53.まなざしの向こうに
昼食の席に、静かな緊張が漂っていた。
雪とナツのあいだには、一言もなかった。
葉月が箸を置き、小さくため息をつくと、重たい空気を振り払うように口を開いた。
「ねえ、雪ちゃん。ダンススタジオのオープン、順調なの?」
唐突な問いかけに、雪は少しだけ表情をゆるめた。
「……はい。なんとか。アイドル時代に貯めたお金で、どうにかまかなえそうです」
「そっか、よかった。お父さんとは……まだ何も?」
少しだけ、ナツの視線が雪の横顔に向けられる。
「ええ。縁を切られてから、もう実家には戻っていません」
「……そっか。アイドルとしてようやく認められたのに活動を休止して、スタジオ経営だもんね」
「父はずっと、私に弁護士になってほしかったんです。反対することは分かっていました。でも……縁を切ってよかったことも、たくさんあります」
ぽつりとこぼれた雪の言葉に、マスターがうなるように言った。
「俺は……娘と縁を切るなんて、悲しいことできないけどな」
「おじさんは、水月にすごく甘かったから」
葉月が笑って横目を送ると、マスターも「まあな」と肩をすくめた。
「父のことが嫌いだったわけじゃないんです。でも……私は、私の人生を生きたかった」
「いつかわかってくれる時がくるさ」
「そうだといいんですけど」
マスターの言葉に雪は、どこか遠くを見つめるように言い、少し寂しそうに微笑んだ。
沈黙が再び落ちかけたそのとき、マスターがふと語りだした。
「親ってのはな、子供が“普通”じゃないと、どうしても反対したがるんだ。世の中の“常識”に、子供を当てはめようとしてしまう。でも……水月が葉月と付き合ってるって聞いた時、俺は妙に納得したよ」
「えっ、本当に?」
葉月が目を丸くして聞き返すと、マスターは静かにうなずいた。
「ああ。あの子のことを、俺よりよく知ってるのは葉月だろうって。いつも隣にいて、守ってくれていた。……思い返したら、反対する理由が見つからなかった」
「……おじさんは理解あってよかった。今だから言えるけど、私の両親なんて、水月と付き合ってるって打ち明けたとき……泣くわ、怒るわ、大変だったんだから」
驚いたように雪が口をはさむ。
「そうだったんですか?」
「うん。“うちの娘が同性愛なんて”って。でもね、いろんな人がいるんだよ。見た目や育ちじゃない、生まれたときからそういう人もいれば、大人になって気づく人もいる。……私はどちらかといえば、後者だった」
葉月は、遠い記憶を思い出すように目を細めた。
「水月といたら、自分になかったピースが、ぴたりとはまったような感覚があったの。足りなかったパズルのかけらを、“異性だ”って思い込んでる人、多いんじゃないかなって、最近よく思う」
「……俺くらいの年になると、自分の歩んできた道を正当化する人間ばかりだ。でもな……知らなかったら、気づけない。こんなに身近に、当たり前に、当事者がいたことに。俺は……何も知らなかったよ」
ナツは、箸を止めたまま、ずっと黙っていた。
けれど葉月の言葉に、何か胸の奥が揺れた気がした。
水月と葉月。
同性同士でも、こんなふうに、当たり前に愛し合える世界があったのだと、目の前に証明されていた。
そのとき、ぽつりと雪が呟いた。
「私は…小さい頃から、父に言われてたんです。将来は、弁護士になって立派な男性と結婚して、子どもを産んで、安定した家庭を築けって」
ナツはそっと顔を上げて、雪を見た。
「だから大学のときは、弁護士の男性と付き合っていました。“好きなのは男性”って思い込んでたから。でも、“好き”って、心が勝手に向かうものなんだって、大人になってから気づきました」
「ところで、ナツちゃんは?」
不意に向けられた言葉に、ナツは箸を持つ手を止めた。
「こんなに久しぶりなのに、さっきから何も話してないよね」
葉月が穏やかに微笑みながら問いかける。
「え……」
ナツは一瞬だけ視線を泳がせた。目の前には、変わらぬ葉月と、静かに座る雪──
ふと、その横顔が、ほんのわずかにこちらを向いた気がした。
「ナツちゃんのこと教えてよ」
ナツは小さく息を吸い、覚悟を決めたように言葉を紡ぐ。
「えっと……年内で、Springを辞めることにしました」
「そっか……」
葉月がぽつりとつぶやき、少しだけ目を伏せる。彼女のまなざしが、ふと遠くへと彷徨った。
「どうして辞めるんだ? 事務所で、いろいろ事件があったからか?」
マスターの問いに、ナツは視線を落とした。
雪がナツをじっと見つめている。
そのまなざしは言葉よりもずっと真っすぐで、胸に突き刺さった。
「……それもありますけど。自分の人生を……やり直したくて」
「やり直しか……」
マスターが静かに頷く。
雪はなおもナツを見つめたまま、何も言わなかった。
「次の仕事は決めてるのか?」
「決めていません。少しの間、ゆっくりしようかなって……」
「それがいいよ。焦らなくても」
葉月の声が空気をやわらかく和らげる。
「辞めた時には、みんなでお祝いしよう、ナツちゃんの新しい始まりだから」
その言葉に、ナツはようやく微笑みを返す。
けれど──
その笑みの奥で、雪の視線はまだ、自分に向けられたまま。
まるで、心の奥まで見透かされているようだった。




