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放課後のエスケープ・ベロシティ  作者: 水前寺鯉太郎


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最終話:終幕の断崖 ― Script Error ―

 久保寺耕介が襲撃されてから五日。町田の街を覆っていた湿った雪は、いつの間にか硬い氷の粒へと変わっていた。

 一連の事件を裏で操っていた「観客」の正体――それは、瀬戸の最も身近な同僚であり、良き相談役を演じ続けてきた学年主任、**室生むろう**だった。

 深夜の第三町田高校。爆破テロの傷跡を残す校舎は、月の光を浴びて巨大な骸骨のように虚空にそびえ立っている。立ち入り禁止のテープを潜り抜け、あこがこの「墓標」へと足を踏み入れたのは、スマートフォンの画面に浮かび上がった一通のメールが原因だった。

『物語の結末を書き換える権利を、君にだけ与えよう。屋上で待っている。……筆折るるまで、舞台は続く』

 懐中電灯の細い光が、煤けた廊下を這う。足元ではもみじが、喉の奥から絞り出すような低い唸り声を上げ続けていた。それは、かつて瀬戸や澪が感じたであろう「捕食者の気配」に対する、本能的な警告だった。

 屋上の扉を押し開けると、凍てつくような冬の突風が、あこの頬を容赦なく叩いた。

 冬の星座が冷たく降り注ぐ中、フェンスのきわに一人の男が立っていた。室生だ。彼はかつて職員室で見せていた温厚な微笑を完全に脱ぎ捨て、剥き出しの虚無をその瞳に宿している。

 左手首には、祖父・耕介の記憶通り、第3町田高校の勤続表彰で贈られたあの方位磁石を模した腕時計が、鈍い銀光を放っていた。

「室生先生……いえ、狂った脚本家ライターさん。ようやくお目見えね」

 あこは警棒を強く握りしめ、間合いを詰める。

 室生はゆっくりと振り返り、眼鏡のブリッジを神経質に押し上げた。

「久保寺警部。君は、少々『読解力』が過ぎたようだ。瀬戸君と佐々木さんの純愛を、汚らわしい犯罪の文脈で解釈し、無理やり日常へ引き戻そうとする。君こそが、この美しい悲劇を台無しにする、無粋な『検閲官』だよ」

「純愛? 笑わせないで。あなたがやったのは、瀬戸先生の孤独を『取材』し、澪さんの絶望を『演出』することだけ。二人の逃避行をエサにして、死という名のコレクションを完成させただけじゃない!」

 あこの怒号が、深夜の校庭に木霊する。

 室生は愉悦を隠そうともせず、薄い唇を吊り上げた。

「コレクション? 違うな、これは『救済』だ。瀬戸君は、私が授けた『エスケープ・ベロシティ(脱出速度)』という台本通りに加速した。北の果ての廃屋で、私が調合した『青い結晶』を自ら仰いだ時、彼は最期に、私の顔を見て感謝の言葉を遺したよ。……日常という名の地獄から解放してくれて、ありがとう、とな」


「嘘よ!」

 あこの声が、室生の言葉を切り裂いた。

「二人は生きたがっていた。現場に残されたあの手袋も、レコードも……明日の朝を信じていた証拠よ! あなたが二人の人生を、自分の歪んだ自己満足のために、無理やりピリオドで終わらせたのよ!」

 

 室生の手から、細身のナイフが滑り落ちるように現れた。その刃先には、三日前に祖父を襲った時のものと同じ、どす黒い沈殿物が付着している。

「さあ、カーテンコールだ、警部。君の死をもって、この『第三町田高校心中事件』は、完全無欠な神話として結実する。君の血こそが、最後の一滴のインクだ」

 室生が、獣のようなしなやかさで突進してきた。

 あこは警棒でナイフの刺突を弾く。金属音が夜の静寂を切り裂き、火花が散った。

 室生の動きは、狂信的な情熱に突き動かされていた。彼は単なる殺人者ではない。自らが創造した「物語」を完璧にするためなら、己の破滅すらもエピローグとして受け入れる狂気そのものだった。

「脚本家の傲慢よ、室生! 現実は、あなたの原稿用紙の上じゃない!」

 あこの連打が室生の肩を捉えるが、彼は痛みすらも舞台演出の一部であるかのように笑い飛ばす。鋭い刃先があこの頬をかすめ、一筋の紅い線が走った。


 その瞬間だった。

 ずっと好機を窺っていたもみじが、銀色の弾丸となって、室生の足元へ飛び込んだ。

「もみじ!」

 もみじの鋭い牙が、室生の足首を正確に貫いた。伝説の刑事・耕介から「守れ」と託された小さな命が、演出家の足元を掬う。

 想定外の『ノイズ』に、室生が初めて苦悶の声を上げ、体勢を崩した。

「……計算外だったか?」

 あこはその隙を逃さなかった。

 室生のナイフを払いのけ、その腕を冷徹な力で捻り上げる。コンクリートの床に彼を組み伏せると、あこは自らの怒りと誇りのすべてを込めて、手錠を叩きつけた。

 ガチリ、という硬質な音が、幻想の終焉を告げた。

「……脚本の打ち切りよ、室生。あなたの物語は、ここで終わり。これからは冷たい独房の壁に向かって、自分の薄っぺらな台詞を反芻していなさい」

 室生は顔を床に押し付けられたまま、なおも虚空を見つめ、掠れた声で呟いた。

「……素晴らしい。悪役が敗北し、正義が勝利する。あまりに凡庸で、完璧な、デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)だ……」

「黙りなさい。これは物語じゃない。私たちの、泥臭い現実よ」

 夜明け前の町田の街に、パトカーのサイレンがいくつも重なり、遠くから響き渡る。

 屋上の縁に立ち、あこは汚れを払ったもみじを強く抱き上げた。

 二人の遺体が見つかった北の空を見上げると、そこにはもう、凍てついた絶望の霧はかかっていなかった。暗雲の隙間から、薄桃色の朝焼けが静かに、しかし力強く差し込み始めていた。

「……おじいちゃん、終わったよ。二人の時間は、もう誰にも汚させない」

 英語教師と生徒の、禁断の恋から始まった長い逃避行。

 それは、一人の狂った演出家によって死の淵へと誘導された、あまりに残酷な道程だった。

 だが、あこが取り戻したのは、彼らの死の「意味」だけではない。

 二人がかつて、町田の教室で、雪の廃屋で、確かに通わせたはずの、脚本には書き得ない「生」の微熱だった。

 パトカーの赤色灯が、冬の街を朝の色へと塗り替えていく。

 あこともみじは、自分たちの「今日」を生きるために、ゆっくりと階段を下り始めた。

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