5.現実逃避
玄関の扉を閉めた瞬間、濡れた髪から雫がぽたりと床に落ちた。
靴も、ソックスも、服も、すべてが冷たく肌に貼りついている。
雨のせいだけではない。心の奥まで凍りついたようだった。
「……ただいま」
誰もいない部屋に、小さく呟いてみる。けれど返ってくる声はなかった。
そのことにもう驚きはしない。期待もしていない。
雪は重い鞄を自室に置くと、そのまま風呂場へ向かおうとした。
その時、不意にキッチンから母の声がした。
「あら、帰ってたの? ずぶ濡れじゃない」
「……うん」
「風邪ひくわよ」
「今からお風呂、入る」
目を合わせることはなかった。母もそれ以上、何も言わなかった。
脱衣所の明かりを点け、濡れた服を丁寧に脱いで洗濯機に放り込む。
湯を張った風呂に身を沈めた瞬間、雪は深く息を吐いた。
「ああ……」
体は少しずつ温まっていく。
けれど、心の奥に沈んだ冷たい鉛のような塊は、微動だにしなかった。
お湯の中でまぶたを閉じると、浮かんでくるのは、父の怒鳴り声だった。
――ばかやろう!
あの日のことは、今でも鮮明に思い出せる。家族の未来を託された娘が、突然アイドルを目指すと言い出した日。父は激怒した。
雪の部屋にあったレッスン着や参考書、CDやノート。
すべてを窓から庭に向かって投げ捨てられた。
「お父さん、お願い! 私、水月さんみたいなアイドルになりたいの。あきらめきれないの」
「もう十分やっただろ! 今度こそ弁護士試験に受かると思っていたのに、またくだらないレッスンなんかに時間を使っていたのか!」
「お願い……あと一回だけ……」
「知らん! もう何も支援しない。お前なんか、うちの子だと思わないからな」
その言葉に、雪は息をのんだ。涙をこらえる暇もなく、走り出していた。
庭に散らばった自分の夢の破片を、ひとつひとつ拾い集めながら――
あれから父とは一度も話していない。
食卓で顔を合わせても、雪がそこにいないかのように振る舞われるだけだ。
浴槽の中で見上げた天井がにじんで見えた。
けれど、それが湯気のせいか、涙のせいか、もう分からない。
部屋に戻り、タオルで髪を拭きながら、スマホを手に取った。
画面には、水月の笑顔が浮かんでいる。
「水月さん……」
触れられなかった髪。届かなかった想い。
あの帰り道、水月と葉月が乗ったタクシーを見送ったあと、ずっと雨の中で泣いていた。
なのに今、その涙さえも出てこない。
少しでも現実から目をそらしたくて、いつもの癖で小説サイトを開いた。
アイドルをテーマにした創作が集まる、SNSと連動した匿名の投稿サイト。
スクロールしていくと、見慣れないタイトルが目に止まった。
最初は軽い気持ちで読み始めた。
けれど数行で、雪の指は止まった。
「え……すごい……」
その文章の中にいる水月は、まるで本物の彼女のようだった。
笑い方、声の調子、仕草、細かい癖まで。
何もかも、まるで雪が見てきたままの水月が、そこにいた。
「どうして、この人……水月さんのこと、こんなに分かるの……?」
読み進めるほどに、心が解けていく気がした。
悲しさも、寂しさも、その文章に吸い込まれていった。
気づけば、あんなに冷たかった心が、じんわりと温かさを取り戻していた。
泣いていなかった。苦しかったはずなのに、今の雪の瞳に涙はなかった。
「明日も、更新されるかな……」
初めて感じる、小さな楽しみ。もう誰かに期待するのはやめたけれど
――けれどこの物語の中の誰かは、たしかに雪の孤独に寄り添ってくれた。
この日から、雪の夜は変わった。
毎晩その作家の小説を読むのが日課になった。
まだ会ったこともない“誰か”が、雪の世界をほんの少し、照らしてくれていた。
本日から1週間は毎日20時に更新予定。二人の関係がどんどん近づいていきます。お楽しみに。