表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
放課後のエスケープ・ベロシティ  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/11

第2話:孤立の共鳴

 午後四時半。第3町田高校の校舎は、巨大な墓標のように沈黙し始める。

 英語教師、瀬戸が彼女――佐々木澪という「劇薬」を飲み干すことになったのは、そんな、世界の輪郭が溶け出す時間帯だった。

 四月の進路面談。目の前の少女は、白紙の調査票を突き返した瀬戸の手元を見つめたまま、低く笑った。

「ここじゃないどこか、なんて場所、本当にあるんですか? 先生」

 その問いは、教育実習以来、瀬戸が心の奥底に封印してきた「逃避への渇望」を正確に射抜いた。

 それ以来、瀬戸は無意識に彼女を追う。昼休みの屋上の陰、埃っぽい図書室の隅。彼女は常に独りだった。それは「友達がいない」という欠落ではなく、周囲の幼い熱狂を軽蔑し、自ら選んだ隔離だった。瀬戸もまた、職員室の凡庸な政治劇に背を向ける「冷めた歯車」だ。二人は、同じ病巣を抱えた同類だった。

 雨の六月。踊り場で雨音を数える澪の隣に、瀬戸は立った。

「帰りたくないんです。家は、学校より静かすぎて」

 澪の家庭が、機能不全という名の空洞であることは知っている。だが、瀬戸を動かしたのは同情ではない。

「……英語の『Alone』と『Lonely』の違いを教えたな」

 瀬戸は窓ガラスに映る、疲れ果てた自分の顔を見つめた。

「『Alone』は状態だ。だが『Lonely』は、誰かに見つけてほしいという悲鳴だ。佐々木、君はどっちだ」

 澪がゆっくりと振り返る。その瞳は、教師という聖域を侵食するような熱を帯びていた。

「先生は、どっちなんです? 私を見つけたのは、先生の方なのに」

 その瞬間、瀬戸の理性が微かな音を立てて爆ぜた。伸ばしかけた手は宙で止まったが、視線だけは彼女の喉元を、その細い指先を、逃げ場のないほど執拗に追い詰めていた。

 夏を殺し、秋を捨て、季節が冬へと傾くにつれ、二人の補習は「儀式」へと変質していった。

 ある夜。駅前で酔客に絡まれる澪を見つけたとき、瀬戸の胸に去来したのは正義感ではなかった。「俺の獲物に触るな」という、教師にあるまじき凶暴な独占欲だった。

 無言で彼女をタクシーへ押し込み、夜の町田を疾走する。車内の狭い空間。澪の安っぽいシャンプーの匂いと、冬の冷気が混じり合う。

「……先生、手が震えてる」

 澪が瀬戸の掌を包み込む。その小さく、しかし確かな重みに、瀬戸は自分がもう「あちら側」へは戻れないことを悟った。彼女を救うのではない。彼女を道連れにすることで、死んでいた自分の時間を無理やり動かそうとしているのだ。

 十二月の屋上。雪混じりの風が、二人の境界線を切り裂く。

「もし、この世界が全部嘘だったら」

 澪が、凍えた唇を寄せる。

「先生、私を連れて逃げてくれますか。雪が全部隠してくれる場所まで」

 瀬戸は応えなかった。代わりに、彼女の冷え切った頬を両手で包み、その瞳に宿る絶望のすべてを飲み込んだ。

 脱出速度エスケープ・ベロシティ

 この重力圏を振り切るために必要なのは、愛ではない。すべてを焼き尽くすための、冷徹な共犯意識だった。

 二人は、同時に引き金に指をかけた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