第3話 もうわかったでしょ
スマホの電源を落とし、巾着の中に突っ込む。
鼻緒が切れた下駄を指に引っ掛け、裸足の片足を引きずりながら一人とぼとぼと帰りの道を歩き出す。
人の流れに逆らって駅に向かうのはわたしだけだ。
みんな花火を見に行こうとしてる。
会場から少し離れたところに、小さな神社を見つけた。
石段をのぼり、いちばん上で座り込む。
灯篭の灯りで足もとを見ると、浴衣の裾は青に広く染まって、指は靴擦れを起こして真っ赤になっていた。
そっと触れただけで激痛が走る。
……もう、歩けそうもない。
わたしは大きくため息をついた。
「……なんでこうなっちゃうのかな……」
ぼそりと呟いたそのとき――どおん、と大きな音が夜空に響いた。
……花火が、始まった。
顔を上げても、ここからじゃなにも見えない。
音だけが聞こえて、光は全然届かない。
わたしは膝を抱えて丸くなった。
もう、なんなんだろう。
足は痛いし、浴衣は汚れるし、花火は始まっちゃうし、……挙げ句の果てには、新太郎までいなくなっちゃって。
新太郎には言わなかったけど、今日の花火大会、本当に楽しみにしてたんだ。
なんの予定もない、つまんないわたしの夏休みも、今年は素敵な思い出が作れると思ってたから。
……でも、今のわたしの状況は、楽しい思い出とは程遠い。
自分でもびっくりするくらい、すごく落ち込んで、すごく悲しい気持ちでいる。
全部、全部、嫌になる。
ほらね、やっぱり夏休みなんていいことないや。
「……新太郎のバカ」
一緒に見るはずだった花火が遠くで鳴るたび、胸をぎゅっと締めつける。
苦しくて、切なくて、涙が出そうになる。
今頃新太郎は、隣のクラスの女子と花火を見てるんだろうか。
まわりから見て、カップルに間違われるくらいの距離感で、隣に寄り添って――腕を組んで。
考えただけで、胸の奥がずきずきする。
うっとうしいくらいに胸を刺す。
痛くて痛くてたまらない。
なんでこんなに痛いんだろう。
お気に入りの浴衣が汚れたから?
楽しみにしていた花火が見られなかったから?
新太郎に置いてけぼりにされたから?
……ううん、きっとどれも違う。
あーあ、やだなあ。
こんな想い、気づかなきゃよかった。
気づきたくなんてなかったよ。
ずっと友達だったのに。
ずっと幼なじみだったのに。
だって、これって、わたし、新太郎のこと――。
「――かごめ!」
はっと顔を上げる。
新太郎の声だ。
裸足のまま立ち上がる。
階段の下、木々の合間の歩道の先に目をこらす。
わたしの名前を叫びながら走る、新太郎が見えた。
「……新太郎っ!」
答えるように名前を呼ぶ。
新太郎はこちらに気がつき、立ち止まった。
肩で大きく息をしている。
お互いに離れた距離で見つめ合う。
それからすぐ、新太郎は頭をがしがしと掻きむしった。
顔を上げると、石段を駆け足でのぼってくる。
目の前にやってきた新太郎はひどく汗だくだった。
シャツはびっしょり濡れていて、針のように細くまとまった髪からはぽたりと汗が滴っている。
わたしの姿を見た新太郎は、安心したように大きく息を吐いた。
「……かごめ、おまえなあ……」
「あ、あのね、新太郎、わたし――」
「――このバカっ!」
びくっと肩を揺らす。
突然の大声に心臓が大きく飛び跳ねた。
目を丸くして新太郎をじっと見る。
「なにやってんだ! どうしてこんなところにいるんだよ! こっちは見失ったと思ってあちこち必死に探したんだぞ! スマホも電源が切れてて電話も繋がらないし、俺がどれだけ心配したと思ってんだ!」
新太郎は眉をつり上げて、とても怖い顔をしていた。
わたしはあまりに驚いてなにも言えなかった。
……だって、こんなに怒った新太郎の顔なんて初めて見たから。
意を決して、おそるおそる口を開く。
「……新太郎、怒ってる……」
「当たり前だ、怒るに決まってる! 一緒に花火を見るって約束したのに勝手にいなくなって……いや、見失った俺も悪いよな、それはごめん。でもおまえ、なんにも言わないで帰るなんてひどいだろ。俺はおまえと花火を見るのを楽しみに――」
