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『ザ・ウォッチャー』

作者: Kaiji Yasumoto

大外陣は、アパートの廊下に入ると、三つ目のドアの前で足を止めた。一〇三と示された表札、その下には、昔なら名字が表記されているはずだったが、空白となっていた。

大外は、部屋番号 一〇三のインターホンを押した。

前山杏樹が顔を出した。オフホワイトのロングスカートに、薄ピンク色のブラウスという姿だった。

「デジャヴ・コミュニティーの大外陣です。天井の修繕にやってきました」大外は感じのいい笑顔で挨拶した。彼は濃紺の作業着を着ており、手には工具箱を携えていた。作業着と工具箱は、どちらも新しいものだった。

「どうぞ入って下さい」杏樹は大外を家の中に入れた。

大外はリビングの床にわら半紙を広げると、真っ白いタオルを被せて、その上に脚立を立てた。脚立は新しいものだった。彼は脚立の横棒が外れるのを恐れているかのように、一段一段、慎重に上がっていった。

杏樹はそわそわと落ち着かなかった。新しい道具類といい、脚立の上がり方といい、大外は経験の浅い駆け出しのようで、どうにも頼りなかった。

一続きのリビングとダイニング・キッチンの天井には、七列の長い板が張られていた。そのうちのリビング側の天井板の一部が、下に湾曲していて、そこから暗い天井裏がのぞいていた。

大外は脚立の最上段に足を掛けると、湾曲した天井板を点検した。

「天井が抜けるんじゃないかと思って」杏樹は天井を見上げながら、そう漏らした。

大外は湾曲した天井板を軽く叩いたり、試すように押し上げたりしていた。表情は真剣そのものだった。

「どうですか?」杏樹は尋ねた。

大外は脚立から降りると、感じのいい笑顔で言った。「お話があるのですが」

杏樹と大外はダイニング・テーブルに座った。杏樹は麦茶を出した。大外は麦茶の入ったコップを、割れたガラスにでも触るように、ビクビクと用心しながら持つと、CMにでも出ているみたいに、大仰に飲んだ。飲み終わってコップを置くと、今ので問題なかったかと確認でもするように、杏樹を見た。

「天井はすぐに直せます。板が湿気で弱って、重力に負けたんでしょう」大外は安心させるためか、にっこり微笑んだ。「ただ、その前に聞いてほしい話があります」

「なんでしょうか?」

「ポースティンを聞いたことがあるでしょうか?」大外は尋ねた。

「ポースティン?…機械か何かですか?」

「いえ、生き物です」大外はハッキリと言った。

「生き物…聞いたことないです」杏樹は不審な顔で天井に目をやった。天井裏に何かいるのだろうか。

大外は姿勢を正すと、丁寧に説明し始めた。「ここから、話が少しややこしくなります。まず、前山さんのように、一般の方でポースティンを知っている方はまずいないでしょう。少なくとも、私は会ったことがありません。ですが、リフォーム業者の間では、誰もがポースティンを知っています。ですが、ポースティンを見た者はひとりもいません。ポースティンという共通認識を持っているだけです。『今日行った家に、ポースティンが四体もいたぞ!』『ここ半年、ポースティンなんか見てないな』みたいに、私たちの間ではシャレの類の一つとして、ポースティンの名前が出てきます」

杏樹は口を挟まなかった。「あらぬ目的のために、とんでもない創作話をしている」と警戒していた。

「私たちは、ポースティンの存在を信じています」大外は微笑んだ。まるで、ポースティンについてしゃべることが望外の喜びであるかのように。

杏樹はポカンとした。「なに言ってんだ、この人」と思った。

大外は説明を再開した。「ポースティンを見た者は一人もいないと言いましたが、その理由は単純で、ポースティンは絶対に姿を見せないからです。ポースティンはシャイで、人前に出るのが恥ずかしいんです。だから、行動する時間帯は夜中です。人の寝静まった後に、天井裏から出てきて活動する。活動するといっても、湿気の多い天井裏から出てきて、外の新鮮な空気を吸うだけです」

大外は杏樹の考えていることを読み取ろうとするかのように、彼女の顔をじっと見つめた。それから、理解のある頷き方をして、共感を示した。

「どうやってポースティンの存在を知ることができるのかと疑問に思うでしょう」大外は言った。

杏樹は無意識に身を引いた。大外の熱が肌身にチクチクと感じられたからだった。

大外は工具箱を取り上げると、中からジッパー付きの小袋を取り出した。

「何に見えますか?」大外は尋ねた。

「…灰ですか?」と杏樹は答えた。一体なにをやっているのだろうと笑ってしまいそうだった。

「実はポースティンのフンなんです」大外は正解を言った。

杏樹は驚いて、小袋を落とした。大外はフンの入った小袋を拾うと、杏樹の目に触れないように、工具箱の中にしまった。

「すいません、事前に言うべきでしたね。ですが、灰と変わるところはないんです。実際に調べてみたところ、成分はずばり灰だったんです」

「それがポースティンのいる証拠なんですか?」杏樹はむっとした気持ちを晴らそうと、語気を強めた。

「そうです」

「心もとないですね」

「実はそうなんです」大外は素直に認めた。そして下を向いて、残念そうに付け加えた。「だから、まだ正式に公表することができないんです」

杏樹の携帯が鳴った。彼女はすいませんと断って、席を立った。

「サンフラワー保険の酒田と申します。保険の変更手続きに関して、前田様の保険証の提出がまだとなっておりますので、電話させていただきました」コールの女性は明るい声で言った。

「保険?」杏樹は聞き返した。

「はい、生命保険のコース変更です」

「そんなことしてないんですけど。私が入っているのはサークル保険です」

「お客様はサンフラワー保険に先月加入されました。一月後に、自動的にサンフラワー保険に切り替わる契約となっております」

「先月? いつ?」

「マローン・モールの一階広場で開催されたサンフラワー・キャンペーンにおいて、前田様はサンフラワー保険に加入されました」

「加入してません。トートバッグと千円ギフト券をもらっただけです」

「前田様は、その時に加入されました」とコールの女性は言った。その明るく淀みのない声は、ロボットみたいな女性の声というよりも、女性みたいなロボットの声といった感じだった。

「だから、加入なんかしてません」杏樹は荒い口調になった。そして、恥ずかしい姿を見られたと、振り返って、大外を見た。

大外は、「怒って当然ですよ」と同情するように、口を閉じたまま、口角だけを上げてみせた。

杏樹は、大外の応援のおかげか、強気に出ることができた。「やめにします」とはっきりと言った。

「はい?」コールの女性はしらばくれた。そして、杏樹が言葉を発する前に、マニュアルの文章を滑り込ませた。「書類が届いていると思いますので、そちらに必要事項を記入していただき、保険証のコピーと一緒に、ポストに投函していただくことになります」

「そんな書類、とっくに捨ててます」

「では、もういちど送らせていただきますね」

杏樹は電話を切った。話にならなかった。大外を見ると、彼は労わるような笑顔を彼女に向けていた。

「保険屋にはうんざりです」杏樹は愚痴った。

「私はまだ保険屋を経験したことがなくて」大外は申し訳ないように言った。保険屋を経験していない自分はまだまだ一人前ではない、と恥ずかしがっているみたいだった。

杏樹はくすっと笑った。

「どうしましたか?」大外は聞いた。

「いえ、何でもないです。すいません、さっきの続きをお願いします」

「そうですね、さっきの続き……ポースティンの存在を、私たちは信じています。その理由は、信じないよりかは、信じたほうが幸せだからです」

杏樹は大外を見た。キッチリと後ろに撫で付けられた髪と作業着の組み合わせは、少しチグハグな気がした。あれはなんて言うんだっけ、ええと…そう、ポマード。大外さん、ポマードを付けてる。

「そして何より」大外は今から重大なことを言うぞという顔をつくった。「ポースティンは幸運を招きます! ポースティンの棲み付いた家は幸せになるんです!」

杏樹は見る角度を微妙にずらして、ポマードで固められた大外のトップの光沢具合を色々と試していた。

「私のお願いしたい事と申すのは」と大外は切り出した。「前山さんのご自宅で、しばらくポースティンの観察をさせてもらえないかと」

大外ほどの熱量ではないが、杏樹はポースティンについて興味を持ち始めていた。あるいは、それは大外自身に対する興味だったかもしれなかいが。

「天井が抜けることはないんですよね?」杏樹は天井を見上げて、聞いた。

「もちろんです。一か月に一度、チェックしますので」大外は断言した。

「いいですよ」杏樹は快諾した。

「ホントですか?」大外の目はキラキラと輝いた。

「ポースティンの観察をしてもらって結構です」杏樹はわざとクールにそう言った。


「へー」と娘の樹里は適当に返事した。杏樹がポースティンの話をしたところ、娘の返事は「へー」の一言だけだった。

娘は母親の後ろにあるテレビを見ていた。「ママ、換気扇消して。うるさいから」と母親に言った。

杏樹は言われた通り、換気扇を消した。それから、ソファに座って、テレビを見た。しかし、見えるのはテレビに映るバラエティ番組ではなくて、昼前の光景だった。ダイニング・テーブルで、大外と向かい合っている。大外は運命を決するかのような緊張感で、ポースティンについて私に説明する。二十代後半らしいが、ポマードで髪をセットしているせいで、いくぶん年上に見えた。私と同い年か私より年上の人と接しているみたいだった。よくいる日本人タイプだけど、整った顔立ちをしていた。汗は一つもかいていなかった。私は暑くて窓を開けようとしたが、大外さんはぜんぜん暑そうな様子じゃなかったから、よく覚えている。必死になってポースティンについて説明していたのに、顔つきや身振りは飄然としていた。杏樹は笑ってしまった。ぶっ飛んだ考えが頭に浮かんだ。大外さんは役者さんで、映画の役作りのために、お客さんには素姓を伏せて、リフォーム業者として働いている。櫛で丁寧に髪を梳く大外の姿、たくさん指紋の付いた鏡を眠い目で見ている、出勤前の支度、濃紺の作業着を着ている、コーヒーを魔法瓶に詰めて、部屋の中を見回す、頭の中のチェックリストに一つずつチェックマークを付けていく、腕時計を付けて、携帯と財布とカギをポケットに入れて、家を出る。

