44.その日は雨だった
台風が関東を直撃したその夜。
21時を過ぎたばかりの空は、怒り狂うように唸りをあげ、風が窓を叩きつけていた。
引っ越して間もないナツは、部屋の片隅で初出勤の準備をしていた。
しかし、その心はここにあらずだった。
――ここしばらく、雪からの連絡がない。
そのことが胸の奥に、じくじくと沈殿していた。
そのとき、不意にスマホが震えた。画面に表示された名前に、指が止まる。
「電車止まった。今日は帰れそうにない。泊めてくれる?」
短いメッセージに、ナツは少しだけ間を置いて、“うん”とだけ返した。
けれど、胸の奥がきゅうっと痛んだ。
駅のホームに迎えに行くと、雪はびしょ濡れの姿で立っていた。
傘をさす指先は細かく震え、長い髪からは雫が滴っている。目の下のクマは、その身にまとった疲労を語っていた。
「……ごめん、急に」
それだけを告げた雪に、ナツは無言でうなずいた。
家までの道のり、二人の間には、ひとことも言葉が交わされなかった。
「……入って」
ナツが玄関を開けると、雨の滴が床にぽつりと落ちた。
その音さえ、ナツの心に鈍く響いた。
部屋に入っても、雪は何も言わない。
壁を作っているようだった。
「……ごめん。ちょっと、疲れてて」
「ううん、大丈夫。タオルあるよ」
ナツが差し出したタオルに、雪は無表情のまま受け取った。
再び沈黙がふたりを包む。
シャワーを終えた雪は、ナツの隣に腰を下ろし、何も言わずソファに身を投げた。
そして、ほんの数分でまるで逃げるように、目を閉じた。
ナツという存在が、そこになどいないかのように。
そのときだった。
ナツの中で、なにかが静かに、はっきりと、ぷつんと切れた。
「……ねえ、雪さん」
「……ん……?」
「どうしたの?」
雪ははっと目を開いたが、その目はどこにも焦点を結ばず、ただ宙を漂っていた。
「ううん……なんでもない」
「……なんでいつも何も言ってくれないの?」
「…」
ナツは唇をかみしめた。
「……ねえ、私、何のためにここにいるの? 雪さんの彼女なのに、話もしてくれない。今日ここに来たのは、ただ私を、都合よく使いたかっただけ?」
雪の喉が、何かを言いかけて詰まったように、かすかに揺れた。でも、言葉は出てこない。
その沈黙が、ナツにはなによりも残酷だった。
「……最近ずっと思ってた」
小さく、けれど凛と響くその言葉に、雪の肩がぴくりと揺れる。
「自分だけで抱え込んで、勝手に壊れていって……それで全部、中途半端になって。
そんなだから……Springに、受からなかったんだよ」
その瞬間だった。
空気が、一瞬で凍りついたように、部屋中の温度が変わった気がした。
雪が、ナツをゆっくりと、信じられないという表情で見つめた。
その目には、怒りも、悲しみも、失望もすべてを呑み込んだ、深い闇があった。
唇が、何かを言おうとして震え、そして、絞り出すような声で言った。
「……今、なんて言ったの?」
「……違う、今のは――」
「そう思ってたんだ。私のこと。ずっと……」
雪は立ち上がった。濡れた髪から、ぽたりと床に雫が落ちた。
その姿は、いまにも壊れそうだった。
声は震えていた。怒りか、悲しみか、悔しさか。たぶん、その全部だった。
「……ごめん。もう無理だ。……別れよ」
「……待って、私は――」
「……こんなふうになるなんて……だから駄目なんだよね、同性愛なんて。恋愛なんて……」
ナツの目に、涙がにじんだ。
けれど、それよりも早く、雷鳴が空を裂いた。
外では、暴風雨がガラスを打ちつけていた。
けれど、その音よりもずっと大きく、
ナツの胸の奥で、なにかが確かに、崩れ落ちた音がした。




