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55.恋に落ちる覚悟

「……雪さん。今日は、追いかけない方がいいですよ」


「でも……」


「ナツさん、恋愛恐怖症なんです」


「……どういうこと?」


「誰かを傷つけるのが怖くなったって。いい人がいても、自分からは踏み出せないみたいで」


雪は息を詰めた。


「……やっぱり、私のせいなんだ」


「認めたくないけど、まあ……そうだと思います」


「……ナツは、私のことを、まだ……」


「さあ。でも──」


あやはゆっくりグラスを拭きながら、つぶやく。


「ダンスを続けてた理由、“雪さんが隣にいるような気がしたから”って言ってました」


「……」


「でも今は、“前を向くために終わらせなきゃいけない”って。仕事を辞めるのも、雪さんを忘れるためかもしれません」


雪は、返す言葉を失っていた。


ナツの声も、笑顔も、手のひらの温度も──近づいたのに、すべてが、少しずつ、遠ざかっていくような気がした。


雪のグラスの中で氷が静かに揺れている。


「……雪さんは、この10年、事務所の恋愛禁止守ってたんですか?」


ふと漏れたあやの問いに、雪はゆっくりうなずいた。


「うん。守ってた。……というより……」


雪は苦笑し、グラスを見つめたまま、ぽつりとこぼす。


「ナツのこと、忘れられなかった」


あやの目が丸くなる。


「え……じゃあ、ずっと……?」


「そう。ずっと、ナツのことを想ってた」


そう言ったとき、雪の指先がグラスをきゅっと握りしめた。

氷がひとつ、音を立てて砕ける。


「……私ね、ほしいって思ったもの、いつも選び間違えちゃうのかもしれない」


あやが眉をひそめた。


「どういう意味ですか?」


「最初はね、水月さんみたいなアイドルになりたかった。

あの輝きがほしくて、努力して、ずっと走ってた」


雪の目に、当時の眩しさがちらりとよぎる。

けれどすぐに陰が落ちる。


「でも、ナツが現れて……気づいたら、ナツのことも欲しくなってた」


「……」


「だけど、デビューの直前に言われたの。『別れろ』って。

ナツとの関係がバレたら終わりだって。事務所に言われて──私は、アイドルを選んだ」


静かな店内に、雪の言葉が痛いほど響く。


「それって……ナツさんは知ってるんですか?」


「この前、全部話した。でも……」


雪は言葉を詰まらせた。


「信じてもらえなかった。……というより、アイドルの私とは、もう恋愛できないって。私を傷つけたくないって──そう言われた」


あやは、ふっと目を伏せる。


「それは……ナツさんがそう思うのも、仕方ないかもしれません。

雪さんはもう、みんなが知ってるアイドルで──ナツさんは、雪さんを傷つけたって、自分を責め続けてきたんですから」


その瞬間だった。

雪の頬を、一筋の涙が静かに…静かに流れ落ちた。


「っ……ご、ごめんなさい、私そんなつもりで……」


あわててタオルを差し出すあやに、雪はかすかに首を振った。


「違うの。あやちゃんは悪くない。……泣くなんて、自分でもびっくりしてる。昔は、泣いたことなんかなかったのに」


目を伏せた雪の肩が、ほんのわずかに震える。


「……私、この10年、いったい何をしてたんだろう。

ナツを忘れたふりをして、でも忘れられなくて。

ただ仕事に逃げて……」


雪はグラスの中の氷を見つめたまま、かすれた声でつぶやいた。


「ナツと……もう一度、恋愛することって、できるのかな……?」


その問いに、あやは一瞬言葉を探した。

手元のグラスを丁寧に拭きながら、やさしく、でもどこかはかない声音で答える。


「……できるとは思います。ナツさん、雪さんのこと……きっとまだ好きですよ。

だから、何か“きっかけ”さえあれば……」


「……きっかけ」



雪はその言葉を、ひとつひとつ噛みしめるように口にした。

見つめるグラスの底に、何かを探すように。


「ただ…」

あやが一言言いかけた、そのときだった。


「あや、それを言うのは……まだ早いよ」


横で黙って話を聞いていたオーナーが、低く、穏やかな声で口を挟んだ。

あやが一瞬、はっとしたように雪の顔を見る。


「……何の話?」


雪の眉がわずかに動いた。


「でも……でも、言わなきゃ……ナツさん、結婚しちゃうかもしれない」


あやの言葉に、空気が一瞬止まった。


「……結婚?」


「……あ……」


言ってしまった、という顔であやが口を押さえる。

オーナーが、ふぅと短く息を吐いて、ゆっくりと話しはじめた。


「ナツちゃんね。最近、お母さんからかなり強く“お見合い”を勧められてるみたいなの。結構な頻度で」


「……そんな……」


「もちろんナツちゃんは乗り気じゃない。でも……ご両親の理解も簡単じゃないし。

私たちは何も言わないけど、今のナツちゃんにとっては、男性でも女性でもきっと苦しい思いをするってわかるの。それなら世の中の普通に流されたほうが楽だって、ナツちゃんが思うかもしれない…男性が好きじゃなくてもね。そうすれば少なくとも両親を傷つけることはないんだから」


「そういう人、バーにも結構いらっしゃいますよね」


あやがオーナーの言葉にうなずきながら言った。


「子供がほしかったとか、家族の理解が得られなくて仕方なく男性と結婚したっていう人は、私くらいの年齢だったら結構いる。特に子供がほしいなら早めに決断しないといけないって思う人が多いから。子供産んで子育てが終わってから、こういうバーに顔を出す人だっているくらい」


雪は、声も出せずにただ息を呑んだ。


「気持ちがあるだけじゃ、だめなんだよ。その想いをどう形にするか。

それが大人の“選択”なんじゃないかな」


オーナーの声は静かだった。

けれど、その言葉には揺るぎない重みがあった。


「付き合えたらそれでいい? 20代の頃みたいに、恋に落ちて終わり?

──それとも、もっと先の未来まで考えてる?」


まっすぐに向けられた視線に、雪は一瞬、息を止めた。


「もし、ナツちゃんの人生を背負う覚悟がないなら……もう関わらない方がいい。

でも……それでも諦められないなら──中途半端な想いじゃ、ダメだよ」


店内に、氷の溶ける音だけが静かに響く。

雪は、その場に座ったまま、何も言えなかった。

けれど──胸の奥のどこかで、何かが、音を立てて動き出した気がした。


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