「ママ、なに笑ってんの?」樹里は母親の顔をじっと見ていた。

杏樹は口元を手で隠した。「テレビ」と適当に言った。だが、テレビには葬儀社のCMが流れていた。

樹里は一層の怪しむ目つきで、母親の杏樹を見るのだった。


杏樹が自転車を押して、会社の出口に向かっていると

「杏ちゃん、杏ちゃん」と大下さんが手を振って、やってきた。

杏樹は振り返った。「大下さん、どうしたんですか?」

「北海道に旅行に行ってきたの。これ、お土産」大下さんは白い恋人を杏樹に差し出した。

「ありがとうございます。うれしいです」

「いいの、いいの。それにしても、涼しくなってきたね」と大下さんは手の平で両腕を擦った。

「夜は冷え込みますね」

「北海道では、雪が降ってたんだよ」

「もう降ってるんだ」

「うん、パラパラと降ってた。あっという間に夏が終わって、もう冬だね」

「そうですね、時間の流れは早いですね」

「ねえ。じゃあ、お疲れ様! 風邪に気を付けてね!」大下さんは手を振りながら、会社に戻っていった。

「お疲れ様です! お土産、ありがとうございました!」杏樹は大きな声でお礼を言った。

杏樹は自転車を押して、通用口に向かった。

「杏ちゃん、お疲れ」今度は、藤堂が門番小屋の窓を開けて声をかけた。

「お疲れ」杏樹は立ち止まった。

藤堂は寒そうにポケットに両手を入れて、門番小屋から出てきた。「子どもはどう?」

「元気だよ。今年は受験だけど」

「だったな。そりゃ大変だ」

「春を迎える頃には、ガリガリになってるかも」

「杏ちゃんの子どもだから大丈夫だよ」

「だといいけど。お孫さんは元気なの?」杏樹は聞いた。

「知らねえな」藤堂はふてくされたように言った。

「知らねえって」と杏樹は笑った。

藤堂の後ろでは、社員の乗った車が、門の前で列をつくっていた。会社に面する道路は車の通りが多かった。六時を過ぎた定時上がりの時間帯は、ちょうど道路の往来も激しくなって、会社を出ようとする車が道路に出られずに、門の前で詰まってしまうのだった。藤堂の仕事は、詰まった車を道路に送り出してやることだった。だが、藤堂は長蛇の車の列を一瞥しただけで、気にかける様子もなく、杏樹と話し続けた。

「知らねえよ。元気にしてるかもしれねえし、風邪ひいてるかもしれねえ」

「ゲームでも買ってあげたら?」と杏樹は言ってみた。

「子どものくせに、何も欲しがらないんだ」

「じゃあ、USJにでも連れて行ってあげたら?」

「USJにも興味ねえ」

「じゃあ、もうアドバイスできることはなくなった」と杏樹は笑った。

彼女は車の列に目を向けた。黒色のプリウスの窓ガラスから、疲れた顔をした中年男が自分と藤堂を睨んでいた。

「みんな、こっちを見てる。仕事に戻ったほうがいいかも」杏樹は背中に冷たいものを感じながら、忠告した。

「そうだな」藤堂は肩をすくめると、のんびりと小屋の中に戻っていった。そして、誘導棒を持って出てくると、往来のど真ん中に馳せ出ては、通りの車を強引に引き止めて、門に並ぶ車を一気に吐き出した。

杏樹は自転車に乗ると、肌寒くなった空気に髪をなびかせながら、ゆっくりとペダルを漕いでいった。


杏樹が仕事から家に帰ってくると、時刻は六時半になっていた。外はすっかりと暗くなり、寒さもこの時間帯から強まってきた。

彼女は買ってきたものを冷蔵庫に入れると、ソファに座って、一息ついた。少し休憩するつもりだったが、気付くと、あっという間に六時のニュースが終わり、七時からのバラエティ番組が始まっていた。

杏樹はキッチンに立って仕事を開始することにした。モモ肉を一口サイズに切り、ボウルに入れて、調味料で味付けをした。モモ肉を揉み込んで、味をなじませると、ラップをかけて、冷蔵庫に入れた。一合の米を容器に入れて、適量の水を加えると、炊飯器にセットして、スイッチを押した。乾燥ワカメを水で戻すと、薄く切ったキュウリと一緒に和え物にした。

樹里は八時に帰ってきた。

杏樹は漬けたモモ肉を油で揚げると、千切りキャベツの隣に盛った。ご飯をテーブルに置いた。キュウリとワカメの和え物は、面倒なので、ボウルのまま出すことにした。

樹里は席に着いて、ご飯を食べ始めた。十分もすると、もう食べ終わっており、お茶を口に流し込んで、自分の部屋に戻っていった。数分もすると玄関の開く音がして、樹里はまた塾へと戻って行ったのだった。

学校から塾へ行って、夜ご飯を食べるために家に帰って、また塾へ行くのだ。杏樹は感心せずにはいられなかった。朝から深夜まで勉強なんて、考えただけでも頭がクラクラしてしまう。樹里の話だと、塾を掛け持ちしている子もいて、家庭教師に勉強を教えてもらうために学校を休んでいる子もいるらしい。「日々、世界は進歩している」とよく言うが、この頃、杏樹は強くそう感じるのだった。

杏樹はテーブルの上の紙を手に取った。先日、大外に渡された案内の紙だった。会社名:デジャヴ・コミュニティー、担当者:大外陣、そして、今後の観察予定が大まかに書き記されていた。

杏樹は連絡先の電話番号に掛けてみた。プルルルル、プルルルル、プルルルル……繋がらなかった。

彼女はスマートフォンでポースティンを調べてみた。何も出てこなかった。大外陣と打ち込んで検索してみた。だが、すぐに思い直して、検索結果が出てくる前に、慌ててタブを閉じた。

深夜、杏樹がベッドでウトウトしていると、玄関の開く音が聞こえた。デジタル時計の上ボタンを押すと、画面がオレンジ色に光った。12時24分。すぐにシャワーの音がした。

「こんな遅い時間まで大変だな」と彼女は思った。目をつむってみると、今度はすんなりと眠ることができた。


八時になっても、樹里は起きてこなかった。杏樹はノックをして、樹里の部屋に入った。樹里はふとんを頭まで被っていた。

樹里の部屋は、整頓されているとは言い難かった。ベッドの側の床には乱雑に積まれたファッション雑誌があり、窓枠の台には化粧品がずらりと並んでいた。床に口紅が転がっていたので、杏樹は拾った。イヴ・サンローランの口紅だった。「こんないいものを使って」とギョッとしながら、台の上に戻した。

机の上には、中途半端に開いたパソコン、ファイル、ノート、教科書。ノートはカラフルに彩られていた。杏樹はしばらくの間、娘のノートに見入った。化学のノートだということは分かったが、内容はさっぱりだった。

杏樹は要件を思い出した。「樹里、遅刻するよ」と娘に言った。

樹里は寝返りを打って、母親に背中を向けた。「今日、休む」とぼそっと言った。

「どうしたの?」

「頭痛い」

「熱測ったの?」

返事はない。

「お弁当あるから、お昼に食べるんだよ。水分も取るようにね。ママ、仕事に行ってくるから」

「うん」

杏樹は学校に電話をかけた。

「もしもし、前山樹里の母です。娘の樹里は体調不良のため、今日は休ませていただきます」

「前山樹里さんですね。分かりました」と電話に出た先生は言った。

「お願いします」

「失礼します。お大事に」

杏樹は仕事に行こうとバッグを持ったが、いつもより重かった。中を見ると、大下さんから頂いた北海道のお土産を入れっぱなしだった。白い恋人、帰って食べるのを楽しみにして、杏樹は家を出た。


大外は、部屋番号 一〇三のインターホンを押した。一回目、二回目、三回目。誰も出ない。大外はしばらく待って、もういちど押してみた。窓のカーテンの端が、一瞬だけ震えた。大外は見逃していなかった。だが、誰も出てこないので、立ち去ることにした。


杏樹が家に帰ると、食欲旺盛な痕跡が見受けられた。インスタント・ラーメンを作ったあとの鍋、十二個入りの白い恋人は残り一つとなっていた。杏樹は心配していたので、ほっとした。食欲があるということは、回復している証拠だった。

デジャヴ・コミュニティーからの紙が、ダイニング・テーブルに置かれていた。

「ご不在でしたので、また伺わせていただきます」

担当者は、大外陣となっていた。代表者も大外陣となっていた。

「おかえり」樹里がリビングに顔を出した。

「ただいま。体調はどんな感じ? よくなった?」

「うん」

「修理の人が来たの?」杏樹は聞いた。

樹里は頷いた。「あれを直しに来たの?」と湾曲した天井を指さした。

「まだ直さない、ポースティンの正体を掴むまでは」杏樹はそう言うと、樹里の反応をじっと見た。

「そう」としか、娘は反応しなかった。そして、「今日、ご飯いらない。早く寝るから」と言うと、部屋に引き上げていった。

杏樹はしょんぼりとした。「まだ体調がよくなってないからね」と自分に言い聞かせた。


「失礼します」大外はそう言うと、靴を脱いで、玄関に上がった。真っ白い靴下は、家に上がらせてもらうにあたっての最低限の礼儀だった。

「寒くなってきましたね」と大外は言った。

「そうですよね。家の中はわりと温かいんですけど、外は風が強くて寒いですよね。大外さん、この前はせっかく来ていただいたのに、すいませんでした」

「いえいえ。こちらこそ、事前に都合のいい日を聞いておくべきでした」

大外は作業に取り掛かった。湾曲した天井板を下に押さえて、天井裏にライトを当てた。

杏樹は彼の側に立って、同じように天井裏を見ようとした。だが、見えるのは白く飛んだライトだけだった。

「何か分かりましたか?」杏樹は尋ねた。

「ええ、それは大いに分かりましたよ」大外は満足そうに言うと、ライトを消した。

杏樹は笑った。彼と話していると、まるで生まれたばかりの赤ん坊を相手にしているみたいだった。純真で無垢で、偽りや衒いが微塵もなかった。

大外は脚立から降りると、ライトと作業用手袋を工具箱の中にしまった。

「お掛けになってください」と杏樹は言った。

大外は椅子に腰掛けると、出された麦茶を一口で飲み切った。喉が渇いていたというより、そうするのが礼儀だと考えているような、義務感のある飲み方だった。

「天井裏はホコリが多いんじゃないですか?」と杏樹は聞いた。ホコリのせいか、暖房のせいか、それとも彼女自身の何かのせいか、彼女は息が上がっていた。

「いえいえ、そういうわけではないんですが、なんせね」大外は、これ以上は聞かないでくれとでも言わんばかりに笑ってみせた。

「ポースティンはどうでしたか?」杏樹は聞いた。

「ポースティンはとてもいい奴ですよ」大外は爽やかに答えた。

杏樹はまた笑った。質問すると、いつも肩透かしを喰らったような答えが返ってきた。

「ポースティンは、とても賢いんです。自分でトイレを設けて、そこでしっかりとするんです。この前に見せた、あの灰をね」大外は嬉々として喋った。「また、少々いたずらな面もあるんです」

