剣をにぎるには、まだ小さすぎる手
息子が歩き始めたのは、思っていたよりずっと早かった。
春先。
庭の土はまだ少し湿っていて、草先には朝露が残っている頃やったと思う。
「……あ、あ、あ」
短い足でふらふらしながら、何かを目指して一直線。
その目はもう完全に――獲物ロックオンの目。
「ちょ、ちょっと待ち!?
そっちは危ない!!」
母の制止などお構いなしに、息子――
ユリウス(エドウィンが名付けた。由来を聞いても「響きだ」で終わる。ほんまそれだけ)――は、
庭の隅、物干し台の横に立てかけてあった木剣に突撃。
ガシッ。
掴んだ。
バランス崩した。
前のめりに倒れた。
ほんで、ワンテンポ遅れて――泣いた。
「早すぎやろ、成長!!!」
抱き上げながら思う。
昨日までハイハイやったやろ!?
なんで今日、剣目指して歩いとんねん!!!
土の匂い。
木剣のささくれ。
春のぬるい風に混じる、ミルクの甘い匂い。
――これが、我が家の日常である。
⸻
ユリウスは、とにかく元気だった。
朝起きた瞬間から全力。
窓から差し込む朝日を浴びて、即フルスロットル。
昼寝?
何それ美味しいの?
夕方には泥だらけ。
夜は、電池が切れたみたいに突然寝る。
村の道は舗装なんてされてへんから、
一歩外に出たら靴も裾も即アウト。
でも本人はまったく気にせぇへん。
転んで泣いて、すぐ笑って、また走る。
それで一番厄介なのが――
エドウィンの真似をしたがること。
エドウィンが庭で剣の素振りをしてたら、
同じ角度で、同じように腕を振ろうとするし。
膝立ちで剣を手入れしてたら、
隣にちょこんと座って、
棒切れを布で拭き拭き。
真似しながら、真剣な顔で。
「パパ、ぼくもできたよ!」
――それを聞いた瞬間の、エドウィンの顔よ。
いやもう、溶ける。
完全に溶けてる。
剣を振るう時の鋭さなんて影も形もなくなって、
表情も声も、全部やわらかくなる。
ああいう時に使うんやな。
**「骨抜き」**って言葉は。
⸻
……で。
問題はここから。
エドウィン、村の剣術師範やけど――
強さが、どう考えてもおかしい。
最初はな、
「まあ、師範やしな」
で済ませとった。
村の若者相手に強いのは当然。
剣の扱いが洗練されてるのも、長年の鍛錬やろ。
……って、思うやん?
でもな。
若者三人相手に、木剣一本で無傷。
警備隊との模擬戦、三戦三勝、しかも秒殺。
土煙も上がらへん。
音も、ほとんどせぇへん。
気づいたら、全員、地面に転がってる。
村人A
「……師範、今日、加減してました?」
エドウィン
「していない」
村人B
「……嘘だろ?」
私
「私もそう思う」
⸻
そして、極めつけ。
ある日。
ユリウスが庭で転んで、
木箱の角に頭をぶつけそうになった――その瞬間。
エドウィン、**瞬間移動したんか?**って速度で、
ユリウスを抱き上げた。
ほんまに。
風、鳴ったで。
空気が裂ける音、したもん。
「……今の、見た?」
「……見た」
「……人間やんな?」
「……たぶん」
思わず、家に遊びに来ていた村のおばあちゃんと、
顔を見合わせて確認してもうたわ。
エドウィンは、こういう話になると、必ず話を逸らす。
「訓練の賜物だ」
「昔の癖だ」
「大したことはない」
……いや。
大したことしかないんやけど!?
でも、それ以上は聞かんかった。
理由は単純で――
エドウィンを信じてるから。
誰よりも穏やかで、
誰よりも家族を大切にする人やから。
それで、十分やった。
⸻
ユリウスが三歳になった頃。
完全に、剣にハマった。
棒を見たら剣。
木切れも剣。
スプーン? 剣。
パン? 一瞬剣。
「それ剣ちゃう!!
食べ物!!!」
注意しても、
キラキラした目で言う。
「ぼく、きしになる!」
……来たな。
ついに来たか、このセリフ。
「なんで騎士なん?」
そう聞いたら、
「パパ、つよい!」
「みんなをまもってる!」
「かっこいい!」
……ずるいわ。
そんな真っ直ぐな理由、反則やろ。
エドウィンは、その言葉を聞いて一瞬、固まった。
そして静かにしゃがみ込み、
ユリウスの目線に合わせて言う。
「騎士はな」
「剣が振れたらええわけやない」
「守る覚悟がいる」
「逃げない心がいる」
ユリウスは、ちゃんと聞いてた。
意味が全部分からんくても、
言葉の重さは、きちんと受け取ってた。
「……うん!」
その力強い返事に、
胸の奥が、少しだけ、きゅっとなった。
⸻
その夜。
ユリウスが寝たあと、
窓の外では虫の声。
ランプの火が、静かに揺れていた。
「……あの子、ほんまに騎士目指すかもな」
私がそう言うと、
エドウィンはしばらく黙ってから――
「……なら、大切なものを守れる騎士に育てる」
それだけ答えた。
強くて、静かで、
覚悟のある声。
その背中を見ながら、私は思う。
――この幸せが、
いつまでも続けばいいのに。




