51.再会
お別れ会から数日後。
ナツは後輩のなみに、ようやくすべてを打ち明けていた。
「ナツ先輩と、あの雪さんに…そんなことがあったんですね」
「信じられないでしょ?」
「いえ、全然。むしろ、納得しました。…この前、葉月さんと話していたナツ先輩を見て、すごく大人で、だけどどこか寂しそうで。その理由が今日わかった気がします」
「……信じてくれるんだね」
「もちろんですよ。でもどうして、誰にも話さなかったんですか? 雪さんと知り合いだったこと、誰も知らなかったですよ」
ナツは少し笑って、曇った窓を見つめた。
「うん……なんていうか、あの1年って、本当に夢みたいだったから。全力で夢を追って、手にしたものもあった。でも、手のひらからこぼれ落ちたものもあって。それが、思い描いてたものと全然違って……。今になって思うの。私はこの10年、ずっと夢を見ていたんじゃないかなって」
「……それがどんな夢だったかは別として?」
「そう。夢って、いつかは覚めるから。私にとって、雪さんはその“夢の人”だったんだと思う。だから、もう終わりにしたいの。ずっとあの頃に縛られてたら、前を向けない」
「……ナツ先輩らしいですね。潔くて、優しくて、少し頑固」
「え?」
「私にとって、ナツ先輩は“憧れ”でした。強くて、努力家で、芯があって。水月さんに憧れた先輩みたいに、私も先輩に憧れてるんです」
「そんなふうに言ってもらえるなんて、うれしいな。ありがとう、なみちゃん」
「先輩。行ってください、雪さんのところに。今日は仕事早く終わりそうだし」
「……え?」
「夢だったのか、そうじゃなかったのか。答えは、きっと向こうにありますよ」
その言葉を胸に、ナツは傘をさして歩いていた。
向かう先は、雪のダンススタジオ。
止んだはずの雨が、また静かに舞いはじめていた。
スタジオの前で足を止め、ナツは迷うようにインターフォンに指を伸ばし、けれどすぐに引っ込めた。
ふと、見上げる。
灰色の空を裂くように、雲のすき間から一筋の光がさしていた。
「天使のはしご……」
その瞬間、扉が開く。
雪がそこにいた。
ふたりは言葉を失い、目を見合わせたまま、時間だけが過ぎていった。
「……ナツ」
「……雪さん。ご無沙汰してます」
震える声を押し殺すように、ナツは言った。
「どうして……ここに?」
「水月さんのお別れ会で葉月さんから聞きました。スタジオを開かれるって。お祝いを、と思って……」
「ありがとう。よかったら……中に入って?」
ナツは小さく頷いた。
真新しいスタジオの床に、ふたりの足音が淡く響く。どこか遠くの雨音だけが、静かに聞こえていた。
「元気だった…?」
「……はい」
ナツは深呼吸し、そして一気に言葉を吐き出した。
「雪さん、あの時は本当にごめんなさい。あれからずっと、謝りたくて……。でもそれだけじゃない。今日、ちゃんと伝えたくて来たんです」
「ナツ……」
「夢みたいな1年でした。でも、夢は夢。現実は……私が何も持ってなかったってことだけでした」
「そんな……」
雪が一歩近づこうとした瞬間、ナツが叫ぶように言った。
「近づかないでください!」
雪は足を止める。
「私、Springを辞めます。今年いっぱいで。この10年を手放すって、怖いです。でも……変わらなきゃいけない。だから、これでお別れしにきました。私なんか、雪さんにもう会えるような人間じゃないんです」
ナツがそう言い捨てるように背を向け、ドアノブに手をかけようとしたそのとき。
「待って――!」
雪の声が、刺すように響いた。
「夢なんかにしないでよ。あれは全部、現実だったよ。ナツと過ごした日々も、オーディションも、喧嘩も。忘れたことなんて、一度もない」
ナツは動けなかった。
「ねえ……こっち、向いて?」
しばらくの沈黙ののち、ナツがゆっくりと振り向いた。
涙でくしゃくしゃになった顔。子供みたいに泣いていた。
「ナツ……今すぐ、抱きしめっ」
「……だめです」
「どうして?」
「どうしても……だめ」
「わかった。じゃあ……近づくだけ、いい?」
ナツが小さく頷く。
雪はそっと近づき、ポケットからハンカチを取り出して、ナツの涙をそっと拭った。
「オーディションの時も……こうして泣いてたね」
「……」
「あなたは、私と一緒にいるために、あんなに頑張ってくれた。オーディションに、人生に、真正面からぶつかって……それを、私は支えきれなかった」
「違う……私のせいで……」
「違わないよ。ナツとのキス写真が、事務所に届いた。デビュー直前で……私は別れるように言われた。守れなかった。ナツを、守る覚悟が足りなかった」
ナツは、言葉を失ったまま、雪を見つめた。
「私はナツを……忘れたことなんか、一度もないよ」
その時だった。
スタジオの奥から、明るく通る声が響いた。
「雪さん! ゆきさーん!
このカリキュラムでいいか確認してくださいって。……お客様でしたか?」
声の主は、雪のマネージャーだった。
空気が一変する。
現実の波が、ふたりの足元まで押し寄せてくる。
雪は少し戸惑いながらも、振り返って声を返した。
「……うん。今、行く」
ナツは、その隙を縫うように口を開いた。
「私、もう帰ります」
扉へと歩き出そうとしたその背中に、雪の声が追いかける。
「待って、ナツ!」
ナツは、静かに立ち止まる。
「……今度の土曜日、空いてる?」
ナツは振り返らない。けれど、何も言わずに立ち尽くすその背に、雪は言葉を重ねた。
「喫茶店『花』に来て。店を閉めるんだって。葉月さんに……呼ばれてるの。私も一緒に行くことになってて」
その名前を聞いた瞬間、ナツの胸の奥に微かな痛みが走る。
過去と現在が、ゆっくりと交差しはじめる音がした。
「……仕事がなければ」
小さな声だった。けれど確かに、ナツは応えた。
その一言に、雪の表情がふっと和らぐ。
「ありがとう」
ナツは、もう一度だけ雪の方を見た。
目と目が合う。
何かを言いかけたその唇は、震えながら閉じられた。




