45.嵐のあとの静けさ
朝、目を覚ましたときには、雨の音はもう聞こえなかった。
けれど、部屋の中には、昨夜の湿った空気がまだ残っていた。
昨夜の嵐が、まだふたりのあいだに座り込んでいるかのように。
ナツは、ソファで眠る雪の姿を見つめていた。
あのまま、一言も交わさずに眠ってしまった彼女の横顔は、いつもより遠く見えた。
起こす声をかけるのに、少しだけ勇気がいった。
「……雪さん」
ゆっくりと目を開いた雪は、いつものように「おはよう」とは言わなかった。
目が合っても、微笑むことはなかった。
ナツはうつむいて、手の中でぐしゃぐしゃにしたハンカチを握りしめた。
「昨日のこと……ごめん。あんな言い方、するつもりじゃなかったの。私、ただ――」
雪は何も言わなかった。ただ、少しだけ視線を逸らして、立ち上がった。
その背中に、ナツはもう一度だけ縋るように声をかけた。
「ねえ、私たち……」
けれど、返ってきたのは、静かな沈黙だった。
そしてそれは、「もう気持ちは変わらない」と告げるには十分すぎる答えだった。
やがて、ふたりは駅へと向かった。
空はどこまでも青く、嘘のような晴天だった。
並んで歩くのに、ふたりのあいだには言葉がなかった。
何かを言えば、すべてが崩れてしまう気がして。
何も言わなければ、もう戻れない気がして。
そして――
ナツの電車の時間が来た。
改札の向こう、ホームに立った雪が見える。
ナツは何度も、言おうとした。「またね」と。「ごめんね」と。
でも、そのどれもが喉の奥に詰まったまま、声にならなかった。
ドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出す。
ナツは窓の向こうに立つ雪を見た。
雪は、立ち尽くしていた。何も言わず、何の表情も見せずに。ナツのことを見てはいない。
どんどん小さくなっていくその姿が、まるで過去そのもののようで。
手を伸ばしても、もう届かない。
やがて、雪の姿は、カーブの向こうに消えた。
その瞬間――
ナツの中で、何かが崩れ落ちた。
ぽろぽろと涙が落ちる。
止まらなかった。声を殺しても、涙は止まってくれなかった。
人目もはばからず、ナツは顔をうずめて泣き崩れた。
静かな朝の車内。
遠ざかる街並みの向こうに、取り返せない言葉と、ひとつの恋の終わりが残されていた。




