第10話:脚本家の指先
久保寺耕介が襲撃されてから、三日が過ぎた。
町田市内の病院、四階の特別病棟。廊下に漂う重苦しい消毒液の匂いと、心電図が刻む無機質な電子音だけが、世界の静止を辛うじて否定していた。
あこは、リュックの中に潜ませたもみじの温もりを背中に感じながら、祖父の枕元に座り続けていた。伝説の刑事と呼ばれた男の顔は、今は透き通るほどに白く、全身に巻かれた包帯が「暴力の爪痕」を無言で告発している。
不意に、耕介の指先が痙攣するように動いた。
「……あこ、か」
ひび割れた大地のような声。あこは反射的にその手を握りしめた。
「おじいちゃん! 喋っちゃダメ、まだ安静に……」
「いいから、聴け」
耕介の瞳に、かつての鋭い光が宿った。それは死の淵から情報を持ち帰った狩人の眼光だった。彼は肺に残った僅かな酸素を絞り出すように、あの夜の「怪物」について語り始めた。
「奴は……確信犯だ。事務所に入ってきた時、殺気の欠片もなかった。まるで、散歩の途中に自分の書斎へ戻るような、あまりに自然な足取りで私の背後に立ったんだ」
あこは息を呑んだ。もみじがリュックの隙間から鼻を出し、耕介の包帯に顔を寄せて低く唸る。犬の鼻は、そこから漂う微かな「金属質の甘い匂い」を、正確に記憶へ刻んでいた。
「奴の顔は……眼鏡の奥の目だけが、今も網膜に焼き付いている。あれは復讐者の目じゃない。愛する者を失った悲しみもない。ただ、チェス盤の駒が、自分の想定通りに壊れていくのを眺める『観客』の目だ」
耕介は一度激しく咳き込み、吐血混じりの唾液を飲み込んだ。
「奴が去り際、私の耳元で囁いた。『瀬戸は、最期に古英語(Old English)で愛を誓ったよ』と。……あこ、奴は瀬戸と澪の最期を、特等席で看取っていたんだ。二人が誰にも聞かれないはずの極限状態で交わした、授業でも一度も使わなかった死のフレーズを……奴は悦に入って反芻していた」
背筋に冷たい氷柱が突き刺さるような感覚。それは二人の逃避行が、最初から最後まで、一文字の狂いもなく犯人の「脚本」通りに進行していたことを意味していた。盗聴器、GPS、そして精神的な誘導。犯人は、二人の孤独を餌に、最高の悲劇を飼育していたのだ。
「……そして、奴の左手首だ。勤続十年の表彰で贈られる、第3町田高校の特注腕時計があった。風防はひび割れていたが、あの方位磁石を模した文字盤は間違いない。犯人は……あの学校の中にいる」
あこの脳裏に、教職員名簿の顔写真が高速でフラッシュバックする。瀬戸の隣で微笑んでいた同僚、澪の相談に乗っていた教師。あの温厚そうな顔の裏で、彼らの絶望を「作品」として編集していた悪魔が、今も平然と息をしている。
「捜査を続けろ、あこ。奴は次に、物語の完結を邪魔する者を『悪役』に仕立てて排除しようとする。……もみじ、あこを頼んだぞ。この子は、少しばかり正義感が強すぎる」
耕介はそこまで言うと、力尽きたように深い眠りへと落ちていった。握りしめていた手の力が抜け、あこの手のひらには、祖父が流した血の、乾いた感触だけが残った。
あこは立ち上がり、もみじを抱き上げた。
「おじいちゃん、わかったわ。その『観客』、自分が舞台に引きずり出される脚本は、想定外だったはずよ」
病室を出るあこの瞳には、もはや涙はなかった。あるのは、久保寺家の血筋が呼び覚ました、獲物を追い詰めるための冷徹な熱狂だけだ。
目的地は一つ。休校中の第3町田高校、その最深部。
犯人が「真の記録」を綴っているであろう、血塗られた編集室を暴き出すために。




