56.やっと言えたコトバ
バーのドアを押し開け、ナツは夜の街へと駆け出した。
湿った風が肌を撫で、心のざわつきだけが体の中を巡る。
ポケットの中でスマートフォンが震えていることに気づいたのは、信号待ちの交差点だった。
──母 からの着信。
少し迷ってから、ナツはゆっくりと画面をタップする。
「……もしもし」
「あ、ナツ? よかった。やっとでてくれた」
母の声は、いつものように明るく朗らかで、どこか弾んでいた。
「来月、帰れる? この前言っていたお見合いの方が、日程合わせてくださるって」
「……うん、そうだね。帰ろうかな、来月」
口にした瞬間、自分でも驚くほど、声が軽かった。
その裏に何を隠しているのか、母は気づいていない。
「よかった。仕事も辞めるし、ようやく前向きになってきたのね。安心したわ」
「そういうわけじゃないよ……」
ナツは言いかけてから、言葉をのみ込む。
それを否定したところで、母の“希望”は変わらない。
「ねぇ、お母さん。来月って、お友達と旅行に行くって言ってなかった?」
「ああ、それね。結局行けなくなっちゃって。お友達が孫の面倒見ることになったのよ」
「……孫?」
「旦那さんが出張でいない日があるからって。仕方ないわよね」
ナツは小さく頷いたが、声には出さなかった。
「じゃあ、また日程が決まったら教えてね。来月、楽しみにしてるわ」
「……うん。わかった」
「健康に気をつけて、残りの仕事も頑張るのよ」
「……ありがとう」
通話が終わった後も、ナツはしばらくその場に立ち尽くしていた。
画面の光が消え、再び暗闇が包み込む。
行き交う人々の声も、車の音も、遠くに感じる。
胸の奥に、冷たい風が吹き抜けるようだった。
──空っぽだった。
雪との再会。
昔はあったはずの鼓動。
なのに今は、何も掴めていない。
ナツは自分の胸にそっと手を当てる。これでよかったんだと──。
「……一人娘が、“女の子が好き”って言ったら……傷つくよね」
ぽつりと、夜に落としたその言葉は、誰にも届かない。
でも──。
その瞬間、ふと目に映ったのはビルのサイネージにうつる雪の姿。
「……雪さん……」
風が髪を揺らし、街の灯りがぼやけてにじんだ。
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数日後。
ナツは、またBar RINを訪れていた。
カウンターの奥から、あやがふんわりと笑って迎える。
「ナツさん、いらっしゃい。今日、来てくれるって連絡してくれてありがとう」
「……あやちゃん、この前は、ごめんね。取り乱しちゃって」
「いいんですよ。雪さんとは……あれから何かありました?」
ナツは、小さく首を振る。
「……ううん。何も。……私、来月──お見合い、することにしたの」
あやの笑顔が、ふと止まる。
「……え?」
目を見開いたまま、あやは声を落とす。
「……ナツさん、この10年、雪さんのことずっと待ってたんじゃないの?ずっとずっと、好きだったんじゃないの?」
「……うん。好きだった。……でも」
ナツはゆっくりと、グラスの水に視線を落とす。
「やっぱり、雪さんを傷つけるのも……両親のことも、もう傷つけたくない。私が諦めれば、それで済むなら──それで、いいの」
「ナツさん……」
「でもね。会ってよかったとは思ってる。……雪さんの顔を久しぶりに見て、嬉しかった。すごく、すごく嬉しかったの」
その言葉に、あやは唇をかみしめるようにして、絞るような声で言った。
「それで、本当にいいの……?」
ナツは、小さくうなずく。けれど、その目は少し揺れていた。
「あのね、ナツさん。自分の人生を生きなきゃ駄目だよ」
「……」
「ねえ、どうして雪さんを好きになったの?──自分らしく夢を追ってた姿が、好きだったんじゃないの?ナツさんも、そうなりたいって思ってたんじゃないの?」
「あやちゃん……」
そのとき、横からオーナーが静かに声をかけた。
「あや、そんなに責めちゃダメだよ」
「……でも」
「ナツちゃんは、いま──だれが好き?」
あやとナツ、そしてオーナーのあいだに、しんと静寂が落ちる。
「私たちは、ナツちゃんの人生に関係ない。本音を言っても大丈夫。……だれも、傷つかない」
そっと促すように言われ、ナツは胸に手をあてるようにして──震える唇で、答えた。
「……それは、雪さんです」
その名前を口にした瞬間、ナツの目に一粒、涙がにじんだ。
「……そうだよね。じゃあ──いま雪ちゃんと付き合うとして、何が心配?」
「……両親のこと。それに、雪さんはアイドルだし。女性同士っていうのが、世間にはどう映るか……やっぱり、怖い」
「うん……もし両親が、“いいよ”って言ってくれたら?」
「……そんなの、ないよ。想像もできない。でも……」
ナツの言葉が途切れ、うつむきかけたそのときだった。
「じゃあ、私が──世間に、“女性と付き合ってる”って公言したら?」
その声は──カウンターの下から、不意に響いた。
「っ……え……?」
驚いたナツが顔をあげると、そこに雪の姿があった。
オーナーは深いため息を吐いた。
「はぁ……雪ちゃん、出番のタイミング、完璧すぎでしょ」
「……どうして、ここに……?」
ナツの声はかすれ、雪はまっすぐその目を見て答える。
「……聞いてたの、ごめん。でも、どうしても直接伝えたくて。……ナツ、私、あなたのことが好き!」
「……っ」
「もう一度、やり直させてほしい。……今度は逃げない。私、ナツの隣にいたい。今度こそ選択をまちがえたりしない──あなたと人生を、ちゃんと一緒に歩きたい」
ナツは、まるで夢を見ているように、雪を見つめていた。




