迷わず電源を切り、カードスロットからSIMカードを引き抜いた。それを窓の隙間に落とすと、小さな金属片は二人の過去と共に線路の彼方へ消えた。
「先生……私、お腹すいちゃいました」
澪が、縋るような目で瀬戸を見上げた。
そのあまりに日常的な、あまりに幼い言葉に、瀬戸は胸を締め付けられる。これから彼らが向かうのは、コンビニも、温かい寝床も、明日への保証もない荒野だ。
「次の駅で降りよう。……そこで、何か食べよう」
瀬戸は彼女の肩を抱き寄せた。窓の外では、冬の太陽が雲に遮られ、二人の影を塗り潰していた。