「いたずらな面?」杏樹は興味津々に聞いた。

「はい、あいつはイタズラが大好きなんです。イタズラせずには生きていけないんです」大外は子どもの成長を話しているみたいに、デレデレした様子で続けた。「なんというか…そう、まさにユーモアがあるってことです。もちろん、この目で見たことはありませんが。ですが、分かるんです。天井裏の闇に顔を入れると感じるんです、そこに広がるハイセンスを…そう、まさしくハイセンス、ハイレベルでハイセンスなんです……すいません、ベラベラしゃべって」

杏樹は微笑んだ。「ポースティンのことが大好きなんですね」

「まあ、そうですね」大外は顔を赤くした。

大外は杏樹の家から出ると、アパートの廊下を少し歩いたところで、壁に手を付き、大きく嘆息した。杏樹の家に長居しすぎた。体はジリジリと熱を帯び始めていた。


杏樹は、湾曲した天井板にのぞく闇をしばらく眺めていた。手でメガホンをつくって、口に当てた。「ポースティン」…返事はない。「ポースティン」…返事はない。「ポースティン、出ておいで」……返事はない。


「樹里、時間だよ」杏樹はノックをして、娘の部屋に顔を出した。「今日はいけるでしょ?」

樹里はじっと動かず、まるで隠れてでもいるように息を殺していた。

「樹里、大丈夫? しんどいの?」

「頭痛い」樹里は弱った声で言った。

「休む?」

「うん」

「ゆっくり休むんだよ」

今日から学校に行けるだろう、と杏樹は思っていた。なので、心配だった。「早くよくなりますように」と心の中で何度も唱えた。

杏樹は小走りで部屋と部屋とを行き来していた。「時間ギリギリに生活して良いことなんて一つもない」といつも思うのだが、毎日のように出勤前はドタバタしていた。ゴミ袋を持つと、靴もろくに履かずに、慌てて家を出た。

「おはよう。そのコート、すごく似合ってるよ」佐藤千絵が杏樹に声をかけた。杏樹の隣の部屋番号 一〇五に住んでいた。

「杏ちゃんが着ると、なんでもカッコよく見える」と佐藤千絵は杏樹を褒めた。

「ありがとうございます」杏樹は笑顔で言った。「いつも褒めてくれるので、自信をもってオシャレできます」

「いいよ、持っていってあげる。仕事でしょ」佐藤千絵は杏樹のゴミ袋を引き受けた。

「ありがとうございます。じゃあ、行ってきます」杏樹は駐輪場に向かった。腕時計で時間を確かめると時間ギリギリだったので、歩いていたのを小走りに変えた。


ガチャリとカギの閉まる音がすると、樹里はベッドから起き上がった。部屋のドアを開けたが、すぐに閉めた。玄関前で、母親と隣に住む佐藤千絵が挨拶を交わしていた。二人の声が止むのを、樹里はじっと待った。

樹里はボサボサの髪を手櫛で梳きながら、冷蔵庫を開けて、チョコレートを取った。片手で銀紙の包装を開けて、口に放り込んだ。それから、大きなあくびをしながら、ソファに座ると、テレビをつけた。情報番組は樹里の興味をそそらなかった。

樹里はテレビを消して、お風呂に入った。にやけてしまう想像をしていたせいで、いつもより時間がかかってしまった。

お風呂から上がると、髪を乾かした。洗面台の上に掛けられた時計を見ると、まだまだ時間に余裕があった。樹里は口紅を取ると、時間をかけて唇に塗った。火照っているせいで、思うようにいかなかった。

樹里はコップ二つを用意すると、お菓子を探した。キッチンの棚を探したが空っぽだった。「またインスタント・ラーメンでも作ろっかな」と考えていると、カサカサカサという音がした。紙を擦り合わせたような音だったが、もっと空気を含んでいた。

まずはじめに、天井が真っ黒に変わっていった。それから、天井に続いて、壁も黒くなっていった。天井と壁を塗り替える黒色の正体は、ペンキなどの液体ではなく、もっと軽くて、カサカサと身動きするものだった。表面は大きく波打っていて、その動きは一定したものではなく、もっと自然的で野性味のあるものだった。

樹里は身震いした。カサカサカサという音は大きくなり、密度が高まっていった。パラパラという小雨が豪雨に変わるとザーッというまとまった音に変わるように、カサカサカサという音は一定の大きなノイズに変わっていた。

樹里は卒倒した。まるで本能が樹里を守るためにそうしたみたいだった。恐怖を感じたときには、既に体は傾いていた。

樹里は仰向きに倒れた。地面に体をぶつけた衝撃で、僅かに意識を取り戻した。天井は真っ黒だった。真っ黒な中に細かい波打ちがあり、それは生き物の蠢動だった。そう、天井と壁を黒く埋め尽くしているのは、黒い生き物なのだった。

樹里は驚いて、思わず目を凝らしてしまった。幸運なことに、はじめは全体の大まかな黒い波打ちしか目に映らなかった。彼女は恐怖心から目を閉じようとした。だが、抑えきれない本能的な興味がそうさせなかった。やがて、真っ黒な視界に慣れてくると、黒い生き物の姿をくっきりと見て取ることができるようになった。

それは真っ黒い小人だった。頭から足の先まで真っ黒だった。人間と同じように頭と足はあるが、両腕がなかった。肩口の腕の生える部分はキレイに真っ直ぐになっていた。小人の顔は真っ黒で、目も鼻も耳もなかった。あるのは口だけだが、口を見て取ることはできず、黒い棒を口に咥えているので、口があると推測できるだけだった。

小人は、五百円玉のサイズだった。そして、天井には、小人が何重にもかさなっていた。そのせいで、天井が何センチも低くなったみたいだった。小人は足を天井に付けて、歩いて移動していた。壁を移動するときは、壁に足を付けていた。足をジタバタと動かして、活発に移動していた。両腕がないから安定を欠いたように映って、足をジタバタと動かしているように見えたのかもしれない。あるいは、本当に競って駆け回っていたのかもしれない。

よく目を凝らしてみると、小人は確かに小競り合いをしていた。ある小人は追いかけられて、壁から天井、天井から壁へとガムシャラに走り回っていた。また、ある小人は相手の小人を足で組み伏せていた。組み伏せられた小人は懸命に抜け出ようと、何度も勢いをつけて地面を蹴り上げていた。

ある小人同士はキック・ボクシングをしていた。闇雲な喧嘩ではなく、習熟した戦いだった。互いに間合いを取って、仕掛けるタイミングを見計らっていた。ジャブを出して、相手の調子を崩そうとしていた。周りは小人だらけなので、振り上げた足が近くにいた小人に引っ掛かることもあった。一方の小人が劣勢の状況でバックしようとしたところ、後ろにいた見知らぬ小人に引っ掛かってよろめいた。対戦相手の小人は隙を見逃さず、バック・ドロップを決めた。バック・ドロップを喰らった小人は吹っ飛んだ。そして、そのまま起き上がらなかった。重力に逆らって天井に足を付け続けるというのは、無条件な現象ではなかったようだった。ノックアウトされた小人は、真っ逆さまに落っこちてきた。

小人はちょうど樹里の真上にいたので、彼女に向かって落ちていった。げんなりした小人が目前にまで迫った時、樹里はかすれた叫び声を上げて意識を失った。

号令が下されたように、小人たちは行儀よく二手に分かれた。一つのグループは天井を進み、リビングに出ると、湾曲した天井板の間から、天井裏へ戻っていった。大半の小人が天井裏へ撤収すると、天井は元のクリーム色に戻り、光が差したように、辺りの空間が明るくなった。

もう一つのグループは、天井から壁、壁から床へと駆けていくと、樹里の体に集まってきた。小人は樹里の体の下に入り込むと、そのまま彼女を持ち上げた。持ち上げたまま、キッチンから廊下に出て、樹里の部屋へと向かった。運搬の最中、小人の咥えた黒い棒の先端が赤くなった。人間がタバコを咥えながら力作業をしているように、荒い呼吸のペースで、黒い棒の先端はぽっと赤く灯り、それが運搬中の小人全員に起こっているので、樹里の体の下では色々なリズムで赤い光がチカチカと点滅していた。

樹里をベッドに運び終えると、小人は撤収した。その中で、ある小人が二、三の小人を引き止めて、もういちど樹里のもとへ引き返した。げんなりした小人が、樹里の額で眠っていた。ノックアウトされた小人だった。三人の小人は、げんなりした小人を担ぎ上げると、黒い棒を赤く吹かしながら、廊下を渡って、キッチンからリビングへと移動し、最後に天井裏へと帰還していった。


粋がった男は、部屋番号 一〇三のインターホンを押した。だが、誰も出てこなかった。なので、今度はドアを叩いた。

「よくないねえ」と後ろから声がした。

粋がった男は振り返った。男がそこに立っていた。男は紺色のスリーピース・スーツを着ていた。シャツの襟は糊がしっかりときいていて、うぐいす色と緑黄色の縞のネクタイを付けていた。年齢は三十代、平均的な日本人顔で、逆立てた髪を横に流していた。

スーツの男は、粋がった男を下から舐めるように見ていった。ひょろりとした体つきをしていて、金に染めた髪は長く伸ばしていた。金色の線の入った黒地のジャンパー、ダボダボのグレーのパンツ、左手の中指と薬指に金色の指輪、右手首にシルバーの腕輪を二つ嵌めていた。

「痩せすぎているし、服装がひどすぎる」とスーツの男は思った。

「お前、誰だよ?」と粋がった男は言った。

スーツの男は、粋がった男の肩に掛けられたトートバッグをゆっくりと取り上げた。金属と金属のぶつかる高くて軽い音がした。スーツの男が中身を取り出すと、音の正体は四つのハイボール缶だった。

「何すんだよ!」粋がった男はトートバッグを取り返そうとした。

スーツの男は、粋がった男の腕に、優しく手を置いた。「なあ、離せって」と穏やかに言った。

粋がった男は、意思とは関係なしに、トートバッグから手を離した。優しく置かれた手と穏やかな物言いは、これまでに味わったことのない不気味さを秘めていた。粋がった男は、スーツの男に歯向かうべきじゃないと考えて、いまのところは大人しくすることにした。

