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6.ナツの妄想

ナツは、湯船に身を沈めながら、ふうっと長い息を吐いた。

湯気が立ちこめるバスルーム。

熱い湯に包まれながらも、心の奥はずっとそわそわと落ち着かなかった。


「私が……雪さんと、両想い……」


湯の中でぽつりと呟いた言葉が、自分の声とは思えないほどか細く響いた。


信じられない。


胸の奥が張り裂けそうなほど嬉しい――そんな感情を、人生で初めて知った気がした。

ナツは二十二歳になるまで、誰とも付き合ったことがなかった。

恋愛に憧れはあった。でも、自分には縁がないものだと思っていた。

地味で、要領が悪くて、話すのも得意じゃない。

そんな自分を好きになってくれる人が現れるなんて、想像すらしたことがなかった。

だから、雪の告白が信じられなかった。


あんなに綺麗で、努力家で、強くて優しい人が、自分なんかを好きになるなんて。

夢みたいだった。


「でも……本当に、私でいいのかな……」


雪が自分を好きだと言ってくれたこと。それは間違いなく事実だ。

でも、ナツの心にはひとつだけ、どうしても消えない不安があった。


 ――雪さんは、本当に水月さんじゃなくて、私を見てくれてるのかな。


その想いは、ずっと心の奥底でくすぶっていた。

自分が書いた小説を通じて、自分を知ってくれた。

でも、もしかしたら、その中に描いた水月の姿に惹かれたんじゃないか。


 その文章の向こうにいる“自分”ではなく、“理想の水月”に――


「……でも、小説を書いてて、よかった……」

ナツは、小さく笑った。


誰にも必要とされていないと感じていたあの頃。

書くことでしか、自分を保てなかったあの頃。


それでも、言葉を紡ぐことだけはやめなかった。

その小説が、誰かの心を救い、自分にとってかけがえのない出会いを運んできたのだ。

ナツはふと、仕事での自分の姿を思い出す。



「申し訳ありません!」


無機質なオフィスの空気の中で、ナツの声が響いた。

冷たい蛍光灯の光が、上司の眉間に深く刻まれた皺を浮かび上がらせる。


「ミスは困るよ、どうするんだ」


無表情なまま、資料を机に叩きつけるように置く上司。

その音がナツの心に突き刺さる。


「今日中に……何とかします!」


震える声。パソコンのモニターが滲んで見える。

視線の先には、呆れ顔の同僚たち。


「同期の子は、もうみんな成績上げているのに、君だけだよ」


その言葉は、ナツの胸に重くのしかかった。


「はい、申し訳ありません……」


視線を落としながら絞り出した謝罪。

自分だけが取り残されていく感覚。

この場所に、自分の居場所なんてあるのだろうか――そんな疑念が、ナツの中に渦巻いていた。


証券会社に入社してから、ナツはずっと劣等感の中で生きてきた。

ミスばかりして、周囲からの信頼もなく、同僚たちからは陰で笑われていた。


「ねえ、見て、またあの子ミスったんだって」


「えー何回目なの?」


「しーっ、聞こえるよ」


それでもナツは、笑っているふりをして、ひたすら目立たないように毎日をやり過ごしていた。


そんな日々の中で唯一、誇れるものがあった。


 ――文章を書くこと。


大好きなアイドルを題材にした小説。

それは、誰にも見せられないナツだけの世界だった。

けれど、雪はそこに気づいてくれた。

ナツの物語に、心を動かしてくれた。

それだけで、救われた気がした。


「次に、雪さんに会えるの……楽しみだな」


胸が高鳴る。

会ったら、どんな話をしようか。

お揃いのものが欲しい。


一緒にカフェに行ったり、休日に映画を観に行ったり、そんな普通の時間を過ごせたら――


「雪さんは、どこに行きたいって言うかな……」


ナツは、知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。

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