「楽しみにしてくれてたの?」
話を遮ってそう問うと、さっきまで怒っていた新太郎は猫のように目を丸くさせた。
それから口をもごもごさせて、わたしから視線をそらす。
「そ、そりゃあ……楽しみにしてたよ。かごめと一緒に花火大会なんて来られないと思ってたし。誘ったときだって、ダメ元だったんだ。……正直、俺とじゃ行きたくないって断られると思ってたから」
わたしは体の横でこぶしを握りしめた。
くちびるを噛み、首を横に振る。
「うそ、楽しみになんてしてなかったくせに。……いいよ、そういうのいらない。どうせわたしのことはついでだったんでしょ。……わたし、知ってるんだから」
わたしの言葉に、新太郎は眉をしかめた。
「はあ? なに言ってんだ。ついでってなんだよ。俺は最初から、かごめと二人で――」
「うそつかないでよ! 他の女の子と歩いてたくせに!」
急な大声に、新太郎の肩がぴくりと揺れたのがわかった。
自分で叫んだ言葉が頭の中をぐるぐるする。
考えたくないのに、わたし以外の女の子と嬉しそうに手を繋ぐ新太郎の姿が頭に浮かぶ。
……きっと、さっきまでそうしていたはずの新太郎の姿が。
「……たまたま会った友達が言ってたの。新太郎と隣のクラスの子が……腕を組んで歩いてた、って」
声が震える。
手も震える。
必死に平気を装っても、きっと新太郎には気づかれている。
うらめしい目で相手を見やった。
新太郎は気まずそうな表情でわたしから目をそらすと、「……あー」と声を漏らし、首の後ろを掻く。
ほらね、ビンゴ。最悪だ。
「……その子と待ち合わせしてたんでしょ。最初からわたしのことはついでだった。わかってるよ、もう。だからもういい。わたしは帰る。……新太郎は戻ってその子とデートしてきたら。邪魔してごめんね、ばいばい」
手に鼻緒の切れた下駄をぶら下げ、土で汚れた足で新太郎の横を通り過ぎる。
瞬間――手首を強い力で掴まれた。
「待てよ」
「待たない」
「待てって」
「――離してよ!」
振り解こうとして腕を大きく振る。
勢いで指から抜けた下駄が石段に叩きつけられて、からころと高い音を立てながら転がり落ちていく。
「もう構わないでよ、これ以上傷つきたくないの!」
「落ち着けって。全部かごめの勘違いだ」
「なにが勘違いだって言うの!?」
ああ、もうだめだ。
ずっと我慢していた涙が、想いと一緒にいっきに溢れ出す。
「新太郎だって、いい加減わたしに飽き飽きしてるでしょ。もう優しくしてくれなくていいよ。彼女でもなんでもないのに当然な顔して隣にいて、わたし以外の子と話しただけで嫉妬しちゃって。面倒だよね、わたしって。バカみたい。ほんと、バカ。
ねえ、もうわかったでしょ。……わたし、新太郎が好き。好きなの、大好き。
笑っていいよ。迷惑だって罵ってよ。わたしだって自分でわかってる。でもどうにもならないの。だって気づいちゃったんだもん、新太郎への気持ち。遅すぎるよね。わたしだって、こんな苦しいなら気づきたくなかったよ。新太郎の恋を応援してあげたかった。……だけど、できない。新太郎が他の子と幸せそうに笑ってる姿なんて、見ていられないの。それなら距離を置くしかないじゃない。もう今までどおりなんて無理だよ。だから放っておいて、わたしに構わないで。じゃないとわたし、きっとまた新太郎のこと――」
話を遮るように、新太郎が突然わたしの腕を引っ張った。
よろけた先には新太郎の胸があって――あっという間に抱きしめられる。
汗と、ほんのり甘い柔軟剤の香りが、夏の夜の蒸し暑さに溶けて、頭をくらくらさせる。
「……かごめってさ、こんなに小さかったっけ」
耳もとで聞こえる低い声に、はっとする。
な、なに、なんなのこの状況。
なんで抱きしめられてるの、わたし。
わけわかんない。
新太郎の腕の中から逃れようと、必死にもがく。
「わ、わたしはべつに小さくないし! 新太郎の身長が伸びただけでしょっ」
「そうかなあ。小学生のときまでは、かごめのがでかかったのにな。やっぱり同級生って感じしないな。すぐ泣くし、迷子になるし、本当に妹みたいだ」