スーツの男は、残念がるように四つのハイボール缶を足元に置いた。それから、トートバッグを粋がった男に返した。

「もう帰りな」とスーツの男は言った。

粋がった男は、やっぱり腑に落ちなかった。こんなオッサンに屈するなんてありえなかった。自分自身に対する体面を保つためにも、なにか言うべきだった。

「なぁ、オッサン、さっさと俺の酒を返せよ」と粋がった男は言った。

「おい、クールにいこうぜ」とスーツの男は穏やかに言った。

粋がった男は、しばらく突っ立っていた。「殴りかかれ」と頭では分かっていたが、肝心の体が言うことを聞かなかった。底なしの恐ろしさが、このスーツの男にはあった。

スーツの男は、考え込むように、手の平を頬に滑らせた。青みさえないほどに、髭はキレイに剃り上げられていた。頬から手を離すと、そのまま腕を曲げて、腕時計に目をやった。メタルバンド、文字盤は十二の数字と時針、分針、秒針のみ記された、シンプルなデザインだった。スーツの男はカウントダウンをするように、右の人差し指で左手の甲をトントンと叩いた。十回ほど刻むと、人差し指の動きは止まった。スーツの男は上目遣いに、粋がった男を見た。その目には、一切の責任を投げつけるような意図が込められていた。

粋がった男の体は自然に動いた。何のためらいもなく、スーツの男の脇を通ると、去って行った。


この日、クラスの雰囲気は、落ち着きがなかった。全国模試の結果が返されるのだった。全国の受験生のほとんどが受けていたので、この模試は進路を決めるための重要な指標と考えられていた。

担任の先生は、成績シートの束をトントンと教卓に当てながら、受験勉強についての心得を話していた。

樹里は模試の結果を心の中で予想していた。意図的に、手応えの半分以下の点数を予想した。ハードルを下げることで、返ってきた点数がどんなにひどくても、「思ったよりは悪くなかった」とポジティブに考えることができるからだった。それがたとえ糠喜びだとしても、絶望しなくて済むのならよかった。

現状として、樹里の成績は右肩下がりだった。春には、第一志望の大学の判定はAだった。だが、秋になる頃には、Cへと大きく下がっていた。この模試で挽回しないと、志望校の変更を余儀なくされるかもしれなかった。

「自信ある?」と智香が振り向いて聞いた。彼女は樹里の前に座っていた。

「ない」と樹里は答えた。

「わたしも」と智香は目を吊り上げて、おっかない顔をつくった。

先生が順番に名前を呼んで、模試の結果を返却していった。

樹里は成績シートに目を通すと、覚悟していたとはいえ、やっぱり落ち込んだ。それでも、しっかりと歯を食いしばって、それぞれの科目の点数と分析・傾向をじっくりと読み込んだ。国語はいつも波が激しかったが、今回は底に行き着いた出来だった。得意の数学は満足の結果だったが、答案をチェックしてみると、イージー・ミスでの減点が課題だった。日本史と世界史、生物と化学は、比較的安定していたが、あと十点ぐらい底上げしないと、厳しい状況だった。

学校が終わると、樹里と智香は一緒に教室を出た。

「生き埋めにされるかも」と智香は皮肉に笑った。

「親に?」樹里も智香の気持ちがよく分かった。

「親に殴られて、塾の先生に生き埋めにされる。何なら、私から生き埋めにしてくださいってお願いする」

「けど、たかが模試でしょ」樹里は言った。不思議なことに、言葉にすると、少しだけ心の負担が軽減した。

「けど、そのために、月に何万も出してもらってるから」だが、智香にはあまり効果がなかったようだった。


杏樹は会社を出ると、駐輪場に向かった。いつも同じ時間に会社を出るので、日の入りの早くなっていることがよく分かった。街灯に明かりが灯り、駐車場から出口に向かう車のライトがどんどんと眩しくなっていった。

門番の藤堂が、杏樹を待ち構えていた。彼の背後では、いつも通り車が列をなしていたが、お構いなしのようだった。

「杏ちゃん、帰るの?」藤堂は聞いた。

「帰る以外に何があるの」と杏樹は答えた。

「あいさつ代わりに聞いただけだよ。そういえば、大下のおばちゃんに聞いたよ。杏ちゃんの娘さん、めちゃくちゃ頭がいいんだってな」

「どうなのか分からないけど、私より頭はいい」

「親が賢いから、子どもも賢くなるんだよ」

「そんなにおだてても、何もあげられないよ」

「本心から言ってんだよ」

杏樹は背を伸ばして、窓から門番小屋を覗いた。小さな机の上にはコーヒー・ポットとコーヒー・カップ、二、三枚のその日の入館者名簿が載っていた。四段の白色の引き出しに壁に掛かった色々な道具類。机の下はどうなっているのか分からないが、見えた範囲では綺麗に整頓されているので、意外だった。

「ちょいちょいちょい」と藤堂が遮った。

「また、やってるのかなって」杏樹は疑いの目で藤堂を見た。

「仕事中だ、やるもんか」藤堂は周りに誰かいないかとキョロキョロした。そして、「今日も帰ってごはん?」と話題を変えた。

「娘は外で食べてくるから、つくらない」

「彼氏?」

「かもしれない。あんまり干渉しないようにしてるから」

「自由にさせるのが一番だよ」藤堂は杏樹のことを好いているので、彼女のすることはすべて正解に思えるのだった。

「機嫌がいいんだね。飲んでるんでしょ?」杏樹は聞いた。

「限りなく素面に近いほろ酔いだよ。こっちのほうが仕事が捗るんだよ」と藤堂は開き直って、言った。

「バカね」

「最低時給の身で、一千万、二千万もらってるエリート・サラリーマンに笑顔で挨拶できるかよ。一発お見舞いしたくて、拳が疼いているくらいだよ。けど、胃に魔法の液体をちょっと垂らしただけで、愛おしくて頬ずりしそうになっちまうんだな」

「本当にバカね」

「杏ちゃんはいい人だよ。息子には、杏ちゃんみたいな女性と結婚してほしいな」

「もう行くから、じゃあね」と杏樹は相手にしなかった。

「一緒に飲みにいかない? あと一時間なんだけど」

「お断り」杏樹は断ったが、藤堂を不憫に思って、優しく声をかけた。「頑張ってね、あと一時間なんでしょ」

「ありがとう」

「それと、気になったんだけど、ここの担当って藤堂さん一人?」と杏樹は聞いた。

「違うよ。夜は牧田くんがやってる。三十になったぐらいの、生真面目な子だよ」

「やっぱり」杏樹は納得がいった。整頓された門番小屋の謎が解けたからだった。


樹里と智香は、ファミリー・レストランで、楽しくおしゃべりしていた。

「この前、小人を見たんだ」樹里はジンジャーエールを飲みながら、軽い調子で言った。本心は、この前の体験を誰かにしゃべりたくてウズウズしていたが、必死な感じを出すのは恥ずかしかった。

「また、いきなりだね」と智香は言った。彼女は、樹里がその手の話をすることにビックリした。顔に出さないように気を付けた。

樹里は小人の現れた一部始終を語った。大量の小人が天井と壁を埋め尽くしていたのが事実だったが、それだと、いかにも嘘っぽく聞こえそうなので、天井に黒い小人が一人だけいたということにした。その小人の特徴は詳しく説明した。

「きっと疲れているんだよ」智香は言った。「受験疲れで、幻覚を見たんだよ」

「幻覚なんかじゃないよ。ちゃんと見たんだもの」樹里は主張した。

「じゃあ、夢じゃない?」

「ううん」と樹里は首を振った。

「もう見ないよ」と智香は優しく言った。

「見たくないって訳じゃないんだけど」樹里は小人を気味悪がっている訳ではなかった。それどころか、興味に近い感情を持っていた。

樹里と智香は目配せした。隣のテーブルの男二人が、樹里と智香のことをチラチラと見ていた。

どちらも二十代だった。一人は黒いスウェット・パンツに紫色のパーカー、もう一人はフィットしたグレーのチノパンツ、カラフルなフルーツが前部にプリントされた黒地のシャツの上に、黒い革ジャンパーを着ていた。

男二人は密談するようにテーブルに体を乗り出して、小さな声で話していた。時折、樹里と智香の方に顔が向けられた。

「声かけてくれたらいいのに!」と智香は黄色い声で言った。

「やめてよ!」樹里はすかさず言った。あんな二人はごめんだった。どう見ても、頭の空っぽなタイプの人間だった。

「いま目が合った!」智香は興奮して、はしゃいだ。「革ジャンの男と目が合った!」

「じゃあさ、一緒に見ようよ。思いっきり色目を使って」と樹里は提案した。

「いやだー」と智香は恥ずかしそうに言った。「そんなのできないよ」

「根性ナシ!」樹里は人差し指で、智香の頬を軽くはたいた。

「じゃあ、樹里がやってみなよ」

「いいよ」樹里は即答した。

彼女は大きく息を吸って、奥深くに眠っている「女」を呼び覚ました。準備が整うと、さっそく男二人に色目を使うことにした。まず顔を斜めに傾けて、艶やかに男二人を見てやった。男二人はメデューサの目を覗き込んだように、しばらく固まってしまった。

「エロいね」と智香は感想を漏らした。

樹里はお礼代わりに、ウインクした。

「もう帰ろうよ」と樹里は言った。

「ええ! もう帰るの! まだ始まったばっかなのに! ねぇ、隣の男に話しかけてよ」智香は樹里にせっついた。

「智香ってホントに男を見る目ないよね。それか、男なら誰でもいいの?」

「ひどいこと言うね」

「なら、とりあえず、ここを出よ。最後にウインクでもしてやったらいいよ」

智香は顔を赤くして、クスクスと笑った。

レジでお会計をしている間、樹里は聞いた。「ウインクしたの?」

だが、智香はまだクスクスと笑っていた。「革ジャンの男、結構よくなかった?」

樹里は呆れて、何も言えなかった。テレビや映画なんかで、男に振り回される女がよく出てくるが、智香も将来そうなるのではないだろうかと心配になった。


粋がった男は、部屋番号 一〇三のドアの前に再び立っていた。アパートの廊下に誰もいないことを何度も確かめてから、インターホンを押した。

「よくないねえ」

粋がった男は振り向いた。スーツの男がすぐ目の前に立っていた。粋がった男は心臓が止まったのかと思った。足音や気配もなく、スーツの男は声と同時に姿を現したのだった。

「さっさと失せろよ!」と粋がった男は言い放った。

スーツの男は何も言わなかった。だが、その態度には、この前のような柔らかさはなかった。

「もし手に負えないとなると」スーツの男は語り始めたが、そこまでしか言えなかった。

粋がった男は、スーツの男をナイフで襲った。右手で持ったナイフで、スーツの男の腹を狙った。スーツの男は身を引いて、攻撃をかわした。それから、粋がった男は懸命にナイフを振り回すが、まるで当たらなかった。幅二メートル弱の廊下で、スーツの男はそんな狭さをものともしない華麗な身のこなしで、鮮やかにいなし続けた。小さい子どもを相手にしているようで、そこには歴然とした実力の差があった。

