第一話
本作は、しいなここみ様の『朝起きたら企画』参加作品です
――死ねば楽になれるのかな。
午後八時の橋の上。空は曇っていて、月も見えない。
川野翔太は、真下を流れる川を虚ろな目で見ていた。広く深い川。はっきりと聞こえる水の音。制服のままで飛び込めば、確実に死ねるだろう。翔太は泳げない。間違いなく溺れ死ぬ。
制服の下は、痣だらけだった。同じクラスの五味秀一に、散々殴られ、蹴られた痕。それだけじゃない。アルバイトをさせられ、給料を全て巻き上げられている。教室の中でいたぶられ、晒し者にされている。
今日なんて、五味が連れて来た女子達に校舎裏で囲まれ、オナニーをさせられた。五味は翔太のスマートフォンを奪い取り、怪しい動画サイトにアクセスし、無修正動画を再生させた。
「ほら、オカズがあればできるだろ?」
ニヤニヤと笑う五味。彼は、隣りにいる飯田愛香の肩を抱いていた。
高身長で顔も整っており、運動神経もいい五味。スレンダーで誰の目も引く美女の、飯田愛香。二人は似合いの恋人同士だった。外見だけではなく、その性格の悪さも。
翔太も、最初は五味の命令を拒んだ。すると、徹底的に暴行を加えられた。苦痛に耐え切れなくなり、翔太は、彼等の前でパンツを下ろした。
泣きながら男性器を擦り、泣きながら射精した。
翔太を囲んだ奴等は、皆、爆笑していた。翔太の無様で惨めな姿を、全員で嘲っていた。
泣きながら、翔太は、この世の理不尽を呪っていた。どうして自分は、こんな奴に生まれてしまったのか。背は低く、顔もよくない。運動神経も悪い。頑張って勉強しているが、それほど頭もよくない。
人生に絶望していた。もう誰とも関わりたくなかった。帰り道で考えた。どうしたら、この苦しみから解放されるのだろう。悩む翔太の目に、橋の下の川が飛び込んできた。
――ここから飛び降りたら、楽になれるのかな。
そうだ。きっと楽になれる。苦しいのは一瞬で、すぐに地獄から解放される。今の人生という地獄から。
「おい、坊主」
川に吸い込まれそうな気分で下を見ていると、唐突に、後ろから声を掛けられた。
ハッとして、翔太は振り向いた。
七十前後だと思われる老人が、そこに立っていた。右手に、直径五センチほどのガラス玉のような物を持っている。
「何ですか?」
地獄からの逃亡を、邪魔しないでほしい。胸中で愚痴を漏らしつつ、翔太は訊いた。
老人は、右手に持ったガラス玉を翔太に差し出してきた。
◇
「は?」
平日の朝。
ベッドの上で目を覚ますと、飯田愛香は、無意識のうちに声を漏らした。
馴染みのない天井が視界に入っていた。目が覚めたばかりだというのに、意識が鮮明になった。半身を起こす。キョロキョロと、周囲を見回した。
六畳間ほどの部屋。寝ているのは、窓際のベッド。折りたたみのテーブルが、壁の付近にある。本棚には、漫画や小説、参考書。
間違いなく自分の部屋ではなかった。
愛香は頭を押さえ、自分の記憶を呼び起こした。
昨日は、放課後に、同じクラスの翔太を校舎裏に呼び出した。恋人の五味や他の女子達と翔太を嬲り、最後にオナニーをさせた。彼の無様な姿を、皆で笑った。
一通り笑うと、下半身裸の翔太を放置して、学校を出た。五味と一緒にカラオケボックスに行った。いい雰囲気になったので、監視カメラの死角に隠れてセックスをした。セックスは気持ちいい。スリルのある場所ですると、一層燃える。
愛香と同様に、五味も夢中になっていた。彼は、性の快楽に貪欲だ。異常と言えるほどに。愛香と付き合い始めてから、色んな場所でセックスをしている。
五味と散々楽しんだ後、カラオケボックスから出た。その時点で、時刻は、確か午後八時過ぎだった。
けれど、その後のことが思い出せなかった。
ここは誰の家なのか。五味の家でもないようだ。彼の家には何度か行ったことがあるが、こんな部屋ではなかった。
愛香はベッドから降りて、部屋の戸を開けた。目の前に玄関。どうやら、アパートの一室のようだ。家全体が、どこか安っぽくて古くさい。
部屋を出て右側に、また戸があった。開けると、リビングダイニングだった。この家の間取りは、二DKのようだ。
知らないおばさんが、台所で洗い物をしていた。戸を開けた愛香に気付くと、水道の水を止め、にっこりと笑いかけてきた。
「あら。起きたの? 私はもう仕事行くから、あんたも気を付けて学校に行ってね」
おばさんは手を拭いて、出掛ける準備を始めた。なぜ、知らないおばさんが、愛香にそんなことを言ってくるのか。まったく意味が分からない。
リビングダイニングに入って左側を見ると、洗面所や浴室があった。
洗面所にある鏡が見える。けれど、映っているものがよく見えない。かなりかすんで見える。まるで、一晩で視力が急低下したように。
目を擦り、愛香は鏡に近付いた。映っているものが、はっきりと見える距離まで。
「……は」
またも愛香は、間抜けな声を漏らした。
