60.両親の想い
ナツと雪が帰ったあと、静まり返ったリビングに、カップのふちを打つスプーンの音だけが残っていた。
母親は窓の外の曇り空を見上げながら、小さくつぶやいた。
「ナツが……女の子が好きだったなんて、ね……」
その声は、驚きでも非難でもなく、ただ現実を受け止めきれない心の重さをにじませていた。
父は黙って目を閉じたまま、その言葉を噛みしめ、涙をこらえているようだった。
やがて、口を開いた。
「……少なくとも、この家の跡継ぎは……難しくなった、わけだな」
その言葉に、母のまなざしが鋭く揺れた。
「あなた……。あなたは、ナツのことじゃなくて、“家のこと”しか考えていないの?」
「……そういうわけじゃない。ただ……俺は父を早くに亡くして、この家を必死で守ってきた。お前も知ってるだろう」
「わかってる。あなたが苦労してきたことも……あなたのお母さまと私が、どれだけぶつかってきたかも」
言いながら、母はソファの端に座りなおし、そっと手を重ねる。
「でも……ナツのことを思うと、家のことより、あの子が年をとってから、どんな人生を送るのか、そのほうがずっと心配なの」
「……そうだな」
父がうなずいた。
「もしかして……私たちが、いい家庭の姿を見せてあげられなかったから、こんなふうに……って思ってしまうの。私が、あなたのお母さまと揉めてばかりいたから、家庭って場所に、希望を持てなかったんじゃないかって……」
「……それが原因なら、そもそも恋人を作ることだってやめていただろう」
「……」
「ナツは、誰よりも自分の気持ちに正直で努力して生きようとする子だ。俺たちが反対しても、きっと止められないさ。……それに」
父はふと、カップを見下ろしてから、懐かしむような目をした。
「……小学生の頃のこと覚えてるか。かけっこで負けて泣いていた。それで俺が数日練習をみてやったんだ」
「ええ……負けたくないって火がついたら、止められない。小学生のくせに夜中まで走り回っていたわよね」
「そうだ。自分で決めたら、諦めずに自分の足で進んでいく子だった」
母は、ゆっくりと頷いた。
「……変わってないのかもね、あの子」
「そうだな。変わらない」
しばらくの沈黙のあと、母が言った。
「受け入れられるかは、わからない。でも、さいごまであの子の成長を見届けるわ」
「……俺もだ」
時計の秒針が、静かに回る。
二人は言葉少なに、けれど確かに、娘が選んだ道を――心の中で受け入れようとしていた。