粋がった男はパニックに陥った。「こんなに当たらないなんて事があるのだろうか」と信じられなかった。そして、とうとう集中力を切らしてしまった。闇雲に体ごと突進していった。

スーツの男は体を低めて、突進してくる相手の足をすくいあげた。

粋がった男は呻いた。背中を地面に強打して、呼吸困難に陥っていた。スーツの男は、粋がった男を壁にもたれさせて、呼吸を整える手助けをした。

「もし手に負えないとなると」スーツの男は先ほど中断された語りを再開した。

「もし手に負えないとなると、容赦はなくなる。言葉で理解できないなら、体に教えてあげるしか方法はない。もし君があまりに無理解で、ここにまたやって来るつもりなら、私は最大限の警告をする。君は新鮮なまま、うちのペットに食べられてしまう。どれくらい私が親切丁寧に君と接しているか分かってもらいたい。本来の私はこうではない。いま必死に怒りを抑えている。より善くなろうと努めている。頼むから、裏切らないでくれ」

スーツの男は、必死に堪える形相をしていた。怒りを鎮めるのは、この世で最も我慢のならないことだった。こんな経験、二度としたくなかった。

粋がった男は、話を理解していないようだった。「うるせえ」と吐き捨てた。

「そんなことを言うべきではない」スーツの男はうつむいた状態で、声を絞り出した。そして、最後の望みをかけて、ゆっくりと顔を上げた。

「ぶっ殺してやる!」粋がった男は、スーツの男に唾を吐きかけると、頬にパンチした。

スーツの男は、虚ろな目をしていた。こんな仕打ち、あっていいのだろうか。ジェントル・マンに徹して、最悪のシナリオを回避するために警告してきたのに、そのお返しが唾とパンチだなんて。

粋がった男は逃げようとした。四つん這いになって、その場から少しでも離れようとした。

だが、スーツの男はどこまでも優しいわけではなかった。粋がった男の足を掴むと、思いきり引っ張った。あまりに力強くて速かったため、粋がった男の上半身が遅れて足についていった。

スーツの男は、暴れる粋がった男を黙らせた。そして、しかるべき場所に連れていくと、ケジメとして、半殺しにした。


杏樹は体調を崩していた。樹里の風邪がうつったのかもしれなかった。杏樹はソファに座って、まとまりのない考え事をしていた。

樹里が部屋から出てきた。顔が青白くて、まるで幽霊みたいだった。

「大丈夫?」杏樹は歩み寄ると、樹里の額に手を置こうとした。

樹里は母親の手を払った。そして、「お腹すいたんだけど」と苛立ちを含ませた声で言った。

「いまから作るね」杏樹は明るく言った。

杏樹は料理をしながら、考えた。最近の樹里は機嫌が悪い。勉強がうまくいっていないせいだろう。

杏樹は大学に行っておらず、大学受験の辛さを経験していなかった。だから、樹里にどうアドバイスしてやればいいのか分からなかった。勉強嫌いな自分とは対照的に、娘はとても賢かった。なにを言ってあげればいいのだろうか。アドバイスしたところで、樹里には迷惑なだけじゃないだろうか。そんな交錯した思いがあって、杏樹はこれまで娘に口出しするようなことはしてこなかった。

受験勉強は、春から本格的に始まった。三者面談のときに、「好スタートを切った」と担任の先生が褒めてくれた。けれど、その時が一番のピークだったように思える。

冬までもうすぐという時期に差し掛かり、最後のラストスパートを迎えて、樹里はこれまで以上に張り詰めた精神状態になっていた。思い通りにいっていないことが、母親の目からはよく分かった。

母親として、どう振舞えばいいのか分からなかった。親子の会話は全くなかった。気まずい訳ではないが、娘はこれまでと空気感の違う親子関係を無意識に避けようとしていた。嫌な悪循環に陥ってしまっていた。ひび割れが更なるぐらつきを引き起こして、親子の距離はどんどん離れていく。杏樹は積極的に娘に話しかけようとするが、打ち解けたいという気持ちが強く出てしまい、いらないことを聞いてしまったり、自分一人でしゃべり続けてしまったりした。

杏樹はできた料理を盆の上に載せた。樹里が盆を持って、部屋に戻っていった。塾が休みで、母親と食事の時間が合う時でも、樹里は部屋でごはんを食べるのだった。

「狭いアパートでよかったのかもしれない」ダイニング・テーブルで一人ご飯を食べながら、杏樹は思った。いま座っている席から、娘の部屋が見えた。物理的な距離の近さは心理的な距離の近さをもたらしてくれるだろう。そう信じたい。


樹里と智香は夕暮れの中を歩いていた。

「私たちの高校生活、もう半年もないよ」智香は泣きそうな声で言った。

「そうだね」樹里はあっさりした返事をした。

「どうして冷静でいられるの。もう女子高生じゃいられなくなるんだよ!」智香は本当に泣き出しそうだった。

「けど、十分遊んだでしょ。私は早く大学生になりたい。この勉強地獄から早く抜け出したい」

「充実した高校生活を送ってるから、そんなこと言えるんだよ」

「どういうこと?」樹里は聞いた。

「二つ上の先輩と付き合ったり、他校の人と付き合ったり、色々ちょっかい掛けたり、掛けられたり」

「智香だってイケてる彼氏がいるでしょ」樹里は半笑いで反論した。「年の割に精神年齢が低くて、口を開けば自慢ばかりして、未成年に手を出すスケベ野郎がいるでしょ」

「未成年じゃないから」と智香は訂正した。

「何のメリットがあって、あんな男と付き合うの?」樹里は無遠慮な質問をした。「正直、智香がアイツと付き合うって聞いたとき、売春の斡旋でもされるんじゃないかと心配したんだよ」

「それは言い過ぎ。確かに怪しいところはあるけど、そんなことはしてないと思うよ」

「ほら、オッサンがいたよ。今日もスウェットの上下だし」

智香の彼氏は公園のベンチに座っていた。名前は三浦といった。三浦はグレーのスウェットのセットアップを着ていた。特徴を短く言えば、三十半ば、中途半端な薄いひげ、刈り上げの短髪、広い額。それに、ナイキの白いハイカット・スニーカーを履いていた。

智香は三浦の隣に行くと、彼の手を握った。喜悦の表情をしていた。樹里と二人きりでいる時の表情とは全く違っていた。すっかり三浦の女になっていた。

「樹里ちゃん、久しぶり。元気にしてた?」と三浦はあいさつした。

「うん。今日、仕事はお休み?」樹里は聞いた。

「久しぶりの休み。昼から友達と飲んでたんだ」

三人のもとへ、一人の男がやって来た。

「こいつ、義春です」三浦はやって来た男を樹里に紹介した。

二十代の義春は、汚れた薄青色の作業着のズボン、黒い無地のシャツの上に、黒い革ジャンパーを着ていた。作業着のズボンは土埃で汚れていた。仕事場から直行して来たようだった。

「よし、じゃあ行こうか」と三浦は言った。

四人は二級河川に沿った敷石の道を二十分ほど歩いた。それから、小さい橋を渡ると、またしばらく歩いた。

智香と三浦は、楽しく騒ぎながら歩いていた。その後ろを歩く樹里と義春は、全くの沈黙だった。義春はポケットに手を入れて、樹里に話しかけようとするが、なかなか最初の一言が出てこなかった。

目的地のチェーンの居酒屋に到着した。

樹里は訝った。居酒屋には大収容の駐車場があった。三浦は車で来ているはずだった。なのに、わざわざ離れた公園に車を駐めて、居酒屋まで歩いてきた。

居酒屋の店内は、L字型の広間に、狭い間隔でテーブルが並べられていた。

四人は案内されたテーブルに座った。混んでいたわけではないが、手前から順に客を案内していたので、窮屈な感じがした。

三浦と義春はビールを、樹里と智香はウーロン茶を頼んだ。

三浦は智香の肩に腕を回すと、ぎゅっと引き寄せた。智香は恥ずかしそうに躊躇うが、結局、三浦の肩に頬を載せた。ご満悦の表情だった。

「樹里ちゃんは彼氏とかいたりするの?」三浦がずけずけと聞いてきた。

うっとうしいな、と樹里は思った。無視してやろうかとも思ったが、それはそれで面倒なので、答えることにした。

「ちょうどこの前、別れたところです」

「そうなんだ。別れた彼氏はどんな人だったの?」三浦は聞いた。

「真っ黒い人でした」樹里は答えた。

「真っ黒い人?」三浦は聞き返した。

「はい、ホントに真っ黒い人でした」樹里は真顔で言った。

「小さかったよね?」と智香が聞いた。

「うん、私よりも小さかかった」

「やるねぇ」と三浦はにやけた。「今どきの子はホントにすごいなぁ」

三浦は酔っぱらうと、タチが悪かった。気が大きくなって、自分が王様だとでも思っているようだった。事あるごとに身を乗り出して、義春の頭を盛大に叩いた。笑うと義春を叩き、ビールを飲んだ後に義春を叩き、義春を叩いた後にまた義春を叩いた。人の頭を叩くことは、三浦にとって可愛がりだった。義春も義春で、それをありがたがっていた。なので、しばらく叩かれていないと、寂しそうな視線を三浦に注いだ。すると、「なに見てんだ!」とすぐに三浦は義春を叩いた。

樹里は人の頭を叩いて笑うノリは大嫌いだったので、三浦が腕を振り上げると、顔を背けるようにした。

ふと、樹里はおかしいと感じた。そのおかしさは、意識の領域をすっと掠めるようなので、注意を凝らさないと見逃してしまうものだった。そして、たとえ捉えることができたとしても、違和感のように引っ掛かるだけで、正体の掴めないものだった。ずっと前から、この感覚はあった。気配というか霊感というか、そのオーラを確かに感じていた。