目の前にあるのは、間違いなく鏡だ。自分の姿を映し出す物。自分が左手を動かすと、鏡の中の自分は右手を動かす。自分が口を開けると、鏡の中の自分も口を開ける。
だが、鏡に映っているのは、愛香ではなかった。
川野翔太。クラスの中でも、圧倒的ないじめられっ子。五味や愛香も、毎日彼をいじめていた。そんな男が、鏡に映っていた。
「翔太、行ってくるね」
おばさんが――翔太の母親であろう女性が、こちらに声をかけて家から出ていった。ガチャンと、玄関のドアが閉まる音。
それから、十数秒ほど経って。
愛香の口から漏れたのは、あまりに滑稽な言葉だった。
「嘘でしょ? 夢だよね?」
もちろん、夢ではなかった。
ガタガタと体が震える。漫画のような光景が目の前に広がっていて、現実感がない。
震える手で、愛香は、自分の頬に――翔太の顔に触れてみた。触った感覚が確かにある。これは現実なのだと、頬の感触が物語っている。
次の瞬間。
「――!?」
愛香の頭の中に、翔太の記憶が流れ込んできた。物心ついたときから昨日までの記憶。
幼い頃、父親が家から出て行った。それから母親と二人暮らしだった。小学校までは普通に暮していたが、中学に入った頃からいじめられ始めた。高校に進学して、ようやくいじめから逃れられたと思った。それなのに、さらに酷いいじめに遭った。殴られる痛み。バイトで稼いだ金を巻き上げられる悔しさ。でも、悔しさ以上に怖い。惨めだけど逆らえない。辛くて辛くてたまらない。
痛い。辛い。苦しい。怖い。悔しい。悲しい。
もう死にたい。
記憶とともに伝わってくる、翔太の気持ち。
もっとも、愛香にとって、翔太の苦痛などどうでもよかった。底辺を這いつくばっている翔太ような男は、いじめられて当然とさえ思えた。
愛香にとって重要なのは、翔太の昨日の記憶だった。
辛い人生から逃げ出したい。橋の上から川を見て、飛び込もうと考えた。
そんなときに、老人に声を掛けられた。直径五センチほどのガラス玉を渡された。
「自分以外の誰かになれたら、生きる気にもなるだろう?」
老人はニヤリと笑った。決して優しい笑みなどではなかった。外見も年齢もまるで違うが、翔太をいじめているときの五味に似ていた。
「その玉に念じれば、人の心と体を入れ替えることができる。使い方によっては、自分と誰かを入れ替えるだけじゃなく、他人同士も入れ替えることができる」
ここまでの記憶はあまりに鮮明で、愛香自身が体験したことのように思えた。今は愛香が翔太なのだから、愛香自身の記憶と言っても間違いではないのだろうが。
翔太の記憶は、そこで途切れていた。それ以降、ベッドで目が覚めるまでの記憶がない。
確実に言えるのは、翔太が受け取ったガラス玉には、本当に他人同士を入れ替える効果があるということだ。実際に、愛香は、翔太の体に入っている。
では、愛香の体には誰が入っているのか。
当たり前に考えるなら、翔太だろう。愛香と翔太が入れ替わった。
でも、翔太にガラス玉を渡した老人が言っていた。
『使い方によっては、自分と誰かを入れ替えるだけじゃなく、他人同士も入れ替えることができる』
つまり、愛香の体に、翔太以外の人格が入っている可能性もある。
ザワリと、愛香の腕に鳥肌が立った。早くなんとかしないと。一刻も早く、自分の体を取り戻さないと。自分になった自分以外の誰かが、変なことをする前に。
焦りが、心臓の鼓動を速くした。それでも、愛香の頭は正常に働いた。二つのやるべき事が、明確に浮かび上がった。
一つは、翔太が誰になったのか突き止めること。彼と接触しなければ、自分の体を取り返すことはできない。
もう一つは、自分の体に入っているのが誰なのか、突き止めること。入った人格によっては、自分の体が滅茶苦茶な使い方をされてしまう。
そのためには、どうしなければならないか。
決まっている。学校に行かなければいけない。
翔太の姿で学校に行けば、確実にいじめのターゲットになる。殴られるだろう。蹴られるだろう。昨日みたいに、皆の前でオナニーをさせられるかも知れない。
体を震わせながら、愛香は涙目になった。正常に物事を考えられるからといって、何も感じていないわけではない。
「どうして私がこんな目に……」
自分は美人だ。クラスでも中心人物だった。今は五味と付き合っているが、それは、高校生活を楽しむために彼が一番適していたからだ。大学に進学すれば縁が切れ、またそこでいい男を見つける。大学も卒業したら、何不自由ない生活を提供してくれる男を見つけ、結婚する。楽しくて、煌びやかで、誰もが羨む勝ち組の人生。
そんな人生を送れる美貌が、自分にはあった。
――それなのに!
鏡に映る、不細工で惨めな小男。これが今の自分。
言葉にできないほどの苛立ちが募る。誰にぶつけていいか分からない怒りが湧き上がる。同時に、翔太の姿で学校に行くことへの恐怖に包まれる。
それでも、行かないと。愛香は歯を食い縛った。
絶対に、自分を取り返してやるんだ。




