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放課後のエスケープ・ベロシティ  作者: 水前寺鯉太郎


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第1話:聖職者の墜落

第3町田高校、午後四時。冬の西日は、チョークの粉が舞う教室を、凝固しかけた血のようなオレンジ色に染めていた。

 英語教師、瀬戸は神経質な指先で眼鏡を直す。目の前には、白地に赤インクが斑点のように散る答案用紙。関係代名詞のミス。初歩的で、そして意図的な間違いだ。

「……わざとだな、佐々木」

 抑揚を殺した声。七年間、この街の湿気に中てられながら繰り返してきた『教師の声』。だが、佐々木澪はその声の裏側にある「疲れ」を見透かしていた。

「そうしないと、先生は私の名前を呼ばないでしょう?」

 澪は机に肘をつき、細い顎を手に乗せた。受験という狂騒から切り離された彼女の瞳は、凪いだ水面のように静かだ。

 彼女の家が「空洞」であることを、瀬戸は知っている。ネグレクトという言葉では片付けられない、生活音の途絶えた沈黙の家。一方、瀬戸の人生もまた、無機質なカリキュラムの反復に過ぎなかった。

「茶化すな。俺は君を卒業させる義務がある」

「『先生』の仮面が割れたら、何が残るんですか?」

 澪の指が、教卓の上の瀬戸の手の甲をなぞった。静電気が弾ける。それは、彼が築き上げてきた平穏なキャリアに走る亀裂の音だった。

(これは子供だ。守るべき弱者だ)

 脳内の倫理観が警報を鳴らす。だが、その指の冷たさが、瀬戸の中に眠っていた「一人の男」を叩き起こした。町田の雑踏に埋もれ、ただ摩耗するだけの自分を、剥き出しの存在として定義してくれるのは、この壊れかけた少女だけだった。

「……やめろ、佐々木」

「澪、って呼んで。呪文みたいに」

 瀬戸は視線を窓の外へ投げた。校庭では運動部が「正しい未来」に向かって叫んでいる。あちら側は光。こちらは、毒のように甘い沈黙。一度でもこの空気を肺に入れれば、もう真っ当な世界では呼吸ができない。

「澪。明日、学校へ来るな」

 彼女の肩が微かに揺れた。拒絶と絶望が瞳をよぎる。しかし、瀬戸はポケットの中の車の鍵を、自らの息の根を止めるかのように握りしめた。

「小田急線、下りホーム。5時12分、始発。……俺はそこにいる」

 翌朝、午前4時45分。町田は深い霧の底にあった。

 瀬戸は独身寮の安物の机に、職員室の鍵と一通の封筒を残してきた。退職届ではない。それは社会的な死の届出だ。

 駅へ向かう道すがら、肺に刺さる冷気が心地よい。もう、ネクタイで喉を絞める必要はない。

 5時10分。改札を抜け、誰もいないホームに降り立つと、そこには紺色のコートを着た澪がいた。制服ではない。どこか不釣り合いで、安っぽい背伸びをした私服。その姿に、瀬戸は強烈な加害の意識と、それを上回る救いを感じた。

「先生」

 霧の向こうから、鉄路を削る震動が伝わってくる。闇を切り裂くヘッドライトが、二人の影をアスファルトに長く、残酷なほど鋭く焼き付けた。

 電車が滑り込み、ドアが開く。その向こう側には、もう「教師」も「生徒」もいない。あるのは、剥き出しの罪と、それ以上に眩い自由という名の地獄だ。

「行こう。忘れ物はないな」

「……はい」

 瀬戸は澪の冷え切った手を、決して離さない強さで握りしめた。

 これが、長い逃避行の、そして世界の終わりへの、始まりだった。

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