樹里から見て二つ向こうのテーブルに、男が座っていた。男は紺色のスリーピース・スーツを着用していた。まるでカタログのような出で立ちだった。気を付けないと指を切ってしまいそうなほど糊のきいたシャツ、胴にフィットした皺ひとつないベスト、そして、遊び心のあるツー・トーンの縞のネクタイ、すべて最高品質の丁寧な代物だった。そして、それらを纏ったスーツの男はまるで浮世の人間とは思えなかった。居酒屋という酒臭い場所だけでなく、カジュアル指向の現代の世の中から、完全に浮いていた。

スーツの男は、四人掛けのテーブルに一人で座っていた。一人の場合、カウンターに案内されるはずだった。しかし、スーツの男は誰かを待っている様子ではなく、堂々と四人掛けのテーブルを一人で独占していた。テーブルの上で腕を組んで、頻繁に手首を返して、腕時計をチェックしていた。テーブルには、ジョッキ・ビールといくつかの料理があった。スーツの男は機械的にビールと料理に手を付けていた。その様子は、飲食する客を装っているようだった。

樹里は、スーツの男を初めて見たわけではなかった。ファミリー・レストランで(隣のテーブルの男二人に色目を使った正にあの時だった)、通路を挟んだテーブルに、スーツの男はいたのだった。今と同じスリーピース・スーツを着用していて、テーブルにはデカンタのワインとグラス、そして、いくつかの料理があった。

樹里はしばらくかかって、居酒屋のスーツの男とファミリー・レストランのスーツの男が同一人物であることを確証できた。なんといっても、スーツの男は印象が薄かった。目を離すと、もう思い出せなかった。だが、その印象の薄さはスーツの男の問題ではなく、スーツの男を見る我々の問題だった。しかるべき相手の目には、スーツの男の顔は鮮明に映った。

樹里は、そのしかるべき相手になったようだった。瞼の裏に焼き付けられるように、スーツの男は周囲から際立っていた。

彼女は、感じていたおかしさの正体はスーツの男だと突き止めた。二、三ヶ月の間、心地のいい危険なオーラは、影のように、樹里の背後にとりついていた。

スーツの男は、腕時計をチェックした。そして、所定の時間が経ったようなので、ビールに口を付けた。だが、その心は目下の事柄に集中しているようだった。樹里は、その事柄が樹里の監視(あるいはそれに近い行為)であることを見抜いていた。嫌な気はしなかった。こうして全てが明らかとなった今、怖さはなかったし、それどころか、親しみの念をスーツの男に抱いていた。

スーツの男は、樹里と目が合うと、すぐに逸らした。「私はただの一般客にすぎない」と弁解するように、軟骨の串を手に取って食べたが、咀嚼するにつれて、表情は歪んでいき、終いには、すぐにでも吐き捨ててしまいたいかのような苦悶の表情に変わった。

樹里は声をかけてあげたかった。「もう大丈夫ですよ。ぜんぶ分かりましたから。隠れなくてもいいんですよ。ここ何ヶ月かの間、私はずっとあなたに気付いていました。けれど、今日初めて、本当のあなたに会うことができました。あなたの存在を身近に感じるだけで、心が温かくなります。そんなに恥ずかしがらないで、目と目を合わせてください。それ以上の要求はしませんから、せめて目と目を合わせてください。私は見つめ合うだけで十分ですから」と声をかけてあげたかった。

「ねえ」と義春は樹里に声をかけた。

「なんです?」と樹里は振り向いた。スーツの男との交信を邪魔されて、イラっとした。

「ビール、一口飲んでみる?」と義春はジョッキを持ち上げてみせた。

三浦はトイレに行っていた。智香はスマホを見ていた。樹里と義春の一対一だった。

樹里が何も言わないでいると、義春はジョッキをテーブルに置いて、大きく手を振った。

「強要してるわけじゃないから」彼は慌てて言った。

「一気に飲み干してよ。できる?」樹里は言った。

ジョッキのビールはまだほとんど残っていた。義春は意気込んで、ビールを飲み始めた。見事な速さで飲み切ると、ジョッキをテーブルに置いた。

「まだ残ってるよ」樹里はジョッキの底に残った泡を指摘した。

義春は胸のつかえを抑えると、再びジョッキを持ち上げて、底に残った泡を飲み切った。だが、我慢できずに、激しくむせてしまった。

樹里は要件が済んだので、咳き込む義春を放っておいて、二つ向こうのテーブルに目を戻した。だが、スーツの男はもういなかった。

樹里は義春を憎んだ。「コイツさえ話しかけてこなかったら」と思うと、本当にぶん殴ってやりたくなった。

四人は居酒屋を出ると、また来た道を引き返して、公園に戻っていった。外はすっかり冷え込んでいた。

行きと同じように、智香と三浦が前を歩き、樹里と義春がその後ろを歩いた。

義春はここが勝負だと思ったのか、一気に積極的になった。樹里に体を寄せていき、何気ない感じで話しかけた。

「学校はどう? 今年、受験なんだって」

「うん」と樹里は言った。

「学校は楽しい?」

「うん」

橋を渡って、河に沿った敷石の道に出た。辺りは一気に暗くなった。月の明かりがなかったら、自分の手の平も目視できないほどだった。資材置き場を隔てた道路(一車線だった)に明かりの弱い街灯があるだけだった。

義春は服同士が触れ合うくらい、樹里に接近していた。樹里は逃げるように道の端に寄っていった。だが、義春は磁石のように樹里の体から離れなかった。夜に浮かぶ二人の影は、道の端を危なっかしく歩いていた。

「俺さ、高校を中退したんだ」と義春は言った。

樹里は何も言わなかった。体を擦り寄せてくる義春にムカついていた。酒臭い荒い鼻息が顔にかかってきているせいで、居酒屋で食べた唐揚げを戻す寸前だった。

「高校卒業の資格は取ったけど、いわゆる楽しい高校生活ってのは経験してないから。もちろん、樹里ちゃんは楽しくやってると思うけど。てか、さっきから何をしゃべってるんだろ、俺は。俺ばっかりしゃべってるね」義春は一人で勝手に空回りしていた。

樹里は義春に圧迫されて、すぐ下にある草むらに落ちないように必死だった。

「寒いね」義春は言った。そして、「すっげー寒いな」とわざとらしく繰り返した。

樹里は手の平を強引に握られた。「ちょっとやめてよ!」と叫んで、振りほどこうとした。

義春は強引に樹里の腰に手を回すと、暴れる彼女を押さえ込もうとした。「落ち着いて、落ち着いて」と必死に説得した。

樹里は義春を突き飛ばした。そして、それを合図とするように、黒い影が突如として資材置き場から現れた。すごい勢いで義春の腹を抱え込むと、そのまま、草むらの海に飛び込んだ。黒い影は背中を曲げた人間のようでも、四足歩行の獣のようでもあった。

「うわぁ!」という義春の叫びが、夜の河原に尾を引いた。

樹里は咳払いをした。辺りに、煙が激しく充満していた。夜の暗さも相まって、一メートル先も覚束ない視界の悪さだった。

けれど、樹里の心は落ち着いていた。これまでにないくらい強く、オーラを強く感じたからだった。そして、その存在を間近で見ることができた。すべての点と点が繋がって、やっと全体像のお目見えが叶った。そんな彼女の気持ちを汲み取ったかのように、煙は急速に晴れていった。

「おい! 携帯出して、義春のいる所を照らせ!」三浦は智香に叫んだ。襲われる心当たりでもあるのか、反応と動作が俊敏だった。

三浦は自分のスマートフォンのライトを付けると、草むらを照らした。幅が十メートルもある、広い草むらだった。そして、草は人の背丈ほどに伸びているので、スマートフォンの小ぶりなライトで照らすには限界があった。

その時、義春の叫び声がした。三浦は声の聞こえた方にライトを向けた。そして、大体の位置を確かめると、「あそこを照らしとけよ!」と智香に指示して、草むらの中に入っていった。

樹里はざまぁみろと思っていた。智香もまた、どうでもよさそうな様子だった。

「さっむー」と智香は大きなあくびをした。「なにがあったの?」

「手を握られた」樹里は答えた。

「誰が襲ったの?」

「小人」と樹里は言った。口にすると、本当に小人たちがやってくれたような気がした。「スーツの男」と小さくつぶやいた。小人とスーツの男には何らかの繋がりあるような気がしてならなかった。そうだとしたら、素敵なことだった。

草むらの中から、肉体の激しくぶつかり合う音がした。一段と大きい叫び声があがると、決まって、草がなぎ倒された。

勝負は徐々についてきた。優勢なのは圧倒的に襲撃者だった。三浦と義春は最初は抵抗していたが、やがて、まったく歯の立たないことが分かると、それからは、ひたすら逃げ回っていた。

「もうやめてください!」と三浦が叫んだ。これ以上はないというくらい、情けない声だった。

だが、襲撃者は攻撃の手を緩めることなく、さらにギアを上げて、完膚なきまでになぶり続けた。

「いつまで三浦と付き合ってるの?」と樹里は聞いた。

「しょうもない男なんだけどね」智香はそう言うと、ライトの付いたスマートフォンの持つ手を替えた。

「三浦よりもマシな男なんて腐るほどいるよ」

「もうオッサンだしね」

「何歳なの?」

「三十九」

「三十九! 智香のお父さんは何歳なの?」

「四十五」

「お父さんの方が年が近いじゃん。悪い事は言わないから、もっと健全な男と付き合ったほうがいいよ」と樹里はアドバイスした。

葉擦れの音が近づいてきた。

「帰ってきたみたい」と智香は言った。

「勇敢な戦士のご帰還だ」樹里は言った。

だが、三浦と義春はなかなか姿を見せなかった。

「おい、ライト消せ!」草陰から、三浦が怒鳴った。「さっさと消せって言ってるだろ!」

智香はスマートフォンのライトを消した。すると、三浦と義春が激しく喘ぎながら、上がってきた。義春は泣いていた。恐怖と疼く傷のせいで、まともに呼吸ができていなかった。

