54.恋を終わらせた日から
片づけが終わったのは、夕方だった。
まだわずかに陽の残る空の下、ナツは「花」の扉を静かに開け、ひとり歩き出した。
その背中に、小さな声が追いかけてくる。
「……ナツ! 待って」
ナツは振り返らなかった。ただ、足を止める。
「……少しだけ、話せない?」
駆け寄ってきた雪が、息を切らしながら隣に並ぶ。
ナツは小さくうなずいた。
ふたりの間に流れるのは、どこかぎこちない、けれどどこか懐かしい空気だった。
*****
ふたりが向かったのは、街角のバー“Bar RIN”。
昼の光から夜の光へと切り替わる狭間の時間。
ネオンの明かりが、通りにやさしい輪郭を与えていた。
カウンターの喧騒から少し離れた、半個室のような静かな席に案内されると、ナツは少し戸惑った表情で椅子に腰を下ろした。
「意外だな。ナツが、こういう店に来るなんて」
「いえ……そんなこと、ないですよ」
「敬語、やめてって言ったじゃん」
雪の声は、少しだけ柔らかかった。
そのとき、あやがメニューを手に現れた。
「いらっしゃいませ、ナツさん。いつものでいいですか?」
「うん。お願いね、あやちゃん」
あやの視線が雪に向くと、ぱっと花が咲いたような笑顔になる。
「雪さん、お久しぶりです。わたし、覚えてますか? 一時期、Autumnの研究生だったあやです」
「えっ、あの……あやちゃん?」
「はい、そうです。覚えていてくれてうれしいです!」
「ここで働いてるんだね。元気そうで、よかった」
「ありがとうございます。雪さんの活躍見てました。ずっと素敵です」
「そんな……ありがとう」
雪は照れたように笑った。
その姿を、ナツは黙って見つめていた。
「メニュー、なににしますか? お任せもできますよ」
「じゃあ……お任せで」
「かしこまりました」
あやはナツに目配せをして、静かにその場を離れた。
“うまくいきますように”──そんな気持ちを、彼女の視線が語っていた。
しばしの沈黙。
最初に口をひらいたのは、やはり雪だった。
「……このお店、よく来るんだ?」
「うん……ここだけは、落ち着けるので」
「……ねえ、お願い。敬語はやめて」
「……わかった」
ほんの少しの間があった。
「この10年、どうしてたの?」
「ちゃんと働いてたよ。Springの編集者として」
「……そっか」
テーブルの上、ナツの手がすこしだけ震えていた。
雪は気づいているのかいないのか、淡々と続ける。
「さっき、Springを辞めるって言ってたよね。……やり直したいって、本当?」
「うん……前を向きたくて」
「じゃあ、前を向けてなかったってこと?」
ナツは言葉に詰まった。
「そういう意味じゃ……ないけど」
「それって──私が、原因…だよね?」
雪の声は、静かだった。
でも、ナツの胸には小さな爆弾のように落ちてきた。
「……ちがう」
視線を落としたナツは、かろうじてそれだけを口にした。
「……そっか」
雪はふっと視線をそらし、カウンターの方をぼんやりと見つめた。
「ねえ、ナツはさ……今、誰かと付き合ってるの?」
「……付き合ってないよ。あやちゃんとは……」
「……あやちゃんとは、ね」
雪がうっすら目を細めた。
「誰とも付き合ってない」
「……そうなんだ」
そのとき、空気を読むように、あやがドリンクを持って現れた。
「雪さん、ナツさんこの10年、毎週レッスンしてたんですよ。ダンスも歌も」
「え……?」
「ちょっと、あやちゃん……」
「いいじゃないですか。本当のことなんだから。ナツさん、たぶん自分からは言わないし」
「……もういいから、あやちゃん」
ナツは自分の事をベラベラと話すあやをカウンターに押しやり、少し荒い動作で席に戻った。
「やめてなかったんだ……ナツ」
「……最近、やめたよ」
「どうして続けてたの?」
「理由はないけど」
「けど?」
「……もう、あんまり聞かないで。用がないなら……私、帰る」
ナツが椅子を引いたそのとき、雪がその手首をつかんだ。
ぬくもりが、電気のように伝わってくる。
ナツはその手を、そっと見つめた。
「待って……ごめん。変なことばかり聞いて。でも、ナツのこと……久しぶりだし知りたくて」
ゆっくりと手を離す雪。その声に、ナツの瞳がわずかに揺れる。
けれど、すぐに、かすかに首を横に振った。
「……私、雪さんとは、もう恋愛しませんから。今日はこれで失礼します」
ナツは視線を合わせぬまま、走るように店を出た。
扉が閉まったそのあと、追いかけようとする雪の肩をあやがそっと押さえ、カウンター席へと促した。
「……雪さん。今日は、追いかけない方がいいですよ」




