4.雪の過去の恋愛
外部の先生のレッスン会場。
窓の外には重たげな雲が垂れ込めていて、雨の気配がじっとりと空気に溶けていた。
鏡張りのスタジオでは、すでに誰もいないはずだった。
けれど雪は、まだ帰らずにいた。
鏡の前で、最後の振り付けを確認している水月の背中を、雪は黙って見つめていた。
その動きには、どこか幼さが残っていて、だけど目を離せない輝きがあった。
その動きを止めて帰ろうとする水月に、雪は思わず、声をかけていた。
「水月さん!」
水月が振り返る。
その笑顔がまっすぐに雪に向けられると、胸が痛くなる。
「雪ちゃん、お疲れ様。……気づいてたよ。さっきまで一人で復習してるの、見てたから」
「えっ、あ……はい。ありがとうございます」
この気持ちは言ってはいけないと、何度も言い聞かせていた。
分かっていた。水月さんは、もう誰かのものだと。
そして、その“誰か”は、決して勝てない相手だった。
高らかなヒールの音が近づいてくる。
その存在感は、言葉にしなくても空気を変える。葉月がやってきたのだ。
「ねぇ、雪ちゃんってさ……水月のこと、好きなの?」
――心臓が止まる音がした。
「え……?」
視線が交差する。まっすぐな葉月の目は、どこまでも見透かすようだった。
雪は言葉を失った。
だが、そんな空気をやわらげるように、水月がすぐに口を挟んだ。
「葉月、いじわる言わないで。雪ちゃんは私にとって、妹みたいな存在なんだから」
――妹。
その言葉が、刃のように胸に刺さる。
私は妹なんかじゃない。そう思った。でも、口にはできなかった。
「でも、雪ちゃんの方がしっかりしてそうだけどなぁ」
葉月が軽く笑うと、水月もつられて笑った。
「もー、また私のこと子ども扱いして」
「だって水月、おっちょこちょいなんだもん。さっきの振りも、ワンテンポ早かったし」
「うぅ……それ言わないでよ。ダンスは葉月の方が得意なんだから」
「ごめんごめん、後でちゃんと教えてあげるよ。機嫌なおしてよね?」
そう言いながら、葉月は水月の髪をなでた。
その手はとても自然で、迷いがなくて――何よりも親密だった。
それは、雪にとって触れてはいけない光だった。
たった数歩の距離にあるのに、決して届かないもの。
「そういえば、雪ちゃんさ、休憩中ずっとスマホ見てたけど、誰かと連絡取ってたの?」
「えっ……いえ、別に……」
「もしかして好きな人?」
水月が笑って覗き込む。
可愛い笑顔が近すぎて、雪は思わず顔をそむけた。
「そ、そんなわけないです……」
「嘘だ〜。目、泳いでるよ。どんな人なの?」
「……妹みたいな存在の……女の子です」
その瞬間、空気がふっと止まった。
「……あ、女の子なんだ」
水月は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑顔に戻った。
「ほら、雪ちゃん綺麗だからてっきり男の人かと。……私、鈍感かな?」
「……本当に」
葉月があきれたように言う。
「もう、水月ったら」
「あ、雨また降ってきたね。タクシー呼んでくるね!」
葉月が立ち上がり、空気を読んで場を離れる。
その瞬間を逃さず、雪は小さく唇を震わせながら言った。
「私、水月さんのことが好きなんです」
水月が、息をのんだ。
「……」
「でも、知ってます。水月さんは、葉月さんのものだって。……だから、私は何も言いません。
ただ、憧れていたんです。ずっとずっと……水月さんと、葉月さんに。お二人のような、素敵なアイドルになりたいって、そう思ってここまで来ました」
沈黙の中、優しい声が返ってきた。
「……ありがとう、雪ちゃん」
その言葉は、まるで告白を受け入れたような、だけど永遠に応えることはないと告げるような――淡く、温かく、残酷だった。
「おまたせー!タクシーもうすぐ来るって!」
葉月の明るい声が響く。
「ありがとう、葉月」
「雪ちゃんも乗っていく?」
「いえ……家、近いので」
「そっか、じゃあまた明日ね!」
「お二人とも……卒業公演、頑張ってください」
「ありがとう。雪ちゃんも、ね」
タクシーのドアが閉まる音。
エンジンの音とともに、二人の姿は遠ざかっていく。
――それを、雪は雨の中でいつまでも見送っていた。
傘を差すのも忘れて、ただぼんやりと。
頬をつたうのは、冷たい雨か、涙か。
分からなかった。ただ一つ確かなのは――
胸の奥に押し込めた想いは、もう戻らないということだった。