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五分で読める AI短編小説集

質量低下現象

作者: アイキカイ
掲載日:2026/02/23

 朝、目が覚めたとき、世界はほんの少しだけ軽くなっていた。

 それは、風が軽いとか、空気が澄んでいるとか、そういう意味じゃない。

 もっと物理的な──けれど説明のつかない軽さだった。

 体を起こす。

 布団がやけに薄く感じた。昨夜と同じはずなのに、何かが違う。

 枕元のスマートフォンに手を伸ばす。指先の感触が、わずかに頼りない。

 落としそうになって、慌てて握り直した。

 軽い。

 それだけじゃない。

 握っている「自分の手」まで軽い。

 まるで、重さという概念が、世界から少しずつ削られているみたいだった。

 僕は立ち上がった。

 床を踏む感覚が薄い。足裏が接地しているのに、体重が乗っていないみたいだ。

 不安、というよりも、奇妙な空白に近い感覚だった。

 窓を開ける。

 カーテンが、ほとんど抵抗なく揺れた。

 外ではいつも通り、車が走っている。人が歩いている。

 だけどどれも、わずかに現実感が薄い。

 テレビをつける。

 ニュースキャスターが、落ち着いた声で言っていた。

「本日未明より、世界各地で『質量低下現象』が確認されています」

 リモコンが手から滑り落ちた。

 床に当たったはずなのに、音がほとんどしない。

「専門家によりますと、すべての物質の質量が、平均して約三パーセント減少していると見られています」

 三パーセント。

 たったそれだけ。

 なのに世界は、確かに変わっていた。

 僕はテーブルに置いてあったコップを持ち上げた。

 水が入っているのに、ほとんど重さを感じない。

 試しに、ほんの少し指を離す。

 コップは、ゆっくりと傾き、ゆっくりと落ちた。

 スローモーションみたいに。

 割れない。

 音もしない。

 ただ、そこにある。

 ニュースは続いていた。

「人体への影響は現時点で不明ですが、直ちに健康被害が出る可能性は低いと見られています」

 僕はソファに座った。

 沈み込みが浅い。クッションが僕を支えていないみたいだ。

 支えられていないのに、落ちない。

 重さがないから。

 そのとき、ふと思った。

 もしこのまま減り続けたら?

 質量が、どんどん小さくなったら?

 僕は軽くなり続けるのか。

 存在の重さが、薄くなり続けるのか。

 どこまでいったら、僕は僕じゃなくなるんだろう。

 昼前には、街全体が少し変わっていた。

 歩く人の足取りが、わずかに浮ついている。

 子どもたちが跳ねると、やけに高く上がる。

 電車は通常運行。

 事故は起きていないらしい。

 誰もが同じ三パーセントを失っているから。

 公平な軽さ。

 僕は駅まで歩いた。

 改札を抜ける。カードをタッチする指先が、空気みたいだ。

 ホームに立つ。

 電車が入ってくる。

 ブレーキ音が、いつもより短い。

 慣性が弱い。

 ドアが開く。

 人が乗り降りする。

 誰もが、少しだけ軽い。

 僕は吊り革をつかんだ。

 引っ張られる力が、ほとんどない。

 つかまっている意味が薄い。

 それでも、人はつかまる。

 習慣だから。

 僕は車窓に映る自分を見た。

 そこには確かに僕がいる。

 でも、ほんの少しだけ、存在感が薄い。

 写真の露出を上げすぎたみたいに。

 輪郭がぼやけている気がする。

 その瞬間、奇妙な確信が生まれた。

 僕は、減っている。

 体重じゃない。

 体積でもない。

 もっと別の何か。

 存在の密度。

 電車が揺れる。

 でも揺れは弱い。

 すべてが、弱くなっている。

 世界が、ほどけていく方向に進んでいるみたいだった。

 午後、会社に着いた。

 同僚が言った。

「なんか、変な感じですよね」

「軽いよね」

「うん、軽い」

 言葉が空中に浮かぶ。

 意味まで軽い。

 パソコンのキーを打つ。

 指の抵抗が薄い。

 文字が画面に現れる。

 それだけ。

 重みがない。

 責任も、緊張も、少し薄れている。

 ミスしても、世界は同じくらい軽いままだろう。

 誰も怒らないかもしれない。

 怒っても、軽い。

 すべてが軽い。

 僕はふと考えた。

 もし、質量がゼロになったら?

 僕はどうなる?

 浮くのか。

 消えるのか。

 広がるのか。

 あるいは──最初から何もなかったことになるのか。

 帰り道、夕焼けが出ていた。

 光が、妙に淡い。

 色にも重さがあったのだと、そのとき初めて気づいた。

 空の赤が、少し薄い。

 雲が軽い。

 世界全体が、存在を主張しなくなっている。

 それでも人は歩く。

 店は開く。

 信号は変わる。

 世界は続いている。

 重さが減っても。

 意味が薄れても。

 夜、部屋に戻る。

 椅子に座る。

 沈まない。

 テーブルに手を置く。

 接触が浅い。

 僕は自分の胸に手を当てた。

 心臓は動いている。

 鼓動はある。

 でも、それも少し軽い。

 生きている実感が、ほんの少し減っている。

 僕は思う。

 重さって、何だったんだろう。

 体重?

 責任?

 痛み?

 後悔?

 愛情?

 もしそれらすべてに質量があるなら、

 世界が軽くなるということは、

 僕たちは、

 少しずつ、

 何を失っているんだろう。

 窓の外を見る。

 街の光が、静かに滲んでいる。

 僕は手を伸ばした。

 空気に触れる。

 何もないはずの場所に、確かに世界がある。

 軽くなった世界がある。

 そして、その中に、

 軽くなった僕がいる。

 それでも僕は、ここにいる。

 少し減っても。

 少し薄れても。

 存在している。

 ──たぶん。

 僕は目を閉じた。

 もし明日、さらに軽くなっていたら。

 もし一年後、ほとんど重さがなくなっていたら。

 それでも僕は、自分を僕だと言えるだろうか。

 あるいは。

 重さがなくなったとき。

 僕はようやく、

 何にも縛られない存在になれるのだろうか。

 それとも。

 何にもなれなくなるのだろうか。

 夜は静かだった。

 そして世界は、

 ほんの少しだけ、

 確かに軽かった。

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