第3話:マントを脱ぎ捨てる夜
十二月十四日、月曜日。町田の街を、体温を奪うような湿った雪が濡らしていた。
放課後の終礼を終え、瀬戸は「お疲れ様です」と、名前も思い出せなくなるであろう同僚たちに事務的な微笑を投げた。七年間、この檻で「無難」という仮面を被り続けてきた男の、それが最後の演技だった。
独身寮の六畳一間。安物の電気ストーブが、断末魔のような音を立てている。
瀬戸は机に向かい、一枚の真っ白な便箋を広げた。黒のボールペンが、今は自分の喉元を突く刃に見える。
『退職願』
中央に一言、それだけを記した。一身上の都合? 冗談ではない。一人の少女の未来を食いつぶし、自分という人間を社会的に抹殺する。その決意に、そんな空疎な言葉は似合わない。
印鑑を捺す。朱肉の赤が、白濁した日常に穿たれた風穴のように鮮やかだった。瀬戸は眼鏡を外し、ゴミ箱へ放り捨てた。視界が不確かに揺れる。だが、この「焦点の合わない世界」こそが、今の自分に相応しい。
同じ時刻、佐々木家。
澪は、誰もいないリビングの冷え切ったテーブルで、家族への「遺言」を綴っていた。
キッチンには昨日から放置されたコンビニ弁当の空き殻。両親にとって、自分は季節が変われば買い換える家具と同じだった。「あなたの好きにすればいい」という放任は、信頼などではない。ただの放棄だ。
『好きな人ができました。その人と、遠くへ行きます』
書いている途中で、ペン先が紙を引き裂いた。家族を愛していたかったという未練が、鋭い痛みとなって胸を突く。だが、彼女は涙を拭わなかった。
部屋に残すのは、女子高生としての抜け殻だけだ。友達と撮った無意味なプリクラ、一度も袖を通さなかったブランド物の服。鞄に詰めたのは、瀬戸が貸してくれた古い英語の短編集と、彼に触れられるための最低限の着替えだけだった。
午前二時。
瀬戸はスマートフォンの電源を落とす前に、最後のメッセージを確認した。
『準備、できました。』
返信はしない。言葉はもう、二人の間ではノイズでしかなかった。
スーツを脱ぎ捨て、着慣れない厚手のコートを羽織る。鏡に映るのは、聖職者の残骸を纏った一人の犯罪者だ。彼は、自分の人生という長い文章に、たった今、決定的なピリオド(.)を打った。
外に出ると、雪は冷酷な雨に変わっていた。
瀬戸は車ではなく、あえて町田駅へと歩き出した。タイヤの跡を残すよりも、鉄路という巨大な血流に紛れ込みたかった。
歩道橋の上、雨に打たれながら霧の向こうを見つめる。
五時十二分。
その時刻が来れば、世界は牙を剥くだろう。誘拐、淫行、裏切り。あらゆる汚名が自分たちを定義するだろう。
だが、それでいい。
瀬戸のポケットの中には、教卓に置かれていた出席簿の代わりに、一人の少女の冷え切った手を温めるための熱だけがあった。
遠くで、始発列車の接近を告げる震動が、凍てついたアスファルトを震わせ始めた。