――また妹だ。
どれだけ強く想いを吐き出したって、妹止まりのまま。
新太郎はきっと、わたしを恋愛対象としては見てくれない。
少しだけ、胸の奥がちくんとした。
「うるさい、そんなの知らない、離してよ、離してっ」
「嫌だ」
「意味わかんない、新太郎のバカ、バカバカバカっ」
「かごめのがバカだろ」
いっそう強く抱きしめられる。
苦しい。
なのに新太郎の匂いに包まれているのが幸せで、ずっとこのままでいたい気持ちになる。
離れたいのに、離れたくない。
心と体がばらばらだ。
……夏の暑さに当てられて、わたし、どうかしちゃったみたい。
新太郎は、やれやれとひとつため息を吐いた。
「かごめ、本当に勘違いしすぎ。かごめとはぐれてから、俺が違う女子といたってのは確かだけど……それは、たまたま会っただけだ。待ち合わせに遅れたのも、その子から電話がかかってきたから。
……正直言うと、一緒に花火大会に行こうって誘われたんだよ。だけど俺は、かごめと行くから断った。……いや、俺が、かごめと行きたかったから断ったんだ。悪いけどきみとは行けないってはっきり言った。だけど、どうしてもだめかって何度も聞かれて……なかなか電話を切らせてくれなかった。
電話では諦めてくれたけど、かごめを見失って探してるときに偶然会って、このまま一緒に花火を見ようってまた誘ってきたんだ。そのとき、向こうから無理やり腕を組んできた。……かごめの友達には、きっとその瞬間を見られてたんだな。
でもさ、俺はかごめが大切だから。すぐにかごめを探したんだ。そりゃもう、必死に探したんだぞ。
……そうしたらこんなところにいた」
先に帰ってるなんてひでーよなあ、と新太郎がぼやく。
涙が次々溢れてくる。
ああ、もう。
わたし、なにやってるんだろ。
一人で勝手に騒いで、勘違いして、傷ついて。
……本当にバカみたいだ。
「俺は最初から、かごめと花火を見たかった。めちゃくちゃ楽しみにしてたんだ。本当だぞ。……信じてくれるか?」
そんなの、わたしだってそうだよ。
新太郎には言っていなかったけれど……すごく、すごく、楽しみにしてたんだから。
新太郎の胸の中で小さく何度もうなずく。
新太郎は「よかった」と呟いて、わたしを抱きしめる腕をそっと離した。
目が合ってすぐ。
新太郎は、ふはっ、と吹き出す。
「顔、すげえことになってるぞ」
いつのまにか涙だけでなく汗と鼻水も流れるように出てきて、顔中ぐしょぐしょに濡れていた。
褒めてもらおうと頑張ったメイクも、きっと全部落ちている。
だけど、そんなこと、もうどうだっていい。
今はとめどなく溢れ出る涙を拭くことだけで精一杯だ。
そんなわたしを見て、新太郎は自分のシャツの裾でわたしの顔を拭ってくれる。
「うー、シャツびしょびしょなんだけど……」
「はは。すげえ走ったからな。汗だ汗」
やだ汚い、と言うと、新太郎はけらけらと笑う。
その顔を見たら、なんだかほっとして、胸の中のもやもやもどこかに消えて、わたしも泣き笑いみたくなった。
「やっと笑った顔が見られた」
新太郎はわたしの頭をぽんと撫でる。
「もう離れんなよ」
優しい声。
胸がきゅうっと締めつけられる。
ドキドキする。
甘くて、酸っぱくて、実ったばかりの果実みたいな想いに、胸の鼓動が速くなる。
たぶん、これが恋ってやつなんだ。
わたしは新太郎の目をまっすぐに見つめて言った。
「新太郎こそ、もう離さないで」
「……かごめ?」
「わたしの隣にいるのは、新太郎じゃなきゃ嫌なの。だからもうわたしのことを離さないで。見失ったりしないで。……わたしのこと、妹みたいに大切なんでしょ?」
新太郎は少しだけ驚いた顔を見せてから、すぐにいつもの表情で「おう」と返事をして白い歯を見せた。
「離さないし、見失わないよ。俺はかごめのことが、家族と同じくらい大切だからな」
はっきり言われて、わたしは目を伏せて口もとだけで笑う。
いいんだ。
新太郎のわたしに対するその想いが、たとえ家族同然でも、妹感覚だったとしても……大切に思ってくれているのであれば、今は全然――それでいいから。