智香は軽いノリで、スマートフォンのライトを付けると、三浦と義春を照らした。二人は無惨な姿をしていた。群れの狼に襲われでもしたかのように、服は切り裂かれていた。血の滲んでいる全身の切り傷は、葉で切ったり、爪で引っかかれたものだった。その中でも特に目立つのは、顔と上半身にできた打撲傷だった。すでに痛々しいほどに青黒く変色していた。義春の右アゴは折れたのか外れたのか、大きく変形していた。下唇は左にずれていて、上唇と噛み合っておらず、血の混じった唾液が糸を引いて垂れ下がっていた。クリティカル・ヒットの痕跡は三浦にも見られ、彼の左ひざは内側に変形していた。ひざの外側に渾身の一撃を喰らって、骨が内側に折れたのだった。そのため、左足は歩く道具ではなく、ただの重い荷物となり果ててしまった。両腕で左足を持ち上げて運ばないことには、歩けなくなっていた。

三浦は智香を張り倒した。その拍子に、スマートフォンは智香の手を離れて、草むらの中に落ちた。

「アンタ、何やってんの!」樹里は三浦に詰め寄った。

義春が横から出てくると、樹里の腕を捻り上げた。彼女は義春を睨んだ。振り払ってやろうとしたが、男の力には敵わなかった。

「放してよ!」樹里は怒鳴った。

義春は樹里の腕を放した。

「アンタたち最低ね!」と樹里は叫んだ。

三浦と義春はゆっくりと歩き去っていった。三浦は何度か足をもつれさせると、とうとう転倒した。仰向けに倒れると、そのまま起き上がることができなかった。何とかしようと足掻くが、背中の痒いパンダのように体をモゾモゾと動かすのが精一杯だった。動くたびに全身の筋肉と骨に激痛が走るので、三浦はとうとう諦めて、天を仰いで大きなため息をついた。

義春が傷ついた体を引きずって、三浦のもとへ行くと、手を貸して起き上がらせた。三浦は起き上がったが、その拍子に、ナイキのハイカット・スニーカーが脱げてしまった。彼は惜しがるようにスニーカーを一瞥するが、取りに戻るのも格好がつかないので、諦めることにした。

「見て、あれ」と樹里は指を差した。指を差した先には、満身創痍どうしで支え合う三浦と義春の後姿があった。

「あぁ、行かなきゃ」智香はぼそっと言った。

「行くことないよ」と樹里は止めた。

「けど…けど、ほっとけないから」と言うと、智香は三浦のもとへ走っていった。

樹里はひとり取り残された。彼女はとりあえず、智香のスマートフォンを回収することにした。見つけるのは簡単だった。草むらの中から、ライトの明かりが漏れていた。

樹里は智香のスマートフォンを回収すると、しばらく待つことにした。智香が戻ってくることを期待したのだ。だが、樹里はいつまでたっても一人ぼっちだった。

樹里は三浦の白いハイカット・スニーカーを拾った。しばらく、ああでもないこうでもないと弄んでいたが、ある事を思いついたので、早速やることにした。彼女は草むらに体を向けた。そして、大きくかぶりを振って、スニーカーを投げ飛ばそうとした。だが、やめた。体だけが一回転して、結局、スニーカーはその辺に放っておいた。

樹里は唇を甘噛みして、舌打ちした。気持ちがスッキリしなかった。いつも最後のところで、大事な何かが手の平からこぼれ落ちていった。

「バカ野郎。なんで、こうなるんだろう」と樹里は独り言ちた。


樹里がダイニング・テーブルに座った時、母親はキッチンで夕飯の支度をしていた。狭い家だったので、キッチンのすぐ隣に、ダイニング・テーブルがあった。

「ねぇ、ママ」と樹里は声をかけた。

「なに?」杏樹は言った。

「ねぇ、ママ」と樹里はもういちど言った。

杏樹はキュウリを切る手を止めると、振り返って、娘を見た。「どうしたの?」

「ちょっと言いたいことがあるんだけど」杏樹はもぞもぞと言った。

「どうしたの、急に」と杏樹は笑いながら言った。

「実はさぁ、塾の時間を減らそうと思ってて」

「そうなの。時間を減らすってどれくらい?」杏樹は聞いた。

「半分くらい?」樹里は答えた。

「ママは全然いいけど、それで勉強は遅れないの?」

「うん、大丈夫」

杏樹は樹里の向かいに座ると、言った。

「ママは賛成。ちょっと忙しすぎるって思ってたんだ、いくら何でも受験でも」

樹里は笑った。それは安堵の笑いだった。「ちょっと疲れちゃった」

「うん。樹里は十分がんばってると思うよ」

樹里は母親の目を見た。こうして面と向かって話すのは久しぶりだった。ずっと受験で忙しかったし、心から落ち着ける時間がほとんどなかった。

「ねぇ、受験に落ちたらどうする?」と樹里は質問した。

「別にどうもしないよ」と杏樹は答えた。

「怒る?」

「怒らないよ」

「じゃあ、ガッカリする?」

「どうして? 樹里はママの自慢の娘なのに」杏樹は愛を込めて言った。

「じゃあ、もう勉強やめよっかな」と樹里は言ってみた。

「それはダメ」と杏樹は即座に注意した。

「冗談だよ。まぁ、じゃあそういうことだから」と樹里は席を立った。「それと、これからはこっちでごはんを食べるから」

「そう」杏樹は驚いて、それしか言うことしかできなかった。

娘が部屋に戻ると、杏樹は堪えていた涙が一気にあふれ出した。このところ、落ち込む日が続いていたが、すべて報われた気がした。「あんなに素晴らしい娘はいない」と改めて思った。これは親バカだからではなかった。本当に素晴らしい娘だった。そして、そんな娘を持つことのできた私は真の幸せ者だった。


いつも通り、大外は脚立から降りると、クリップ・ボードに留めた調査用紙に、経過観察を書き込んでいった。

「今回も存在を確認できました」と彼は杏樹に報告した。

杏樹はこれまで気になっていたポースティンの姿かたちについて聞いてみた。

大外は説明するのはいいが、いささかグロテスクなので、苦手だったらやめといたほうがいいと忠告した。杏樹はぜひ聞きたいですとお願いした。

大外はポースティンの説明を始めた。

「まずはじめにイメージしてもらいたいのが、小魚が群れ集まって、大きな魚の姿をとる構造です。ポースティンはその大きな魚の姿にあたります。そして、小魚にあたるのがハイタと言います。ハイタが集まってポースティンになるので、ポースティンはハイタの集合体ということができます。なので、正確にはポースティンに実体はありません。あくまでも、集合体に付けられた便宜的な名前です。

次にハイタについて説明していきます。ハイタは「人」という漢字の形をしています。両腕のない人間をイメージすると分かりやすいです。そして、繰り返しになりますが、このハイタが集まってポースティンとなります。

ハイタの大きさはちょうど五百円玉サイズくらいです。世間一般に言われている小人ですね。厳密には、よく目撃される小人とハイタはまったく違う生き物なんですが。

ハイタは真っ黒です。一説には、ハイタは影から生まれたから真っ黒な体をしていると言われていますが、「真実は神のみぞ知る」です。

そして最後に、ハイタは棒のようなものを咥えています。これはタバコをイメージするとよくわかります。この棒のようなものは(これももちろん真っ黒です)一種の呼吸器官です。代謝の激しいハイタは新鮮な空気が確保できないと、一瞬で燃焼してしまいます。

以上の説明をまとめると、ハイタは五百円玉サイズの真っ黒な生き物で、「人」の字の形をして、口にタバコを咥えた、人前に姿を現さない恥ずかしがり屋さん、ということになります」

「ありがとうございます」と杏樹は言った。「けど、ぜんぜんグロテスクなんかじゃなかったですよ」

「そうですよね。僕もそう思います」大外も同意した。

杏樹は大外を玄関まで見送った。

「大外さん、髪型いつも決まってますね」と杏樹は言った。

大外は思わず顔が赤くなってしまった。「ありがとうございます」

「それ、ポマードですよね」

「はい」

「珍しいですよね、最近の人でカッチリと決めてるの。私はすごく好きです」

「古臭い人間なんです。なかなか時代に馴染めなくて。スリーピース・スーツを着ると、すごく落ち着くぐらいですから」大外は杏樹といると楽しかった。いつまでも、こうして楽しく話していたかった。

「素敵ですよ。好きなものに時代なんて関係ないですから」杏樹は言った。大外への好感は高まっていくばかりだった。

大外はやっとのことで杏樹との会話を切り上げると、玄関を出るやいなや、そばの壁に手を付いて、激しく喘いだ。腕時計を見ると、時間を大幅にオーバーしていた。

大外の体は、ジリジリと焼け焦げていっていた。ただれた傷口から、黒い粒がじわじわと浮かび上がってきた。彼はその黒い粒を指でつまみ出した。指の間に挟まったのは、真っ黒なハイタだった。ハイタはぐったりとしていた。口に咥えた黒い棒は、真っ赤に染まっていた。エネルギーが黒い棒にまで流れ込んで、発熱しているのだった。

指に挟まれたハイタの体は縮んでいった。一方、黒い棒の表面には、火花の閃光が走っていた。やがて、吸い取られるように、ハイタの体が黒い棒のうちに収斂されると、黒い棒はパッと燃え上がって、跡形もなくなった。残ったのは、ポロポロとこぼれ落ちる灰だけだった。


樹里は塾がない日に、図書館の学習室でよく勉強した。

彼女はいつも通り、自習室を使用するために、受付で申し込みをした。その時、申請者のリストを一つずつ辿り、ある名前に行き当たると、喜びで鼻がプクプクと膨らんだ。

樹里は手鏡を見ながら、髪の分け目をあいまいにして、まつ毛の先端に付いていたホコリを取り除いた。自習室に入ると、何気ない様子で、いつもの席に着いた。向かいに、緑谷が座っていた。二人は笑顔で手を振り合った。自習室では会話厳禁だったからだ。挨拶もそこそこに、二人は机に向き合うと、勉強に集中した。

十一時三十分になると、二人は一緒に自習室を出た。そして、一時間も経たないうちに、また戻ってきた。それから、ときおり休憩を取りながら、閉館時間の十九時まで、二人はそれぞれに勉強を頑張った。

緑谷は樹里を家まで送っていった。どこにも寄り道をしなかった。樹里の家に着くと、二人はさよならを言い合い、そのまま別れた。

緑谷は化学のおさらいをしながら歩いていたが、角を曲がったところで足を止めた。目の前に男が立っていた。

緑谷はその男に危うくぶつかってしまうところだった。不審に思いながら、男の横を通り過ぎようとすると、腕をグイと掴まれた。反射的に振り返ったが、目にしたものが衝撃的すぎて、しばらく時が止まってしまったようだった。

