質量低下現象
朝、目が覚めたとき、世界はほんの少しだけ軽くなっていた。
それは、風が軽いとか、空気が澄んでいるとか、そういう意味じゃない。
もっと物理的な──けれど説明のつかない軽さだった。
体を起こす。
布団がやけに薄く感じた。昨夜と同じはずなのに、何かが違う。
枕元のスマートフォンに手を伸ばす。指先の感触が、わずかに頼りない。
落としそうになって、慌てて握り直した。
軽い。
それだけじゃない。
握っている「自分の手」まで軽い。
まるで、重さという概念が、世界から少しずつ削られているみたいだった。
僕は立ち上がった。
床を踏む感覚が薄い。足裏が接地しているのに、体重が乗っていないみたいだ。
不安、というよりも、奇妙な空白に近い感覚だった。
窓を開ける。
カーテンが、ほとんど抵抗なく揺れた。
外ではいつも通り、車が走っている。人が歩いている。
だけどどれも、わずかに現実感が薄い。
テレビをつける。
ニュースキャスターが、落ち着いた声で言っていた。
「本日未明より、世界各地で『質量低下現象』が確認されています」
リモコンが手から滑り落ちた。
床に当たったはずなのに、音がほとんどしない。
「専門家によりますと、すべての物質の質量が、平均して約三パーセント減少していると見られています」
三パーセント。
たったそれだけ。
なのに世界は、確かに変わっていた。
僕はテーブルに置いてあったコップを持ち上げた。
水が入っているのに、ほとんど重さを感じない。
試しに、ほんの少し指を離す。
コップは、ゆっくりと傾き、ゆっくりと落ちた。
スローモーションみたいに。
割れない。
音もしない。
ただ、そこにある。
ニュースは続いていた。
「人体への影響は現時点で不明ですが、直ちに健康被害が出る可能性は低いと見られています」
僕はソファに座った。
沈み込みが浅い。クッションが僕を支えていないみたいだ。
支えられていないのに、落ちない。
重さがないから。
そのとき、ふと思った。
もしこのまま減り続けたら?
質量が、どんどん小さくなったら?
僕は軽くなり続けるのか。
存在の重さが、薄くなり続けるのか。
どこまでいったら、僕は僕じゃなくなるんだろう。
昼前には、街全体が少し変わっていた。
歩く人の足取りが、わずかに浮ついている。
子どもたちが跳ねると、やけに高く上がる。
電車は通常運行。
事故は起きていないらしい。
誰もが同じ三パーセントを失っているから。
公平な軽さ。
僕は駅まで歩いた。
改札を抜ける。カードをタッチする指先が、空気みたいだ。
ホームに立つ。
電車が入ってくる。
ブレーキ音が、いつもより短い。
慣性が弱い。
ドアが開く。
人が乗り降りする。
誰もが、少しだけ軽い。
僕は吊り革をつかんだ。
引っ張られる力が、ほとんどない。
つかまっている意味が薄い。
それでも、人はつかまる。
習慣だから。
僕は車窓に映る自分を見た。
そこには確かに僕がいる。
でも、ほんの少しだけ、存在感が薄い。
写真の露出を上げすぎたみたいに。
輪郭がぼやけている気がする。
その瞬間、奇妙な確信が生まれた。
僕は、減っている。
体重じゃない。
体積でもない。
もっと別の何か。
存在の密度。
電車が揺れる。
でも揺れは弱い。
すべてが、弱くなっている。
世界が、ほどけていく方向に進んでいるみたいだった。
午後、会社に着いた。
同僚が言った。
「なんか、変な感じですよね」
「軽いよね」
「うん、軽い」
言葉が空中に浮かぶ。
意味まで軽い。
パソコンのキーを打つ。
指の抵抗が薄い。
文字が画面に現れる。
それだけ。
重みがない。
責任も、緊張も、少し薄れている。
ミスしても、世界は同じくらい軽いままだろう。
誰も怒らないかもしれない。
怒っても、軽い。
すべてが軽い。
僕はふと考えた。
もし、質量がゼロになったら?
僕はどうなる?
浮くのか。
消えるのか。
広がるのか。
あるいは──最初から何もなかったことになるのか。
帰り道、夕焼けが出ていた。
光が、妙に淡い。
色にも重さがあったのだと、そのとき初めて気づいた。
空の赤が、少し薄い。
雲が軽い。
世界全体が、存在を主張しなくなっている。
それでも人は歩く。
店は開く。
信号は変わる。
世界は続いている。
重さが減っても。
意味が薄れても。
夜、部屋に戻る。
椅子に座る。
沈まない。
テーブルに手を置く。
接触が浅い。
僕は自分の胸に手を当てた。
心臓は動いている。
鼓動はある。
でも、それも少し軽い。
生きている実感が、ほんの少し減っている。
僕は思う。
重さって、何だったんだろう。
体重?
責任?
痛み?
後悔?
愛情?
もしそれらすべてに質量があるなら、
世界が軽くなるということは、
僕たちは、
少しずつ、
何を失っているんだろう。
窓の外を見る。
街の光が、静かに滲んでいる。
僕は手を伸ばした。
空気に触れる。
何もないはずの場所に、確かに世界がある。
軽くなった世界がある。
そして、その中に、
軽くなった僕がいる。
それでも僕は、ここにいる。
少し減っても。
少し薄れても。
存在している。
──たぶん。
僕は目を閉じた。
もし明日、さらに軽くなっていたら。
もし一年後、ほとんど重さがなくなっていたら。
それでも僕は、自分を僕だと言えるだろうか。
あるいは。
重さがなくなったとき。
僕はようやく、
何にも縛られない存在になれるのだろうか。
それとも。
何にもなれなくなるのだろうか。
夜は静かだった。
そして世界は、
ほんの少しだけ、
確かに軽かった。