男の全身は真っ黒だった。人間のシルエットをした影と言ってもよかった。その影は夜の闇に完全に溶け込んでいた。夜の闇よりも少しだけ黒色が濃かったが、よく注意して見ないと、見過ごしてしまうほどだった。

緑谷は固まってしまって、動けなかった。影は目も鼻もないのっぺらぼうだったが、体全身が目となって、緑谷を睨みつけていた。

「気分が悪そうだな」影は言った。低い声だった。闇を感じさせると言ってもよかった。

「何なんです?」緑谷は震える声で言った。

「これは脅しだ」と影は宣告した。そして、その言葉通り、緑谷の首を掴むと、そのまま軽々と持ち上げた。

緑谷は息ができなくなった。足をブラブラと振り回すが、何の抵抗にもならなかった。彼は苦しいながらに、影をよく観察した。観察したところで、恐怖は募る一方だったが、相手の正体を見極めるためにも必要だった。

影の体からは、黒い煙が立ち上っていた。黒い煙は影よりも黒色が薄かった。そして、よく耳を澄ますと、火花の爆ぜるような音が聞こえた。影は今にも蒸発してしまいそうな様子だった。

影は緑谷を突き飛ばした。緑谷はコンクリートに背中を打ち付けると、その場に倒れ込んだ。

「私の言うことを聞いてくれるかな」影は言った。

緑谷はコンクリートにもたれるようにして座り込んだ。

「命が惜しければ二度と来ないことだ」影は警告した。

「どうして僕なんです?」緑谷は聞いた。

「暇だったからだよ」

「あなたはいったい何者なんです?」緑谷は聞いた。後から考えると、自分から話しかけるなんて命知らずにもほどがあった。だが、その時は恐怖のためか、「逃げる」という選択肢は頭の中になかった。

「俺が何者かって……典型的なサイコだよ」影は言った。「気まぐれで人を殺してしまうんだ。腹の中の獣が解き放たれると、収拾がつかなくなるんだ。人を殺すのにはもう飽きたけれど、これ以外に時間の潰し方を知らないものだから。明日には獣に乗っ取られているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。「神のみぞ知る」だよ」

影は気味の悪い哄笑を上げると、両腕を広げて、高らかに言った。「さあ迷子の子犬よ、おうちに帰りなさい。二度と戻ってくるんじゃないよ」

影は文字通り、溶けていった。全身からポタポタと、ハイタが滴り落ちていった。アイスが溶けるように、影はどんどん小さくなっていった。物凄い量の煙が噴き出して、辺りはほとんど真っ白になった。影は完全に消滅した。だが、地面には、大量のハイタが蠢いていた。ハイタたちは迷うように行ったり来たりしていたが、しばらくすると、一斉に同じ方向へと駆け出していった。そうして、タバコを吹かすように先端の棒を赤く燃え上がらせながら、手近のマンホールの中へと入っていった。

緑谷は愕然としていた。体から立ち上る煙、真っ黒な姿、そして、口に棒を咥えた小人、その全てが科学で説明できなかった。存在を否定したかったが、正真正銘の事実だった。すると、科学的な興味が沸いてきた。だが、もう二度と遭遇したくなかった。


その翌日、緑谷は樹里を家まで送ったが、なかなか帰ろうとしなかった。

「どうしたの?」樹里は聞いた。「顔色が変だよ」と笑った。

「そうかな?」緑谷は笑って、ごまかそうとした。

「体調でも悪いんじゃないの? 早く帰ったほうがいいよ」

「そうだね」と緑谷は言った。「じゃあ行くよ」

「うん、バイバイ」と樹里は手を振った。

緑谷は心臓が飛び出しそうだった。歩く速度をゆっくりにした。曲がり角はすぐそこだった。

視界が徐々にぼやけてきた。濃密な煙が辺りに充満していた。そして、血肉の焼け焦げたような強烈な煙臭さが漂ってきた。

緑谷は腹を括った。ゴングは鳴らされたのだ。男らしく挑むしかなかった。

角を曲がると、やはり影がいた。緑谷は立ち止まった。革靴の地面に当たる音が、洞窟の中にいるかのように、何重にも反響した。

その時、眩いライトとともに、車がこちらに向かって走ってきた。光に照らされた影はあまりにグロテスクだった。まるで全身にやけどを負った人間のようだった。全身は焼けただれており、シャワーでも浴びているように、ドロドロとした液体が体全体を覆っていた。そして、膿となって出てきたハイタたちは、途端にポンと破裂して、煙となって空へと昇華していった。

「ぶっ殺してやる。ぶっ殺してやる」影は虚ろな声で繰り返した。その声には、切迫さが表れていた。

緑谷は勇んで立ち向かった。恐怖が限界に達すると、不思議なことに、次には胆力が漲ってきて、向こう見ずで怖いもの知らずになれるのだった。

「来いよ、相手にしてやる」影は煽るように言った。

「気分が悪そうだね」と緑谷は言った。

「今から気分が良くなるところだよ」そう言うと、影は先制攻撃を仕掛けた。素早く腰を捻ると、高速パンチを繰り出した。

緑谷は腰を低めて、何とかよけた。そして、今度は彼の番だった。隙の出来た影の脇腹に、ストレートのパンチを思いきり叩き込んだ。物凄い衝撃があった。拳の骨が打ち震えて、それが全身に広がった。その分、手応えもあった。

影は屈みこむと、パンチを喰らった脇腹を押さえた。かなり消耗しているようだった。

「いつでも自分が勝てるってわけじゃないんですよ」と緑谷は言った。

影はじりじりと引き下がった。自分が負けたという事実に困惑しているようだった。恨めしそうに緑谷を見上げて、言った。

「お前なんかに負けるわけがない。お前なんかに」

影は立ち上がろうとするが、体勢を崩して、その場に屈みこんだ。完全に弱り切っていた。これ以上の戦いは無理だった。

影は諦めた。体温は上昇していた。火花の爆ぜる音はどんどん大きくなっていった。体の中で、ハイタたちは悲鳴を上げていた。もう時間切れだった。

「忘れるなよ」と影は忠告した。「これで終わったと思うのは大間違いだからな」

「いつでも相手になるよ」緑谷は言った。

「てめぇはタフだな」影は最後に言った。

ハイタたちが一斉に影の体から飛び出してきた。影は宙に四散して、消滅した。そして、飛び出したハイタたちは、急な坂道を上るように、空に向かって駆けていった。


樹里は第一志望の国立大学・工学部に合格した。緑谷も樹里と同じ国立大学・工学部に合格した。


「ポースティン?」とリフォーム業者は聞き返した。

杏樹はリフォーム業者を呼んでいた。その理由というのも、大外と連絡がつかなくなったからだった。長いこと辛抱して待っていたが、その間に天井板の歪曲がひどくなっていった。さすがに天井の抜ける恐れが出てきたため、とうとう別のリフォーム業者を呼んだのだった。そして、ポースティンについて話したところ、業者はキョトンとした顔で「ポースティン?」と聞き返してきた。

「はい、ポースティンです」杏樹はハッキリと言った。

「さあ」と言ったきり、リフォーム業者は考え込んだ。「聞いたことありませんね」

杏樹はポースティンを知った経緯について説明した。だが、リフォーム業者の顔色を見ているうちに、滑らかな話し声は徐々にスピードを落とし、訂正が繰り返し差し挟まれて、時間軸が前後に行ったり来たりした。自分でも要領を得なくなってきて、慌てて切り上げようとしたが、そのせいで、話の前半は不必要に描写が細かいのに、話の後半は割愛だらけの大跳躍で終わってしまうという有り様だった。

「会社名ってわかりますか?」リフォーム業者は不思議な顔をしたまま聞いた。

杏樹は古紙置き場をチェックしてみた。雑誌やチラシの間をくまなく探したが、見つからなかった。大外は様々な書類を杏樹に渡していた。再度うかがう旨の通知書も残っているはずだった。だが、どこにもなかった。

「ごめんなさい、ないです」杏樹の顔は赤らんだ。

リフォーム業者は天井に目を向けた。湾曲した天井板はほとんどU字型になっていた。

「かなり出てますね。すぐにでも直すべきなんですが」とリフォーム業者は杏樹を見た。

「ぜひ、お願いします」杏樹は俯いたまま、お願いした。

リフォーム業者は説明を始めた。工期は長くて三日間、板を取り換えるべきか、はじめに検査します。取り換える必要がなければ、今日の一日で修繕は終わります。説明は十分ほど続いた。作業項目が一つ一つ丁寧に説明された。

「お願いします」杏樹はもういちど頭を下げた。

リフォーム業者はしばらく天井板を点検すると、脚立から降りてきた。「板はそんなに弱っていないので、ビスで留めるだけで大丈夫です。作業は二、三十分で終わるんですが、今からやっても大丈夫ですか?」

「はい、そうしてください」杏樹は言った。

リフォーム業者はさっそく作業を開始した。拳銃の形をした道具を取り出すと、その先端にビスをセットして、天井板に打ち込んでいった。

杏樹は大外に思いを馳せた。大外さんは、どんな目的があって、私の家に来たのだろうか。嫌なことは一切されていない。むしろ、大外さんと顔を合わせるのを楽しみにしていた。ポースティンという謎の生き物について熱心に語り、クスっと笑ってしまう受け答えをした。ポマードの臭いは今でも鼻が覚えている。だけど、突然、大外さんはいなくなった。電話に出ないし、インターネットにも手掛かりはないし、書類もなくなっている。人に話せば、目の前のリフォーム業者さんのように奇怪な目つきで見られるだけだろう。なら、私だけの秘密にしよう。久しぶりにトキメキを感じたんだし、思い出だけでも独り占めにしてしまおう。

「作業が終わりました」とリフォーム業者は報告した。

杏樹は天井を見上げてみた。すっかり直っていた。直ってよかったけれど、やっぱり寂しかった。ポースティンのいる天井裏は閉鎖されてしまったのだ。大外さんとの関係も断ち切られたような気がした。

「これって、また天井板が歪み始めることはあるんですか?」樹里は聞いた。

「そうですね。年数が経つと、どうしてもそうなりますね」リフォーム業者は答えた。

「よかった」と樹里は口にした。これで大外さんとの関係は完全に断たれたわけじゃないんだ。また天井板が歪み始めれば、きっと現れるだろう。

戸惑っているリフォーム業者を前に、杏樹はもう一度、「よかった」と口にした。よかった、本当によかった。だって、また大外さんに会えるかもしれないんだから。

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